伊東玄朴と冨沢礼中
◆少し前に、玄朴門人富沢礼中が、修業なかばの嘉永元年(1848)に高野長英を伴って、江戸から宇和島へ向かい、途中、宇和島藩大坂屋敷で江戸参府中の藩主伊達宗城に会い、羽織をもらったことや、江戸に着いた伊達宗城が、伊東玄朴と会い、キナエンを礼中に送った書翰を紹介した。
◆修業半ばで宇和島に帰った礼中にあてて、玄朴は嘉永2年12月21日付けで、書翰と牛痘針・牛痘痂・牛痘書を送って、牛痘のやりかたを丁寧に紹介した。以下がその手紙であり、長文であるが、我が国種痘史上に、重要な情報が含まれているので紹介する。原文は、ずっと以前、冨沢礼中の御子孫が保管されていたようだが、現存不明であり、宇和島の郷土史家兵頭賢一氏の論考「宇和島の種痘」(『伊予史談』69号、『宇和島郷土叢書』第6巻所収)から引用する。詳細な解説は、近日、佐賀医学史会報90号を発刊後の予定。
伊東玄朴より宇和島在住富沢礼中書翰(嘉永元年12月21日付け)…
御無音申上候
愈萬吉被成勤奉恭賀候
此方無事御降念可被下候
然ば当夏は長崎表牛痘舶来有之追々伝播
東都へも十月二日弊藩に参り、
夫れより追々弘まり千人よも種立に相成申候
誠に古今の良法、小生も追々試み
既に百二十人余実験仕候、
京阪(ママ)も殊の外盛の趣に御座候
則牛痘痂並に牛痘針等差上、牛痘書相添差上申候
早速御試可被成候
御隣国長州へも盛に種立に相成居候間、最早御手に入り候哉にも被存候得共、
大屋形様より被仰付候に付、差上申候
種方の儀は最初は痘痂を細末に被成人痘を種候法の如く御種可被成候
但人痘の如く間地を狭く種候事は甚不宜、一寸づつ間を取り御種可被成候、
牛痘書にも有之候通り、小児の年齢により成るだけ数多く種え、
第八日九日に相応の発熱有之候様に可相成候。
痘痂は感受不定に御座候、
痘漿を取るは、種候初日より第八日に限るなり。
西洋流の第七日、日本数にて第八日なり、
少しも後れ候はば、仮痘を生じ申候、
真痘と仮痘との区別第一なり、
仮痘は再痘す。
慎んで之を見誤ることなかれ、
種痘経過
第一日 (記載なし)
第二日 種所ニ赤色アリ、
第三日 種所ノ赤色薄リ、殆ト知レザルヲ良トス、
第四日 種所稍赤色ヲ生ズ、
第五日 赤色稍大ニ、痘隆起ス、中央稍凹凸アリ、
第六日 (記載なし)
第七日 次第ニ増大トナリ、中央ノ陥所益々著シ、
第八日 中央稍黄色凹陥シ、周囲水漿ヲ持ツ、之レヲ破リ漿ヲ取ル、
第九日 痘ノ周囲一寸廻リ程暗紅色ノ紅暈ヲ生ズ、之レ牛痘ノ真徴ナリ、
第十日 紅暈稍薄シ
第十一日 周囲稍膿ヲ生ジ、中央ニ痂ヲ生ズ、
第十二日
第十三日 痂トナル
此の外は牛痘書に委しく御座候、御試の上、御申越可被成候
種方三月より五月六月の小児、左右に八個
七月ヨリ十月迄の小児は全一才ヨリ二才まで、左右十二、
此順に左右丗四五まで御種可被成候、時分柄大多用早々頓首
十二月廿一日
伊東玄朴
富沢礼中殿
長文になったので、また後日解説します。