史料紹介

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緒方春朔の人痘法

金鑑ノ種法ニ四等有リ、所謂衣苗・漿苗・水苗・旱苗也、

其衣苗ハ痘児ノ服スルトコロノ衣ヲシテ未ダ痘セザル児ニ着セシメ、且ツ痘氣ヲシテ傳染セシメルノ法ナリ、然レトモ此方粗術ニシテ應ゼス、

漿苗ハ痘満漿ヲ以テ其瘡頭ヲ破リ布ヲ以テ膿漿ヲ浸シ取ツテ是ヲ鼻孔中ニ滴テ入ル、其應甚ダ速ナリ、然レトモ、痘ヲ破漬シ膿ヲ取ラバ真氣漏脱シテ毒解セズ、其害不少、此法甚残忍ニワタル、必シモ従フヘカラズ、

水苗ハ痘痂ヲ末(マツ)シ、水一滴ヲ下シ和シ調ヘ、棗核ノ形ノ如クニ丸シ、紅線ヲ以テ拴定シ鼻孔中ニ納入シ止メ置コト六時、冬ハ温テ之ヲ用ユ、此法和平穏当ニシテ種方最上トス、予是ヲ試用ル事数回、終ニ其応ヲ見ズ

旱苗ハ痘痂屑を碾末シ、銀管中ニ盛リ鼻孔中ニ吹入ス、此法脱落ノ患無ク応験モ又速ニシテ捷径ナリト雖モ一時ニ吹入スル時ハ、迅烈堪難流涕数出、或ハ嚏リテ苗気脱泄シテ終ニ不応ニ至ル故、予ハ別ニ一方ヲ作意シテ、是ヲ用ユルニ、百発百中、一モ応セザルハ無シ。

司馬江漢の人痘法(春朔式)

予(江漢)肥後秋月の医に緒方春策((朔))と云人、江戸に在勤シテ同癖故に友たり、予此法を学んで一人の孫に種たり、時に一七日を過ると大熱出て、面部に漸/\三ツ四ツ出て遊ひなからひたちぬ、緒方氏ハ六百人をためしぬ、一人としてあやまちなし、故に必疑ふ事なかれ一痘を種んとせバ、十一月冬至の日より春の土用までのうちに、かるき疱瘡のかさふたの蒲団の上ニはら/\はらと落ちたるを、七ツ八ツも貰ひ、是を細末ニして、極小児ならハ寐たる時に、寐いきの呼吸にすゐ込ム様ニするにハ、細末の粉を耳かきにすくひ鼻の穴ニ当て吹く、生気吸生気ノ時すい込ム様ニすべし、鼻の穴へ吹入る法あれど、是ハむせてふき出スなり(小児快く病なき時ニうえべし)

一此種痘の法ニてハあとつかず、且て死すると云事なし、然し小児常に顔色あおく、虫気あるよわき生レの小児にハ種へからず

八丈島の種痘

原南陽『偶記巻之二』、『近世漢方医学書集成二〇』、原南陽三、名著出版、一九七九年、一三一~一三五頁。

是ヨリ先、天明年間、島内樫立村、痘疹流行ス、死者甚多シ、故ヲ以テ人心益々安カラズ。三根村ノ外十里ヲ路ヲ断ジ、往来ヲ禁ス。樫立村往年痘ヲ患フ役使之者、島吏三根村ニ趣((ママ))看護之死ル者止マズ、小民家ヲ捨テ妻子ヲ携、山中ニ遁走ス、(中略)樫立村男女九百余口、患者百三人、死者二十九人、末吉村去年臘月一人痘ヲ得(中略)末吉村男女八百余口、皆山中ニ逃去ル。患者五十五人、死者十五人、大賀郷預メ之ヲ防グ、村民与他村ノ往来ヲ禁、客歳季冬一人痘ヲ発スル者有り、速之ヲ遷ス、三根村郷中驚怖レ竄入ス、山中其痘死ヲ免レル事ヲ得ズ、亦餓死ヲ免レル事ヲ得ズ、里正等招諭シテ、産業ニ就シム、一人帰ル者無ク、山中ニ逃ル者痘ヲ得タリ、又之ヲ遷ス。三根村幾モ無ク患ル者相次タリ、悉ク暇アラズ、之ヲ遷ス男女千八百余口、患者百二十六人、死者四十七人(中略)、(中之郷)男女千余口、患者四十人、死者十三人。(中略)(青島)男女百五十余口、患者十九人、死者十三人

 

 

平成27年度 年間予定 

日時内容場所
7月4日第1回研究会多久市歴史民俗資料館
9月27日野中家シンポ(第7回地域学シンポジウム江戸時代の佐賀)佐賀大学教養教育111番教室

12月26日

第2回研究会熊本県立大学