蘭学史料

◆片桐一男『伝播する蘭学』(勉誠出版、6000円+税、2015年3月30日発行)を読んでいる。著者は、江戸時代、唐商人(中国商人)は参府は許されずオランダ商館長が参府を許されたことから、この相違点が江戸に蘭学が発達する契機に作用したとする。さらに江戸からも離れ、長崎からも遠くに位置していた東北において、「東北の長崎」と呼ばれたほどの米沢蘭学の実態解明を目指したのが本書である。
◆目次は以下のようである。
はじめに
Ⅰ 直江兼続と医療
 一 医書の収集
 二 兼続の手抄本と謄写本
Ⅱ 上杉鷹山の指導のもとに
 一 藩医の遊学を奨める
 二 採薬師佐藤平三郎を招く
 三 痘瘡医津江栢寿を招く
 四 堀内素堂の『幼幼精義』
 五 「代薬」の開発
 六 備荒食物のすすめ
Ⅲ 堀内家文書を読み込む
 一 鷹山の膝痛、治広の足痛
 二 赤湯温泉と鷹山・忠意・素堂、そして
 三 西良仲と西良忠と堀内易庵
 四 公害論の先駆者、杉田玄白
 五 「加賀沢千軒」の碑に想う
 六 司馬江漢の銅版『地球全図』公刊秘話
 七 『人舎利品』一巻は天下の孤本か
 八 カタカナ表記のオランダことば
Ⅳ 阿蘭陀通詞と東北
 一 阿蘭陀通詞中山氏と庄内藩医中山氏
 二 鶴岡中山家文書
 三 阿蘭陀通詞馬場為八郎の伝えたオランダ語表記
 四 米沢配流の吉雄忠次郎
◆目次でもわかるように、戦国期の直江兼続の医薬への関心、江戸中期の上杉鷹山の遊学政策と、それに呼応する形で輩出してきた堀内家とその文書解読へとすすみ、米沢に配流されたオランダ通詞の足跡などを明らかにしている。かって高岡の長崎家文書を調査し、『蘭学、その江戸と北陸 大槻玄沢と長崎浩斎』(思文閣出版)を著した著者の、米沢調査での集大成といえる。
◆上杉鷹山といえば、広く海外にも知られた行政改革者であるが、じつは膝の痛みに長年苦しんでいたことと、その治療に江戸の杉田玄白からも診断と治療方針の教示を仰いでいることなどが明らかになり、鷹山のあらたな人間像が垣間見える。
◆『米沢藩医 堀内家文書 図版編・解題編』(米沢市医師会、非売品)との比較をしながら、書簡の読み込みをすすめるつもりだが、ともかく80歳をこえての著書であり、その健筆ぶりに敬意を表したい。

備前岡山の在村医中島家

◆『備前岡山の在村医中島家の歴史』(中島医家資料館・中島文書研究会編・思文閣出版、2015年11月21日、10000+税別、301頁)が出た。◆御当主の中島洋一氏の著した「中島家の歴史」のほか、松村紀明「地域医療研究の端緒としての中島家文文書」、木下浩「中島友玄と岡山県邑久郡における江戸末期から明治初期の種痘」、梶谷真司「事業者としての友玄ー製薬業からみた中島家の家業経営」、町泉寿郎「中島宗仙・友玄と一九世紀日本の漢蘭折衷医学」、清水信子「『胎産新書』諸本について」、鈴木則子「『回生鈎胞代臆』からみた中島友玄の産科医療」、平崎真右「地域社会における宗教者たち」、黒澤学「中島乴と明治期岡山の美笑流」などの論考と、史料解説、蔵書目録、中島家年表などからなる岡山邑久郡の在村医中島家の歴史を総合的に調査した研究報告書である。◆同家は300年前の大工職中島多四郎の子友三が一代限りの俗医(在村医)として医家となり、友三の子玄古の時代に専業医となった。18世紀後半、玄古の子宗仙の代には、京都で吉益南涯に古方を、長崎で西洋医学を学ぶようになった。宗仙の子友玄は、京都にでて、吉益北州に古方を、小石元瑞に漢蘭折衷などを学び、幕末期には、内科・外科医の医業のほかに、鍼灸治療や売薬業でも手広く営業し、明治5年には種痘医としても活動した。◆まさに、庶民が医師と医薬による医療を望むようになった時期から在村医が創出されるようなるのだが、中島医家もまたその流れに沿っていた。西洋医学が浸透しはじめると在村の漢方医らも蘭方を取り入れるようになるのだが、中島家もまた漢蘭折衷医としての医療活動を展開するようになる。中島家の歴史から、江戸時代医学史が見えてくる。同家には大量の医薬書のほか、診療記録、配剤記録、医療器具も残されている。◆在村医としての中島家の活動が、医薬書や配剤記録などとともに研究がさらに進展することで、江戸時代の在村蘭学の潮流と地域医療の近代化、庶民の知的水準の高まり・文化的傾向もまた明らかになることになる。多くの人々の目に触れてほしい本であり、医学史・文化史研究に寄与することの多い本である。

米沢藩医家の世界

◆米沢の上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」展が9月19日から11月23日まで開催されています。図録は、米沢藩の医家堀内家文書やシーボルト門人伊東省迪資料の紹介のほか、海原亮(住友史料館)や織田毅(シーボルト記念館)らの寄稿もあります。◆堀内家第5代堀内素堂は江戸に出て蘭方医坪井信道に師事し、伊東玄朴と一緒に診療活動を続けます。そしてドイツ人医師フーヘランドの小児科医書のオランダ語版を『幼々精義』(第1輯天保14年、第2輯弘化2年)に刊行します。この第1輯跋序文は坪井信道、跋文を杉田立卿、第2輯序文を箕作阮甫、跋文を伊東玄朴が書いており、我が国最初の小児科医書となっています。◆展示も図録も米沢藩医学の西洋医学導入の過程が、歴史的に見える展示になっています。米沢藩医家水野家門人姓名録からは、米沢の医家たちの修学過程も見えます。藩医学校好生堂蔵書目録からは、米沢藩の医家らが蔵書を借用して勉強していた様子も

野中家の解剖書

2015年09月29日

 洋学 at 08:55  | Comments(0) | 医学史
野中シンポでの青木報告の要旨です。
1. はじめに
 野中家の蔵書は、医薬書関係で和書類だけでおよそ1000冊を優に上回る規模であり、2013年10月17日の初調査以来、ほぼ毎月1泊2日の日程で継続調査と整理を続けてきた。
野中家は江戸時代初期より薬種商として代々経営を行ってきたので、漢方医薬書がその主要部分をなしている。時期的には戦国時代末期から、幕末明治期を主として現在に至る。なかには、東医宝鑑という朝鮮医書があり、本草綱目の寛文版と正徳版も存在しているなど書誌的にも興味深い。西洋医学の普及にともない、西洋医学の翻訳書や外科学書、洋文の原書も少なからず所蔵されている。
 本報告においては、野中家所蔵解剖書の『蔵志』、『施薬院解体図』、『解臓図賦』、『解屍新編』、『解体新正図』の5つの紹介と歴史的意義を考えてみたい。

2. 『蔵志』について(野中家本)
京都の医師山脇東洋が、宝暦4年(1754)に初めて、京都の六角獄舎で観臓を実施した。東洋は5年後の宝暦9年に『蔵志』を著した。

3. 『解屍編』について
山脇東洋の解剖に次いで、萩で宝暦8年に男屍、宝暦9年に女屍の解剖をおこなったのが、東洋門人で萩の医師栗山孝庵だった。
ついで、明和7年(1770)に元唐津藩医で古河藩医の河口信任が、解剖を行った。信任はドイツ人医師ウェスリングの解剖書を見つつ、初の頭部解剖を行った。こうして日本最初の頭部、脳・眼球の解剖を終えた信任は、この成果を明和八年までにまとめて、翌年『解屍編』として刊行した。解剖図を担当したのは余浚明である。

4. 『施薬院解体図』について(野中家本)
寛政10年(1798)、施薬院・三雲環善と山脇東海が主宰して、実施した34才男子解剖図で、元俊も招かれて都督として参加。画は吉村蘭洲、木下応受、吉村孝敬。序文は元俊、蘭文は大坂の蘭学者橋本宗吉が書いた。もっとも蘭学の影響がうかがえる解剖図である。京都大学図書館や早稲田大学図書館本が知られる。野中家本にはオランダ語の注釈がない。写本の途中で消えたものであろう。

5. 『解蔵図賦』について(野中家本)
文政4年(1821)、京都の蘭方医小森桃塢が主宰して、京都で、小森門人池田冬蔵らが執刀した解剖の本。翌5年に初版を刊行。参加者が総数123名。江戸期における最大規模の解剖であり、乳び管が初めて実見された。胸管が左鎖骨下静脈に入るところで、二つに分かれていることを実見して記録した。
6.『解屍新編』について(野中家本)
宝暦4年(1754)に山脇東洋が解剖を行ったのをきっかけに、全国で解剖を志すものがつぎつぎと現れた。下野では那須郡の儒者諸葛君測(琴台)が、河口信任の著した『解屍編』に疑問を抱き、寛政年間、日光で男屍の解剖がおこなわれ、『解屍新編』として描かれた。「寛政癸丑(1793)之冬」の日付で君測の序文がある。本書は、晁貞煥(俊章)著・元正匡輔画である。末尾に、文政10年(1827)8月23日に鈴木雅長が写したとある。富士川文庫にもう一冊写し(文政2年)がある。本書に「日光山御医師山中療養院蔵」とあることから、山中療養院の旧蔵であったことがわかる。
7.『解体新正図』について(野中家本)
下野国の壬生(みぶ)藩で、藩医の齋藤玄昌(玄正)、石崎正達らを会主として天保11(1840)年12月11日におこなわれた解剖に基づき、高倉東湖が水彩で描いた8葉の彩色解剖図。壬生の黒川上河岸の刑場で、上州の盗賊・万吉の刑屍体を払い下げ解剖をおこなった。『解体新正図』は、『解体正図』と同様に8枚の図からなり、末尾に「右者於野州仁良川解体、明治三庚午歳二月十六日、会主田谷隆輔 清斎印(禅山)とあるので、明治3年に仁良川(現下野市仁良川)陣屋で医師田谷隆輔が会主として牢死人を解剖し、それを清斎(印には禅山)とある絵師が、『解体正図』と同様に8枚の絵で描いたもの。6.7の記載や所蔵印から、これらは下野国の医師が所蔵していたものが、縁あって野中家に渡ったものとみられる。
  

新刊紹介 お雇いドイツ人教師

 お雇いドイツ人教師

2015年08月23日

 洋学 at 06:51  | Comments(0) | 書評 | 科学史
◆留守の間に、うれしい郵便物が届いていた。小澤健志『お雇い独逸人科学教師』(青史出版、2015年8月7日発行、213頁、5000円+税)だ。◆小澤さんは、巻末の略歴によると、昭和45年(1970)生まれで、長崎県の上五島出身。佐賀大学理工学部物理学科に入り、平成3~4年にミュンヘン工科大学物理学科留学。佐賀大学を卒業後、民間会社に勤務のかたわら、お雇い外国人、とくに物理・化学などのドイツ人科学教師の研究を続けてきて、博士(学術)号もとり、本書の出版に至った。◆内容は、第一章 幕末から明治初期における科学教育、第二章明治10年の東京大学設立までの前身校における独逸人科学教師、第三章G.ワグネルについて、第四章数学及び測地学教師E.クニッピング、第五章化学及び鉱物学教師C.シェンク、第六章日本への西洋理化学の啓蒙者の一人ヘルマン・リッター(1827~1874)について、第七章G.A.グレーフェンの足跡、第八章 アルフレット・ウエストファルの足跡、第九章 日本で最初の独国人独語教師V.ホルトについて、第十章、総括的考察と今後の課題となっている。◆本書の最も優れている点は、上記のあまり深く研究されてこなかったドイツ人科学教師について、我が国の文献だけでなく、ドイツ各地に残る関連文献や雑誌論文等も読解し、実証的に考察していることである。従って、従来のお雇いドイツ人研究者の見落としがちだった離日後の足跡まで丁寧に追っている。◆最初の出版であるため、序章やまとめのしかたにややぎこちなさを感じるところもあるが、それぞれの教師に対して全力で研究をした勢いと熱意が強く感じられるよい本である。公的機関や関係研究者各位の購読を期待したい。
  

新刊紹介 日蘭関係を読み解く

松方冬子編『日蘭関係史をよみとく(上巻つなぐひとびと)』(臨川書店、2015年6月30日、4200円)が出た。編者は、序論で江戸時代の日本は金銀銅の産出国であったこと、江戸時代の日蘭関係は国と国の関係でなく、かかわった人の関係であることとして、日蘭関係をつなぐ人々のありようからよみとくことにしたと述べた。つなぐひとびととした由来である。◆第1部日本とつきあうでは、第一章松方冬子「一七世紀中葉、ヨーロッパ勢力の日本遣使と『国書』、第二章福岡万里子「幕末の日蘭関係と諸外国ー仲介国としてのオランダー」、第三章パトリツィア・カリオティ(クレインス桂子訳)「長崎の唐人社会」で、外交使節、領事、唐人の人と交易関係を述べる。◆第2部長崎にすまうでは、第四章鈴木康子「天明前期の長崎情勢と長崎奉行の特質」、第五章松井洋子「出島とかかわる人々」、第六章イザベル・田中・ファンダーレン「オランダ通詞と「誤訳事件」-寛政の「半減商売令」をめぐって」で、長崎奉行、商館員、通詞などの長崎貿易にたずさわる人々の実態を述べた。◆第3部蘭書にまなぶでは、第七章益満まを「草創期の京都蘭学ー辻蘭室文庫の書誌的考察ー」、第八章上野晶子「江戸幕府の編纂事業における『厚生新編』と蘭学の「公学」化」、第九章勝盛典子「蘭学と美術ー北山寒厳・馬場良の事績と舶載の世界地図をめぐってー」では、京都の蘭学者辻蘭室にみる蘭学の浸透や、蘭学の幕府「公学」化、美術への影響を述べた。◆最後に編者は、下巻へのいざないとして、上巻が人をとおしての日蘭関係を描いたが、下巻はモノをとおしての日蘭関係を描くとした。じつに興味深い論考ばかりであり、時間をかけてよみとくことにしたい。

野中家シンポ

1. はじめに
野中家の蔵書は、医薬書関係で和書類だけでおよそ1000冊を優に上回る規模であり、2013年10月17日の初調査以来、ほぼ毎月1泊2日の日程で継続調査と整理を続けてきた。
野中家は江戸時代初期より薬種商として代々経営を行ってきたので、漢方医薬書がその主要部分をなしている。時期的には戦国時代末期から、幕末明治期を主として現在に至る。なかには、東医宝鑑という朝鮮医書があり、本草綱目の寛文版と正徳版も存在しているなど書誌的にも興味深い。西洋医学の普及にともない、西洋医学の翻訳書や外科学書、洋文の原書も少なからず所蔵されている。
本報告においては、野中家所蔵解剖書の『蔵志』、『施薬院解体図』、『解臓図賦』、『解屍新編』、『解体新正図』の5つの紹介と歴史的意義を考えてみたい。

2. 『蔵志』について(野中家本)
京都の医師山脇東洋が、宝暦4年(1754)に初めて、京都の六角獄舎で観臓を実施した。東洋は5年後の宝暦9年に『蔵志』を著した。

3. 『解屍編』について
山脇東洋の解剖に次いで、萩で宝暦8年に男屍、宝暦9年に女屍の解剖をおこなったのが、東洋門人で萩の医師栗山孝庵だった。
ついで、明和7年(1770)に元唐津藩医で古河藩医の河口信任が、解剖を行った。信任はドイツ人医師ウェスリングの解剖書を見つつ、初の頭部解剖を行った。こうして日本最初の頭部、脳・眼球の解剖を終えた信任は、この成果を明和八年までにまとめて、翌年『解屍編』として刊行した。解剖図を担当したのは余浚明である。

4. 『施薬院解体図』について(野中家本)
寛政10年(1798)、施薬院・三雲環善と山脇東海が主宰して、実施した34才男子解剖図で、元俊も招かれて都督として参加。画は吉村蘭洲、木下応受、吉村孝敬。序文は元俊、蘭文は大坂の蘭学者橋本宗吉が書いた。もっとも蘭学の影響がうかがえる解剖図である。京都大学図書館や早稲田大学図書館本が知られる。野中家本にはオランダ語の注釈がない。写本の途中で消えたものであろう。

5. 『解蔵図賦』について(野中家本)
文政4年(1821)、京都の蘭方医小森桃塢が主宰して、京都で、小森門人池田冬蔵らが執刀した解剖の本。翌5年に初版を刊行。参加者が総数123名。江戸期における最大規模の解剖であり、乳び管が初めて実見された。胸管が左鎖骨下静脈に入るところで、二つに分かれていることを実見して記録した。
6.『解屍新編』について(野中家本)
宝暦4年(1754)に山脇東洋が解剖を行ったのをきっかけに、全国で解剖を志すものがつぎつぎと現れた。下野では那須郡の儒者諸葛君測(琴台)が、河口信任の著した『解屍編』に疑問を抱き、寛政年間、日光で男屍の解剖がおこなわれ、『解屍新編』として描かれた。「寛政癸丑(1793)之冬」の日付で君測の序文がある。本書は、晁貞煥(俊章)著・元正匡輔画である。末尾に、文政10年(1827)8月23日に鈴木雅長が写したとある。富士川文庫にもう一冊写し(文政2年)がある。本書に「日光山御医師山中療養院蔵」とあることから、山中療養院の旧蔵であったことがわかる。
7.『解体新正図』について(野中家本)
『解体正図』は、下野国の壬生(みぶ)藩で、藩医の齋藤玄昌(玄正)、石崎正達らを会主として天保11(1840)年12月11日におこなわれた解剖に基づき、高倉東湖が水彩で描いた8葉の彩色解剖図。壬生の黒川上河岸の刑場で、上州の盗賊・万吉の刑屍体を払い下げ解剖をおこなった。『解体新正図』は、『解体正図』と同様に8枚の図からなり、末尾に「右者於野州仁良川解体、明治三庚午歳二月十六日、会主田谷隆輔 清斎印(禅山)とあるので、明治3年に仁良川(現下野市仁良川)陣屋で医師田谷隆輔が会主として牢死人を解剖し、それを清斎(印には禅山)とある絵師が、『解体正図』と同様に8枚の絵で描いたもの。6.7の記載や所蔵印から、これらは下野国の医師が所蔵していたものが、縁あって野中家に渡ったものとみられる。

緒方洪庵適塾の肥前門人

 適塾の門人は、『適々斎塾姓名録』には637人が記載されている。そのうち、肥前(佐賀県域)出身門人の動向をできるだけ紹介して、肥前(佐賀県域)の門人にとって緒方塾はどのような役割を期待されていたかを検討する。

 現在の佐賀県域出身の適塾門人は、以下の34人が知られる。番号は『適々斎塾姓名録』記載順。

佐賀県域出身門人一覧

33  迎文益   西肥神埼郡   佐賀県                           医→医

87  伊東玄敬           肥州藩       佐賀県   弘化三年九月一二日入塾 医→医

129  渋谷良耳          肥前佐賀     佐賀県                     医→医

130  志田春庵          肥前武雄     佐賀県                     医→医

131   坂本徳之助 肥前佐賀藩   佐賀県   嘉永元年初秋               医―医

134   佐野栄寿          肥前佐賀藩   佐賀県   嘉永元年中秋    1     医→官僚

135   宮田魯斎          肥前佐賀藩   佐賀県   嘉永元年中秋           医→医

161   大中玄哲          肥前佐賀中原、佐賀県、 嘉永二年七月一〇日入塾 医→医

172   尾形良益          肥前多久               佐賀県   嘉永二年九月二〇日入門 医→医

174   井上静軒          肥前佐賀               佐賀県   嘉永二年一〇月五日入門 医→医

176   朝日宗郁          肥前佐賀               佐賀県  嘉永二年一一月六日入門 医→医

229   中西仲英          肥前武雄               佐賀県  嘉永五年初夏            医→医

262   岩谷玄良          肥前武雄     佐賀県  嘉永六年五月          医→医

267   吉田泰春          西肥佐賀     佐賀県  嘉永六年六月          医→医

300   武富文益          肥前佐賀     佐賀県  嘉永六年        医→医

328   永尾卯吉郎 肥前藤木田中村佐賀県  安政二年三月二日入門  医→医

374   瀧野文道          肥前佐賀     佐賀県  安政三年四月二日入門  医→医

381   蒲原豊安          肥前佐賀    佐賀県   安政三年五月一七日入門 医→医

419   本野周造          肥前         佐賀県  安政四年七月二四日   医→ジャーナリスト

435   相良寛斎          肥州佐賀藩   佐賀県  安政五年二月八日入門  医→医

458   馬渡礼介          肥前佐賀     佐賀県  安政五年一〇月八日入門 医→医

463   河原謙吾          肥前佐賀     佐賀県  安政五年一一月二五日入門 医→ 医

474   西岡周碩          肥前佐賀藩  佐賀県   安政六年三月六日      医→法律家

480   西 春濤          肥州多久   佐賀県  安政六年三月一一日   医→医

492   小出文堂          西肥佐賀   佐賀県   安政六年六月四日入門  医→医

516  中野雲圭          鍋島藩     佐賀県 安政六年一二月一六日入門 医→医

546   大須賀道貞 肥州佐賀    佐賀県 万延元年六月九日入門  医→医

547   古賀元才           肥州佐賀  佐賀県 万延元年六月九日入門  医→医

548   福地文安  肥州佐賀       佐賀県 万延元年六月九日入門  医→医

573   花房元淑          西肥佐賀藩 佐賀県 万延二年二月二三日入門 医→医

574   後藤祐益           肥州佐賀  佐賀県 万延二年三月五日入門  医→医

207   中村俊策   肥前         佐賀県 嘉永二年五月入門      ―

475   斎藤春庵          肥前      佐賀県 安政六年三月六日      ―

476   角春静   肥前           佐賀県   安政六年三月六日      ―