基盤研究C「わが国種痘伝播と地域医療の近代化に関する史料集成を軸とする基礎的研究」(平成30から34年度)

基盤研究(C)(一般)1 8 K 0 0 9 3 0

わが国種痘伝播と地域医療の近代化に関する史料集成を軸とする基礎的研究

研究の目的

本研究は、種痘の我が国諸地域への伝播と地域医療の近代化の解明を目的とし、種痘史料の集大成をする。史料集刊行およびH
P等で情報公開し、医学史研究を一層進展させる。ジェンナーの発明した牛痘種法は、1849年に長崎に伝播し、数年のうちに全
国各地に伝播した。九州諸地域への種痘普及は、申請者を代表とする科研費研究「種痘伝来」(平成27~29年度)でかなり解明
しえたが、全国的な種痘展開と地域医療の近代化に関する研究は、解明が不十分である。全国諸地域への種痘普及の基礎的史料
の収集と公開が、医学史研究の発展のために必須と考え、①前提としての紅毛流医学や人痘法の普及、②在村蘭方医らの果たし
た役割、③公衆衛生・予防医学の芽生えともいえる諸藩の医療政策としての展開、④種痘普及が地域の医療近代化・医学教育に
どう影響したかなどを、地域別に解明し、医学史、科学史、文化史、近世史、近代史研究などに学術貢献する。

研究の実施計画

 5年間の研究期間に研究代表者は、1)全国各地の藩領・幕領の地域的・内容的に特色ある種痘史料を収集し、資料の整理、HP
への公開を行う。2)3年次以降、西日本編・中部編・東日本編として、順次史料集を刊行する。3)史料収集を通じて、全国各
地の種痘実施の地域的特色および実態解明をすすめる。4)史料分析により、種痘普及による医師のネットワーク、医学教育へ
の影響、地域医療の近代化の影響を明らかにする。
 物品購入は、医学史及び種痘関連書籍の購入等にあてる。旅費について、30年~34年度にかけては、西日本・近畿・中部・関
東・東日本・北海道と全国的に種痘史料調査をすすめる。また種痘史料所在地において、研究協力者との研究会を年一回は実施
し、地域の種痘史料を系統的に収集する。現時点の主要調査予定は以下の通りである。30年度は、山口県文書館(山口)、広島
県医学資料館(広島)、津山洋学資料館・中島家(岡山)、米原恭庵史料(島根)、原田謙堂史料(鳥取)、愛媛歴史文化博物
館・菅周庵史料(愛媛)、寺田志斎史料(高知)、井上勤(徳島)、中村恭安(香川)など。31年度は、有信堂(京都)、適塾
、加西市立図書館、浜口梧陵、高島郡マキノ町役場文書など。32年度の主な調査予定は福井市立郷土博物館(福井)、金沢大学
資料館(石川)、黒川良安(富山)、伊藤圭介(名古屋)、郡上医学校(岐阜)、信濃熊谷家(塩尻)。江川英龍文書(静岡)
、山梨県立博物館(山梨)など。33年度は、国立公文書館(東京)、順天堂(千葉)、安藤文沢(埼玉)、長沢理玄(群馬)、
斎藤玄昌(栃木)、茨城県立歴史館(茨城)など。34年度は、八角高遠史料・一関博物館(岩手)、小野寺丹元(宮城)ほか。
35年度は、市立函館図書館(北海道)ほか補充史料調査を実施する。人件費・謝金は、収集種痘史料の翻刻等のアルバイトの人
件費にあてる。
 現時点の研究協力者として、W.ミヒェル(研医会、九州大学名誉教授)は、北九州種痘史料、中津藩医学校形成史料、紅毛
流医学史料、大島明秀(熊本県立大学)は、東西文化交流史料・熊本藩領における種痘史料、海原亮(住友史料館)は、米沢・
福井・近畿の種痘史料や医学教育史料、松村紀明(帝京平成大学)は、岡山県及び中国地方の種痘史料・地域医療史料、胡光(
愛媛大学)は、紅毛流医学史料や四国の種痘史料などの調査研究に協力する。
 その他において、32年度以降、西日本、中部、東日本の種痘史料集を順次刊行するため各35~40万円をそれに当てる。

 

史料多久の種痘(2)

【史料3―23】嘉永六年(一八五三)一一月七日 医学校での再研修予定者名簿

一 医学館より左之人々呼出相成候ニ付一昨五日被罷出候処開業

  免札被相渡候旨於保玄庵より被相達候事

 

       松崎雲晧     於保玄庵

       松尾仲悦     岡橋文賢  

       梶原快堂     鈴山俊庵

       尾形春園     岩永仲健

       前山良意     三根道円

  免札左之通        

            長門殿家来

             尾形道純門人

     内科       於保玄庵

                六拾四才

    医道開業被

    差免候也

    嘉永六年

      丑十一月     医学寮  (医学寮印) 

                     ( 御屋形日記』)

 

【史料3―24】安政五年(一八五八)一二月一九日 好生館開講につき達

向正月十三日開講被相整義候条、医師中無洩、朝六ツ時半出席相成候様、将又、開講業以上、別紙書載之通、御酒被為頂戴候条、此御筋々可被相達候、以上

未十二月二十九日

                        好生館

右之趣承届候 以上

梶原喜兵衛

木下忠左衛門

諸家中

          写

        岡橋文賢 岡橋賢道 鈴山俊庵 山口元逸 鶴蔵六 尾形良益 松崎雲江 三根道圓 西春濤 松尾俊庵 池田文庵  尾形春圓 於保玄庵 於保高庵 吉田文仙 前山杏春 前山雲洞 前山良意 一鴎                   以上

                      (『御屋形日記』)

 

 

 

【史料3―25】安政七年三月三日 西洋法への転換のため、免札再発行につき達

  写   

医師之義厚以思召一統西洋法研究いたし候様被仰付置候付而、免札被相改候半而不相叶義ニ候条、左ニ書載之人々是迄被相渡置候免札之義来ル廿日迄之内、銘々持出、一先好生館相納候様、尤配剤御差留ニ相成候通ニ而、諸人難渋可有之候条、配剤丈ハ当分被指免置候条、此段筋々可被相達旨ニ候 已上  

                 岡橋文賢  同賢道 

                 鈴山俊庵  山口元逸

                 鶴蔵六   尾形良益 

                 松崎雲江  三根道圓 

                 西春濤   松尾俊益 

                 池田文庵  尾形春園 

               於保玄庵  於保高益 

               吉田文仙  前山杏春 

               前山雲洞  岩永仲健 

               前山良意

                     好生館 

 閏三月二日右之趣承知仕候 已上     (『御屋形日記』)

【史料3―26】安政七年(一八六〇)三月九日 医業免札の再発行につき達

    写  

一 医師之義人命ニ預り大切至極之業ニ付、猥ニ配剤不致様医師一統御試之上開業免札被相渡置候処、間ニは無其義執匙配剤いたし候向も有之哉ニ相聞不可然義ニ候条、急速差留相成候而、其段好生館達出相成候様被仰付義ニ候条、此段筋々可被相達候 以上   

申三月九日                 (『御屋形日記』)

 

【史料3―27】安政七年一〇月九日、多久領主より種痘手伝い医師への御苦労代

(前略) 

  一 金 壱両三朱  山口元逸

  一 金 壱両三朱  鶴蔵六

  一 金 壱両三朱  尾形良益

  一 金 壱両三朱  岡橋賢道

 右之者共義引痘方句伝別而太縁仕候付為御労出席之

 度数ニより書載之通可被為拝領欤   (松尾徳明『引痘方控』)

 

 

【史料3―27】万延元年(一八六〇)五月三日 『引痘方控』にみる多久への種痘の実施

一 多久出張  惣針六拾

  一 出張所 下多久 寺

  一 手助  鶴蔵六 尾形良益 岡橋賢道

  一 土産  筈紙弐

  一 手男市兵衛 

  一 八分                ( 『引痘方控』)

史料、多久の種痘(1)

【史料3―1】宝暦十二年(一七六二)四月二七日 鶴田相左衛門悴水痘につき疱瘡・水痘・麻疹等憚日数 

一 鶴田相左衛門忰水痘ニ仕候付日数憚等有之義ニ而者無之哉之由被相尋候処此方へ右之御定不相知付御用人へ申越候処疱瘡水痘麻疹憚左之通之由被申越候付相左衛門へ相達候事

疱瘡憚日数

一本人三番湯より五十日

一看病人并交人同十日

一悪疱瘡看病交五十日

水痘麻疹憚

一本人交壱番湯より十七日

右之通ニ候事               (『御屋形日記』)

 

【史料3―2】 明和七年(一七七〇)六月五日 長尾村疱瘡流行につき届け出

一 長尾村へ一両人疱瘡仕候段村気遣中より被及注進候付而御当役方相達其末御屋敷へも御用人中まで申越置候也( 『御屋形日記』)

 

【史料3―3】 天明四年(一七八四)一月二六日 多久領村々疱瘡流行に付き御屋敷出入り禁止日数定め

一 杢之允殿・外記殿・窪田宗左衛門・中西孫兵衛 

米倉勘左衛門出仕之事

      伺覚

  上々様方疱瘡御転除ニ付御家中 疱瘡仕候者佉又交之者御屋敷江用捨 日数左之通

被相定欤

一 疱瘡本人御屋敷中館赤松御屋敷 御屋形江壱番湯より日数五十日用捨可仕欤

一 右交者右同段壱番湯より日数二十日用捨 可仕欤

一 悪疱瘡看病人右同段日数五十日用捨

一 右交之者右同段日数二十日用捨可仕欤

一 此前疱瘡流行之節者

  御屋形御近辺江住居之者者疱瘡致付 

候上者立除候通被 仰付候併其通被 仰付候而   

者容易ニ立除向茂無之時節 

柄ニ付而者至極及難儀義御座候殊更疱瘡 

人之儀者病付候上脇方立除候儀養生方ニ 

相掛儀ニ而其通難被 仰付義欤与相見 

然者赤松御屋敷之儀御近辺迄立除候ニ

不相及御立切ニ而御転除被成儀御座候得者 

御屋形之儀茂右御同様被相調立除候而者 

不相及通可被 仰付欤尤 御屋形内役所有之候而者諸人デイ入多御座 

候得者松崎雲晧所迄当時御借入相成 

右場所吟味集中出勤仕候通被相調取次 

役所賦役所之儀茂右場所被相立扨又 

御勝手方御小物成役所勘定所之儀者 

会所長屋江被相移可然欤左候而 

御屋形之儀疱瘡交之者一向出入不仕通 

厳重ニ御立切ニ而御転除被成候通可被相調欤

      右之通吟味仕候如何可被 

仰付義請 

御定候已上

辰正月                   (『御屋形日記』)

 

【史料3―4】 天明四年(一七八四)二月一八日 尾形寿賢於稲様御付医師任命の事

 

貴札致拝見候依 於稲様被仰出候者 

御前御事自然疱瘡被遊候節者医 

師之儀尾形寿賢相勤候様可被 

仰付儀御座候然時者赤松御用医師 

之儀者別ニ不被仰付候而相叶間敷右 

医師人柄之儀於保文碩被 仰付置度 

由被 仰聞候依之被懸御吟味候処被 仰出候通自然

御前疱瘡被遊候節者赤松中館御用医 

師之儀者別ニ不被 仰付候而不相叶義御座 

候得者 於稲様被 仰出候通於保文碩定詰ニ被 仰付中館御用之儀も

文碩相兼相勤候様被 仰付可然欤与 

被懸御吟味候由以御紙上達 

御聴候処御吟味之通被 仰出候恐惶謹言以上

   二月七日   梶原荘兵衛

 多久外記様

追而本人御伺之通被 仰出候付

作州様 於稲様達 御聴被 聞召□候已上

                    (『御屋形日記』)

 

【史料3―5】寛政元年(一七八九)九月一二日 恒太郎多久屋敷行越に付き疱瘡流行地調  

一 恒太郎殿明十三日より御屋敷御行越ニ付疱瘡流行之 

場所御除道無之而不相叶付御道筋聞合之儀者 

御屋敷中館悉候末扇町筋ハ疱瘡有之候付扇町 

縄手より南田原道より里外通本庄町筋十五縄手 

御通被成支無之由申来候扨又長尾村江も流行 

いたし候付中山筋御通被成候事

                    (『御屋形日記』)

 

【史料3―6】寛政七年(一七九五)一月二七日の疱瘡流行に付き転除願いと忌み日取り決め伺い

     伺覚

御私領端村数ヵ所旧冬より疱瘡致付者有之段々人数相増 

義御座候就而者 作州様 於利恵様於与殿ニも御転除不 

被遊候而不相叶候跡方之例も御座候得共 御屋形近隣別 

紙書載之場所居住仕候者乍然病付候節者其家当分 

立退被相定置候憚日数相満候上致帰宿候様右日数等 

之儀者前方従 作州様被 仰出置候次第別紙之通 

御座候得共此節之義も其通被相定置可然欤扨又此末 

御構内疱瘡入込候節者是又跡方之御比竟を以三鏡坊 

義 御屋形罷出御祓相勤候被 仰付方ニて不在御座候欤

従是吟味仕候如何可被 仰付義奉伺候以上

   卯正月

疱瘡いたし付者 御屋形近隣立退候場所扨又右用捨

日数左之通

一 東ノ原石井助太夫宅より北西岡近太夫并足軽野中五郎兵衛倉島 忠太倉島嘉藤太迄

一 外小路窪園宗左衛門屋敷より野田園左衛門西屋敷堺構限

一 内小路一式

一 疱瘡本人御屋形用捨日数壱番湯より五十日之事

一 右交之者右同壱番湯より二十日之事

一 悪疱瘡看病人右同五十日之事

一 右交之者右同二十之事

                    (『御屋形日記』)

 

【史料3―7】寛政七年(一七九五)一一月一七日 疱瘡流行につき軽安祈祷実施触

一 今般疱瘡流行二付 袈裟五郎様為御軽安御祈祷被 

仰付之段被 仰出候由左之通申来候事

 貴札致拝見候今般疱瘡流行ニ付 袈裟五郎様  

為御軽安御祈祷可被仰付旨被 仰付置候右流行 

間於桐野山毎月二夜三日之御祈祷被 仰付可然処 

尤銭百五拾匁充御渡節ニ被相調方ニ而可有御座欤与 

被遂御吟味候条可相伺由致承知之御紙上を以申上 

候処御吟味之通被 仰出候恐惶謹言

        十一月十七日  久松源右衛門

       多久市之允様         (『御屋形日記』)

 

【史料3―8】 寛政七年(一七九五)一二月一一日 多久領主一族疱瘡転除祈祷 

一 作州様 御奥様 袈裟五郎様 於利恵様於与殿疱瘡御転除

  扨又 袈裟五郎様御軽安之為於桐野山毎月御祈祷被

  仰付候ニ付修法御日取左之通書付被差出被相伺候処伺之通被

  仰出候尤来月より者上旬之内御祈祷相整候様被 仰出候事

     疱瘡転除御祈祷修法

   山王御本地供 二夜三日

    十三日開白  十五日結願

     疱瘡軽安御祈祷修法

   山王御本地供 二夜三日

    二十一日開白 二十三日結願

      十二月吉樵祥日  桐野山     (『御屋形日記』)

 

【史料3―9】寛政一〇年一二月二三日 別府村より藩医沢野帯雲忰竜軒を申請候覚

一 別府村より医師申請之儀相願被相調候処、伺之通尤年限ニ相立先以三ヶ年位可被差免、扨又此節之儀者、御直医ニ候ハ御出入之儀ニ付被差免候、右比竟ニ而己後御直医申請候儀、向々例不相成候様旁被仰出候事    

    伺覚

 別府之儀、近辺医師無御座、貧窮之村柄ニ而、遠所より医師申請候儀不任力由ニ而、御直医沢野帯雲忰竜軒、当分別府町申請度段、別紙之通、別府村町庄屋共より相願候付、医術人柄之儀受合候様、御目付節相達候処、人柄宣医丈も相応ニ御座候由、別紙之通石井正右衛門より申達候、医師手遠之村方及難儀、殊ニ竜軒儀、医術人柄相応ニ御座候由ニ付而者、願之通被差免可然欤と吟味仕候、如何可被仰付哉奉伺己上

                    (『御屋形日記』)

【史料3―10】寛政一二年(一八〇〇)一二月一八日 疱瘡入り込みにつき屋形近隣立ち退き候日数

一 近日御構内疱瘡入込候付而ハ 作州様を始、御屋形 上々様為御転除前方之御比竟於 御屋形日祓三鏡坊被 仰付本人交等より用捨日数其外左書載之通可被 仰付候相伺候様其通被 仰出近日触達相成候左又疱瘡致付候人御屋形近隣立退候場所用捨日数左之通

一 東ノ原宮路武兵衛宅よ里西岡五郎兵衛足軽野中庄兵衛倉富忠太倉富嘉等太

一 外小路久松源五衛門屋敷よ里野田忠右衛門西境溝張

一 内小路一式

一 疱瘡本人 御屋形用捨日数壱番湯より五十日

一 右交之者右同二十日

一 悪疱瘡看病人右同五十日

一 右交之者右同二十日   以上

    申十二月             ( 『御屋形日記』)

 

【史料3―11】 享和元年(一八〇一)三月五日 松崎雲皓より疱瘡患者治療に付き、屋形勤め用捨願

一 松崎雲晧より御構内疱瘡流行ニ付療治方被差免度口上出左之通

     口上覚

 私義靏田重次郎扨又足軽米原五郎衛門次男近日熱気有之 

療治仕居候処両人とも疱瘡相成無拠相交候然者御屋形 

御匙之儀被 仰付置候へ共当時御構内医師無人有之手焼 

之者を忰元正壱人ニて御座候へハ疱瘡之儀至而悪病大切ニ病気 

柄ニ付両者彼者義年若ニて未熟様も有之無心元御座候得者 

疱瘡療治方扨又指図末以御上下御用ニも相立度御座候 

去秋共御匙御用も無御座候へハ疱瘡療治被差免被下度奉 

願候流行内諸病療治仕候半無拠相交事も御座候へハ乍然御用 

之節間違ニ相成候而不叶義ニ御座候へハ旁以誰そ御繰替を以被差免 

被下候様節々宜被仰整可被下義深重奉願候以上

    二月二十六日        松崎雲皓

右之通被相達候ニ付 作州様達 御聴候処西東御構内 

疱瘡流行之内之儀者願之通被差免候 

御屋形御匙差次之儀者於保道安被 仰付候事

                     ( 『役所日記』)

 

【史料3―12】文化四年(一八〇七)一月二一日 疱瘡本人交わりの者、御屋形憚り日数

一 疱瘡本人交之者 御屋形中館憚日数之義前方之例者 

左之通相成候様有之及触達事

    一 疱瘡本人日数五十日

    一 同交之者日数二十日

    一 悪疱瘡看病人日数五十日

    一 同交之者日数三十日     ( 『役所日記』)

【史料3―13】文化四年(一八〇七)八月八日 松崎雲皓儀疱瘡療治専任医とする事

一 医師詰之儀当時疱瘡流行之時節ニ付、松崎雲皓儀者右察治方ニ差出置申義ニ候得者何時疱瘡相済可申哉も難計此方之医師之儀差閊申候得者何薬ニ而可相済哉与存候右二付而ハ先以木下補拍義相勤候通申付置候已上

   八月七日              ( 『役所日記』)

【史料3―14】文化一〇年(一八一三)一一月月八日 御祝様疱瘡により死去につき喪中取り決め 

一 於祝様御事御疱瘡之末御養生不相叶候今朝御死去 

被成候今昼七ツ時飛脚来御穏便左之通

  一 御穏便二十七日之事

  一 謡乱舞唱物相止候事

  一 月代儀侍以上者御忌中日数二十日其以下ハ十七日用捨之事

  一 作事ハ日数五日相止候事

  一 御四十九日之間遊猟等処儀不仕相慎罷有様事

                     ( 『役所日記』)

 

【史料3―15】天保五年一〇月一七日 医学寮の設置に付き達

一 請役所より左写之通被相達候段申来候ニ付彦左衛門殿聞届之上御家中医師中江及触達候事

        写

   医業之儀人民撫育専容之儀二候処御領内良医師手寡郷村辺副者不及申、御城下近在も療治不行届躰之儀有之候而不相叶ニ付、今般古賀健道宅へ医学寮被相立候条、則今よ里右道場罷出致執行医道巧者之人多く出来御国用相立候通禄医者勿論町郷医ニ至迄一統相働一際致練磨候様与有之候条此段筋之懇ニ可被相達旨候、以上

    午九月            井手善太夫

                   深江八左衛門

     右之趣承届候以上

                   木下理左衛門

           諸家中    ( 『御屋形日記』)

 

【史料3―16】天保五年(一八三四)一二月一五日

       写

今般医学寮被相建候付、町医・郷医等迄一統出席致稽古候様最前被相達置候、就而ハ己来諸触達呼出御用有之候付諸家来并市中郷村居住之医師中各元居所年齢付取調子と当月中急度達出ニ相成候様筋々応ニ可被相達候己上

                     井上彦太夫

                    深江八左衛門

                    田中半右衛門

                 右之趣承届候己上

                    木下理左衛門

             居村年付調子書

          六十八歳  山口村    木下補柏

          二十七歳  補柏世忰   同 高庵

          五十歳   志久村    中山宗純

          四十二歳  別府村    松尾宗純

          二十七歳  納所村    鈴山俊庵

          五十三歳  上多久    靎田宗哲

                同所     池田宗沢

          四十六歳  宗沢世忰   同 三省

          十一歳   同所宗沢同居 尾形良吉郎

          三十八歳  同所外科   三根道圓

          五十歳   多久町    山口玄洞

          二十四歳  玄洞世忰   同 玄逸

          三十二歳  上多久    松崎雲皓

          三十四歳  志久村    岡橋文賢

          六十七歳  多久原村   西 元立

          十一歳   右同     於保辰三郎

          五十八歳  小田     山口玄智

          二十六歳  玄智世忰   同 友碩

          七十二歳  水ヶ江    於保高洞

          四十五歳  白山町    於保玄庵

          三十四歳  上佐嘉北里村 吉田宗賢

          二十五歳  水ヶ江    梶原林仙

          十五歳   高尾     尾形常次郎

          五十四歳  水ヶ江針治  岩永仲健

          四十四歳  材木町    前山三立

               ( 『御屋形日記』)

 

【史料3―17】 嘉永二年(一八四九)三月八日 疱瘡交そのほか屋敷遠慮の取り決め

一筆致啓達候

御前御事御疱瘡御転除ニ付而疱瘡交 

其外御屋敷遠慮之儀別紙之通被 仰出候ニ付

別紙差越候条御当役方被相達一統 

其心得相成候様可被御取計候此段為可申越如斯

御座候恐惶謹言

  三月七日    相浦武兵衛

 蒲原形左衛門様

   御屋敷疱瘡憚日数左之通

一 疱瘡本人壱番湯より日数三十日

一 同看病人日数十五日

一 同交日数七日

一 悪疱瘡看病人日数三十日

一 同交日数十五日

右ハ

御身辺勤之人々遠慮御行列立ニ入在前同段

一 疱瘡本人壱番湯より日数三十日

一 同看病人日数七日

一 同交日数三日

一 悪疱瘡看病人日数十五日

一 同交日数七日

  右ハ 御身辺之外遠慮      ( 『役所日記』)

 

【史料3―18】嘉永二年(一八四九)八月一二日 牛痘佐賀城下伝来につき引痘方設置達

     写

此節蘭人牛痘之種持渡、於長崎引痘相成候趣相聞候付、右種御領内

相広り候様御内二思召を以、御医師之内出崎被仰付候末、今般右種

御取寄相成候付、左ニ書載之人江引痘被仰付候、右牛痘ニ而引痘相成候半者、別而軽安之儀ニ而別条無之者之由候処、自然妄之種方等相整如何之儀茂致出来、人々疑惑を懐候儀等者有之候而ハ、御主意不相叶候末、引痘方扨又右懸り合被仰付候人之外妄之取計無之様吃度筋々相達相成候様之事

 

  酉            引痘方 

   八月           水町昌庵

                馬渡耕雲 

                牧 春堂

                大石良英

              右懸り合

                永松玄洋

              武左衛門弟

                山口((村))良哲

             安房殿家来

                外尾文庵  ( 『御屋形日記』)

 

【史料3―19】 嘉永二年(一八四九)八月一五日 楢林宗建、呉服町本陣にて種痘開始の達

      写

此度引痘ニ付楢林宗建痘児召越罷越候付、呉服町本陣旅宿ニ被指出置、於彼方種方致来候得共、此後より所ハ於何方種方相成可然哉、引痘方より達出相成候、右ハ一先打追之通、右本陣之引痘場所より指出候条、為心得筋々相達候様之事

  酉八月                ( 『日記』)

 

【史料3―20】 嘉永二年(一八四九)八月二二日 萬太郎様種痘成功  

一 萬太郎殿御事去る十六日引痘植方被相整候処、昨日亘り弥疱瘡相決候由使を以被御申上候、

右ニ付多久 御越中ニ付申上ニ相成候様ニ相浦武兵衛迄申越候、且又於節様御方ニ茂申上ニ相成候様瀬田八左衛門迄申越候事

                         ( 『日記』)

※多久領主の子萬太郎とは、茂族の弟である。

 

【史料3―21】 嘉永三年(一八五〇)九月一八日 尾形良益、京都から江戸表医学稽古願

私儀、為医道稽古、京都遊学仕、去秋より一ヶ年御暇奉願次候処、願之通被宥免、御蔭ニ稽古仕候、当秋罷帰候由ニ不相叶候ヘ共、江戸表罷越、尚又稽古仕度奉存候之只今より今又一ヶ年御暇奉願次候条、支所無御座候由、何卒願之通被差免被下候様、筋々宜御礼達致御頼候、

                           己上

 戌八月             尾形良益

    田上新右衛門殿

    鶴田羽左衛門殿          (『御屋形日記』)

 

【史料3―22】 嘉永四年(一八五一)二月一五日 医業免札制度の開始

         写

今般医業御勤付医学寮被相立候条、御直之医師者勿論、陪臣又者無扶持之者たりとも、医学寮ニ於いて試業相成格別昇達之者開業宥免候証文医学寮心使免より差出相成儀候

一 開業無之人ハ治療方不相叶儀条右手〆之儀其懸りニ而相整候様

一 医生ニ無之向療治いたし候者、即今より吃度取止ニ相成様、右之通被仰付候条、此段筋々可被相達候事

  亥二月                 野田文七

                      中野兵衛門

                      井上丈左衛門 

 

口上覚           伊東次兵衛   ( 『役所日記』)

種痘伝来科研報告書

科研の成果公開として、『天然痘との闘いー九州の種痘ー』(岩田書院)を出版します。

以下の内容 

口絵                              2頁

目次                             1頁

 はじめに     ・・・・・・・・・・・・青木歳幸 (1頁)

 天然痘について・・・・・・・・・・・・・・相川正臣(?)10頁

 九州の種痘概要・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   10頁

◎佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

◎ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

◎人痘法の普及 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

◎牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

◎佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

◎多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

◎中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 37頁

◎熊本藩の治痘           ・・・・・大島明秀・・14頁  

◎宮崎の種痘(仮)・・若山健海を中心に・・・ 海原 亮・・10頁

◎薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

◎大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

◎黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁

 長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・相川正臣・・・15頁

 小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸  12頁

◎武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・W・ミヒェル・・15頁

 沖縄の種痘(未定)・・・・・・・・・・・青木歳幸・・・10頁

◎長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

◎久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・12頁

                          329頁

佐賀医人伝、犬尾文郁

 佐賀医人伝物語
犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 
       諫早領主侍医・内科医
 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。
 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。
 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。
 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。
 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。
 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。
【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑
写真解説 
①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。
②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。
③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある
④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。
⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。

佐賀医人伝を執筆してー天野房太郞ー

『佐賀医人伝』メモ(2)

天野房太郞。唐津出身医師。ずっと以前に医史跡マップ作成のときに、伊万里市へ調査にでかけ、写真撮影をしたことがあった。今回、再度、碑文調査のため、昨年10月19日に、再調査にでかけた。7.8年前は、伊万里市波多津町辻の高尾山公園も整備されていたが、今回はベンチも汚れ、人影もなく、やや寂れていた。天野翁頌徳碑は、高尾山公園の中腹の、金比羅社参道中腹にあった。碑文は、風化していて読みにくかったが、幸い、『伊万里市の碑文』という先駆的研究で解読してあったので、確かめつつ、記録した。
 ただ、碑文には唐津藩士の子とあるだけで、着到帳などで確かめることができなかったことや現在の御子孫が不明なのが残念。
 ただし、唐津藩士天野家出身者といえば、東京専門学校(早稲田)で教鞭をとった経済学者天野為之が知られる。為之は、唐津藩江戸屋敷詰の唐津藩医天野松庵、藩医天野松庵・鏡子夫妻の長男として生まれたとあるので、おそらく天野房太郞と親戚筋であろう。今後の課題でもある。

天野房太郎(文久二年~昭和一六年、一八六二~一九四一)                唐津の仁医

唐津藩士の子として生まれ、好生館で修業後、東京で細菌法医学精神学校衛生諸科に学び、明治二六年(一八九三)、波多津村辻(現伊万里市)で開業した。以来三〇年、患者の貧富の別なく、薬代や治療費も安くし、近くも遠くも平等に治療するという医は仁術の精神で、地域医療に従事した。大正一一年(一九二二)、房太郎六〇歳を記念して、区長ら一二名がその寿福無窮を願って頌徳碑を発起し、正三位子爵小笠原長生(ながなり)(旧唐津藩主)の書になる碑を、高尾山公園に建立した。
君通称房太郎、唐津藩士也、少壮学於佐賀医学校、事業後、及第於医術開業試験而為医士、君不満仮之、更登東都、究納菌法医精神学校衛生諸科之蓮奥、帰来歴任于検疫官・学校医・村医等、明治二十六年開業於波多津村、春風秋雨三十年如一日矣而、君之接患者也不問親疎、不論貧富、慎重懇切至矣尽矣、遠近知與不知、皆集君門、君慈仁博愛、恤無告救窮之、其開業之初、先廃診料、低薬価、宏開施療、齋生之道、得一村之保健悉依君而安定、人々以欽仰軒岐、頌揚其高徳。今茲大正十一年、君齢達耳順、元気益々旺盛精励、于業務壮者亦不及焉、業間或親書畫、或愛謡曲、以大発揮英雄、胸中閑日月児孫詵々満干内、和気洋々益于可以知、君之前途躋、古稀・米齢而九十而、百積善之寿域、尚無窮、茲村有志胥謀、欲勒(刻)君之高徳、於石以伝于不朽、令予叙之、銘日 術究軒岐 徳覃西郷以寿以福 山高水長

大正十一年十月中幹 正三位子爵小笠原長生書、西松浦郡長正六位勲五等福田三郎選
【参考】『波多津町誌』(一九九九)、『伊万里市史』教育・人物編(二〇〇三)、『伊万里市の碑文』(二〇〇五)。

シーボルト記念館鳴滝紀要27号

◆シーボルト記念館鳴滝紀要27号が届いた。遠藤正治「シーボルト編『日本植物目録』の改訂稿について」、マテイ・フォラー「シーボルトと北斎」、堅田智子「シーボルト、ミシャリエス、スクリバの明治」、町田明広「シーボルト書簡の新発見」、織田毅「近世中後期における長崎・出島の労働者について」などの内容を掲載。◆とくに『日本植物目録』とシーボルトの書簡新発見は、洋学研究史上重要な意義を持っている。これらの資料は京都の古書店主若林正治氏の旧蔵で、雄松堂書店(当時)の仲介で、神田外国語大学附属図書館に「洋学文庫」として収蔵されたもののなかにあった。◆本来は維新史研究者の町田氏が就任して、洋学文庫の目録づくりを担当することになり、調査を開始すると、植物目録に伊藤、賀来の日本名のほかにオランダ語の筆跡も見えた。◆そこで本草学やシーボルト研究に詳しい遠藤正治・鳥井裕美子・松田清の3人の研究者の協力を得て、調査をすすめると、この植物目録は、尾張のシーボルト門人伊藤圭介が、長崎に持ち込んだ1600種の植物標本に、シーボルトが伊藤と同じくシーボルト門人の賀来佐之(かくすけゆき)に、学名と和名をつけることを命じたものであったことが判明した。◆シーボルト自筆書簡の新発見とは、賀来が植物目録の作成中の1828年、シーボルト事件が起こり、シーボルトが賀来に、この目録の作成を急がせた書簡が、洋学文庫のなかから発見され、2016年2月にNHKで放送されたものであった。◆結局、シーボルトはこの植物目録を手にしてオランダに帰国することなく、やがて神田外国語大学の洋学文庫のなかに収められることになったのだが、この目録や書簡から、従来あまり注目されていなかった豊後出身蘭学者賀来佐之が、植物についての抜群の学識と語学力を有していたことなどが判明したのであった。

中井常次郎と東京府癲狂院

◆相良知安さんの御子孫相良隆弘さんと、相良家文書を読んでいる。そのなかに 東京府癲狂院長の中井常次郎なる医師の名前が出てきた。癲狂院は精神病院のこと。
◆『岡田靖雄著『私説松沢病院史』(1981・岩崎学術出版社)』によれば、 日本最初の公立精神病院は明治5年(1872)創設の京都療病院付属癲狂院で、京都府が南禅寺方丈に設立し、明治8年(1875)年7月25日に開業した。作業療法など施され、かなり進んだ治療がなされていたらしい。しかし地方財政の悪化で、この最初の公立精神科病院は82年10月に廃止されて、その医療器具、調度は私立癲狂院(現川越病院)に引き継がれた。京都癲狂院に続いては明治11年(1878)に東京に私立の癲狂病院(もと狂疾治療所)と、瘋癲病院が、翌年には府立の東京府癲狂院および私立の瘋狂病院(のち根岸病院)が設立された。87年当時の癲狂院は、東京府に4院(うち公立は1)、京都府に3院、大阪府に3院であった。精神科病院がこのように三府、なかでも東京府に偏在する傾向は大正年代いっぱいまで続く。東京府癲狂院は89年に、患者がその名を嫌って入院を拒否するからとの理由で、東京府巣鴨(すがも)病院と改称された。ついで精神病院を院名に入れるものが出、98年の東京脳病院あたりから脳病院を称するものが増加してきて、癲狂院・癲狂病院の呼称は大正時代に消滅した。この呼称は、日本で精神疾患に対する施策が貧困で、公的な精神科病院がほとんどなかった時代を象徴していると岡田さんは述べている。
◆東京府巣鴨病院は、大正8年(1919)に世田谷の現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始め、現在に至っている。
◆中井常次郎は、この東京府癲狂院の第2代院長で、じつは、日本精神病史に残る事件にも関わっている。岡田靖雄「大隈重信と日本の精神衛生運動」(『日本医史学雑誌』第54巻第1号、2008)によれば、大隈重信が玄洋社員に爆弾を投げつけられて負傷し、膝上から右脚を切断せざるをえなくなった。このときの執刀医が佐藤進で、「前東京府癲狂院長の中井常次郎は当時,外務大臣官舎医務嘱托で、このときの治療にもあたった」とある。
◆もう一つは東京府癲狂院における相馬事件である。公益社団法人日本精神神経学会のホームページ(https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php…)によれば、相馬事件とは、旧中村藩(現・福島県)主相馬誠胤が、24歳で緊張病型分裂病とおもわれる精神変調にかかり、自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりした。1883年頃から旧藩士の錦織剛清らは、殿様の病気は、御家の財産を乗っ取るために、精神病院へ無理矢理押し込んだものと訴えを起こしていた。そしてとうとう、明治20年(1887)に錦織は、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた。 相馬の死後1年して錦織は、殿様の死は毒殺だと告訴し、相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが拘留された。 中井は”毒医”として有名になった。 また家令であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も、陰謀の中心人物として拘留された。 墓を掘り返し死体を調べたが、毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり、錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となった。 錦織に組みしていた後藤新平は、1893年(明治26)当時内務省衛生局長であったが、この事件に連座して局長を止めることになり、無罪となったのちは政治家に転進した。 万朝報はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していた。 この事件は外国にも、日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道された。
◆中井常次郎は佐賀出身の医師のようである、が、まったく知られていなかった人物で、今後、調査を続けたい。

大庭雪斎

佐賀医学史話。大庭雪斎について
■大庭雪斎はシーボルトに学んだか。
大庭雪斎、名は忞(つとむ)、字は景徳。雪斎と号す。佐賀藩士大庭景平(仲悦)の子で、同族の大庭崇守(寿庵)の養子となる。文政年間に島本良順(龍嘯)について蘭学を修行した。その後、長崎に出て、シーボルトに師事したとの伝承がある(呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』)が、確証がなく、むしろこれは間違いだろう。というのは、雪斎自身が、自著のオランダ語文法書である『訳和蘭文語』前編の安政二年一二月序文で、「不肖年三十九ニシテ初テ原本ヲ習読シ、今日ニ至ルマデ十有二年許、中間世累ノ為ニ看書ヲ怠ル者若干年、方今ハ厳命ヲ奉シテ原本ニ臨メトモ、研業年月浅クシテ、猶上面ニ一膜ヲ隔テタルカ如シ」と述べており、三九歳にして初めてオランダ語の原本を習読したとあるので、雪斎が蘭書を習読したのは、長崎でなく、次に述べる大坂時代のことと考えられる。
◆雪斎は、どこで蘭学を本格的に学んだか。緒方洪庵が、『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずにやってきて洪庵の門に入り苦労して大成したと書いてある。
◆洪庵の蘭学師匠は二人いて大坂の中天游と江戸の坪井信道である。古田東朔氏の調査によると、寛政一〇年~一二年にかけて刊行された志筑忠雄『暦象新書』上中下三巻に、雪斎が刪定を加えた安政四年(一八五七)の『暦象新書』の雪斎の序文に「余往年浪速ニ遊ビ、先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ。爾后ハ医事ノ紛雑ナルガ為ニ之ヲ筐中ニ納メテ顧ルコト無リキ。再遊ノ後ニ於テ、家族等愚昧ニシテ書籍ノ何物タルヲ知ズ、此書ヲ併セテ人ニ借与シ亡失セル、若干部若干巻ナリ」とある。
◆雪斎の師は大坂の蘭学者中天游であり、天游の蘭学塾思々斎塾で洪庵とともに蘭書を学んだあと、いったん郷里に帰り、ふたたび大坂に来て、洪庵の適塾に通ったのであった。洪庵は文政九年(一八二六)七月から天保元年(一八三〇)まで天游塾に学んでいるので、雪斎もこの四年間のある時期に洪庵とともに天游の思々斎塾で、医学のみならず『暦象新書』など自然科学的な素養を身に付けたのだった。
◆大坂で修行した時期と場所はどこか。
郷里に帰ってから再び大坂に遊学した雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化二年)に、「内科 今橋二丁目 大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所にあった。
大坂再遊の期間は、中野操氏旧蔵の浪速医師見立番付による調査では、天保一五年(弘化元年、一八四四)二月版には、雪斎の名前がなく、弘化二年四月版に東前頭三六枚目に初見で以後番付が少しずつ上がって、弘化三年四月版で西前頭三〇枚目、弘化四年五月版で西前頭二〇枚目と少しずつ番付けがあがり、弘化五年(嘉永元年)五月版には、雪斎の記載がなくなっているので、弘化二年、三年、四年の三年間で、この間に医業を開きつつ、適塾に通って蘭学学習・原書講読を深めたものと思われ、さきに『訳和蘭文語』で三九歳のとき初めて原書を講読しというのも弘化二、三年のこの
修行のときと合致する。
◆洪庵の塾で研鑽をつみ、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文に、次のように
          足守  緒方章公裁
              義弟郁子文 同訳
          西肥  大庭忞景徳 参校
と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになった。
洪庵の門人帳『適々斎塾姓名録』には、天保一五年正月からの六三七人の名が書き継がれているが、この門人帳には雪斎の名前がない。それは、雪斎が洪庵の同門であり、客分的な存在であったからであろう。
◆なぜ大坂を選んだか。
じつは、雪斎の最初の蘭学師匠島本良順(龍嘯)が、文政五年(一八二二)から大坂に出て天満町で開業し、大坂に出て三年後、文政八年九月発行『浪花御医師見立相撲』(大坂医師番付集成12 思文閣出版)に、「頭取 テンマ(天満)島本良順」と初めて記されるまでになった。さらに翌文政九年、文政十一年の『浪花御医師名所案内記』や『海内医人伝』にも記載され、きわめつきは、文政十二年三月刊の『俳優準観朧陽医師才能世評発句選』には、「解剖 中環 糸町端、精緻 島本良順 西天満、窮理 橋本曹(宗)吉 塩町」と紹介されている。
良順の右隣は解剖の得意な中環とあり、緒方洪庵の師でもある中天游のことで、左隣は、窮理(物理学)で著名な我が国電気学の祖ともいわれる橋本宗吉であった。解剖と窮理で高名な二人に並んで記載されるほどの「精緻」な蘭方医として評価されるようになっていた。良順の学問的志向が、医学だけでなく自然科学にもむけられており、こうした良順の影響により、雪斎は大坂を目指したのであろう。
◆帰国後の大庭雪斎はどうしたか。
雪斎は、嘉永四年(一八五一)藩の初代蘭学寮教導となり、安政元年(一八五四)に弘道館教導となり、オランダ語の文法書『訳和蘭文語』前編を安政三年、同後編を同四年に刊行し、オランダ語学習には文法を学ぶことの重要性を、わかりやすい口語体で紹介した。安政五年(一八五八)に好生館ができるとその教導方頭取となり、西洋医学教育を推進した。文久二年(一八六二)には、物理学入門書『民間格知問答』を刊行し、教授した。佐賀藩の西洋医学・自然科学を率先して推進したのであった。
◆雪斎はその後どうなったか。
慶応元年(一八六五)に職を辞した雪斎は、維新後の明治六年三月二八日に没し、伊勢町天徳寺に葬られた。六八歳。法名を義山常忠居士という。
オランダ語に秀で、多くの著作物を残した。『遠西医療手引草』、『民間格知問答』(元治二年・一八六五)、『訳和蘭文語』(安政二年、三年・一八五五。
五六)、『液体究理分離則』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)、『(ヘンデル)算字算法起原或問』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)

種痘伝来28年度計画

今後の研究の推進方策

九州諸藩の種痘伝播と医学教育の比較研究のため,7月16日・17日に鹿児島・宮崎で28年度第一回研究会を開催し,各自中間研究発表を行い,進捗状況を確認し,島津集成館、若山牧水記念館等、同地の種痘及び医学連資料調査を行う。若山牧水記念館には、牧水の祖父若山健海が日向で実施した種痘記録が保存されているからである。さらに,10月21日~26日の第6回在来知歴史学国際シンポジウムに参加し、日中の医学教育の比較研究を行い、研究報告もする。12月に第2回研究会を我が国最初の種痘実施地沖縄で開催し、琉球大学付属図書館蔵球陽付巻などから琉球での種痘実施を調査する。最終年度における報告書(含む資料集)の刊行準備や資料選択についての調査研究を深める。代表者青木歳幸は古文書読解に堪能なアルバイトを雇用し、佐賀藩(蓮池藩等)種痘資料の翻刻をすすめる。研究の順調な進展を図るため、研究者相互の連絡を密にして、また蒐集した資料は、随時、ホームページやブログ等で更新し、公開し、研究を推進する。