活動報告

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『天然痘との闘いー九州の種痘』

研究分担者・研究協力者のご協力のおかげで、無事、岩田書院へ3年間の研究成果として

論考集を、入稿できました。

わが国に伝来した牛痘とはどのようなものであったか、

長崎に伝来して、九州各地にどのようにもたらされ、医師と行政(藩・幕府)と民衆の意識をどのように変えていったのか

地域医療の近代化にどのようにかかわったのか

などを、九州各地の種痘の実例から明らかにします。

あらたな史料発掘もたくさんあり、医学史のみならず、地方史、文化史などにも

必ず役にたつ本となるでしょう。

なお、この科研チームは、あらたな段階への研究、すなわち、種痘の全国展開についても

研究を展開すべく、30年度以後の科研費申請も行っております。

1 論考集「天然痘との闘いー九州の種痘」

 

口絵                              2頁

目次                             1頁

1はじめにー九州の種痘概要・・・・・・・青木歳幸 (10頁)

2天然痘について・・・・・・・・・・・・相川正臣10頁

3ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

4人痘法の伝播 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

5牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

6牛痘伝来再考     ・・・・・・・・・・青木歳幸   20頁

7長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣   10頁

8大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

9佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

10佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

11多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

12長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

13小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸・・17頁

14武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・・・・W.ミヒェル・14頁

15久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・17頁

16中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 31頁

17熊本藩の治痘           ・・・・大島明秀・・13頁  

18天草の種痘・・・・・・・・・・・・・・・/青木歳幸・・8頁(?)

19若山健海と宮崎の種痘・・・・・・・・・・ 海原 亮・・14頁

20薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

21黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁

 

 

 

種痘科研関係者各位
  29年度第2回種痘科研打ち合わせ会のお知らせ
                             研究代表者青木歳幸
  下記により、第二回打合会を開催しますので、お集まりください。
 日時:11月5日(日)
 場所:電気通信大学東3号館301号室
 時間:17:15~19:15(洋学史学会ミニ・シンポ終了後)
 議題:1.科研費報告書史料集の準備状況
    2.30年度科研申請について

平成27~29年度科学研究費補助金(研究種目 基盤研究(C) )研究課題番号:15K02867

      「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」

                     研究代表者(所属機関・部局・職・氏名)

                    佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸

        29年度第1回研究会開催要項

 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)29年度第1回研究会を開催しますので、長丁場な日程ですが、ぜひ、ご参集ください。

 日程

 8月4日(金)

  10時に九大医学歴史館前に集合

  10時から12時まで、九州大学耳鼻咽喉科学教室・久保記念館

                医学歴史館、人体・病理ミュージアム見学

  12時00分~ 昼食 医学部周辺

  13時30分~ 29年度第1回研究会(於九州大学医学部附属図書館)

    議題1.研究報告書・今後の日程について(青木)

      2.研究報告

        海原 亮「若山健海種痘資料と延岡の医療環境(仮題)」

        山内勇輝「大村藩の種痘伝播と藩医 長与家(仮)」

        大島明秀「寺倉秋堤の種痘伝習について」

        相川忠臣「長崎の種痘について」

        青木歳幸「小倉領の種痘」

  15時30分~16時30分まで、九州大学医学部図書館展示室見学 

  17時00分~ 懇親会・食事

 

28年度種痘伝来研究実績の概要

28年度は、各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月16日~18日、島津尚古集成館で開催した。薩摩における種痘史料調査では、八木称平、前田杏斎らの事績のほかに吉良元民らによる種子島種痘史料、天ケ城歴史民俗資料館において黒江家種痘史料を見出した。また日向で最初に種痘を実施した若山健海の種痘記録も若山牧水記念文学館で見出した。これらの史料はいずれも最終年度報告書に翻刻する予定である。

各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は、鹿島藩・小城藩・蓮池藩・諫早領等、佐賀藩領内種痘史料調査を実施し、その成果の一部を、日本医史学会等六史学会合同例会(2016.12.17・於順天堂大学)において「牛痘伝来をめぐる一考察」を、野中家史料研究会(2017.1.27、於佐賀大学)において「野中家の牛痘書」を報告し、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2017.2.25)において楢林宗建・野口良陽・織田良益・下河辺俊益ら医師の種痘活動を執筆し、新知見と新史料を紹介した。

現在までの進捗状況

年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約6割である。佐賀藩の種痘に関しては,嘉永2年(1849)にモーニッケの指導を得て、佐賀藩医楢林宗建が種痘に成功し、その痘苗が佐賀藩から江戸へと伝播した経路などの解明のほか、佐賀藩領における引痘方による計画的な種痘実施の実態、種痘医と漢方医の対立・煩悶なども新たに発掘し、その研究成果を前掲『佐賀医人伝』に反映できた。学会発表・論文は、前掲のほか、シーボルト没後150年記念講演会招待講演「シーボルトとその門人」(2016.09.10、於長崎歴史文化博物館)、ISHIK2016・在来知歴史学国際シンポジウム「日本薬局方の先駆的活動」(2016、10。23~26、於佐賀大学)、「『御診察日記』にみる西洋医学治療」(『佐賀学Ⅲ』、海鳥社、pp207~232)などを成果公開した。

今後の研究の推進方策

研究最終年度において、わが国最初に種痘を実施した沖縄種痘史料調査及び第1回研究会を7月に沖縄で実施し、九州における種痘実施状況を比較研究する。第2回研究会を年末に長崎か福岡で実施し、研究のまとめを行う。

 各自調査も青木は、武田杏雨書屋、京都大学等での種痘資料調査と、九州諸地域の種痘関係資料の収集に努める。

 

研究協力者の海原亮と小川亜弥子は、研究会や調査に参加しつつ、研究報告書の刊行に協力する。

各自調査に、並行して、最終年度の研究報告書(含む資料集)刊行のために、資料選択・翻刻もすすめる。現時点での主な翻刻予定資料は、野中家種痘資料、若山健海種痘記録、黒木家種痘資料、種子島家記、武谷祐之『牛痘告論』、「痘瘡唇舌鑑図

 

7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。

15K02867 

「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸  

  27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 

13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603
研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真


医師免状は無試験で授与された?
2015年06月26日
洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史

諫早領医師への医師免状授与の場合
諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。
(1)安政二年四月九日記事
一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事
   手 覚
 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、
医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ
 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸
諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策
家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩
   郷医 雄仙   町医 謙造
右者此の節罷り登り候
     武冨文碩 岡村文意
右者当病二而登り相叶わず候
右之通り御座候此の段御達し仕り候以上
四月九日 益千代内 杉野助右衛門

光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿

 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。
つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富
文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館
弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。
 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。
 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。
 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。

 

種痘医野口良陽

第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

基盤研究C「わが国種痘伝播と地域医療の近代化に関する史料集成を軸とする基礎的研究」(平成30から34年度)

基盤研究(C)(一般)1 8 K 0 0 9 3 0

わが国種痘伝播と地域医療の近代化に関する史料集成を軸とする基礎的研究

研究の目的

本研究は、種痘の我が国諸地域への伝播と地域医療の近代化の解明を目的とし、種痘史料の集大成をする。史料集刊行およびH
P等で情報公開し、医学史研究を一層進展させる。ジェンナーの発明した牛痘種法は、1849年に長崎に伝播し、数年のうちに全
国各地に伝播した。九州諸地域への種痘普及は、申請者を代表とする科研費研究「種痘伝来」(平成27~29年度)でかなり解明
しえたが、全国的な種痘展開と地域医療の近代化に関する研究は、解明が不十分である。全国諸地域への種痘普及の基礎的史料
の収集と公開が、医学史研究の発展のために必須と考え、①前提としての紅毛流医学や人痘法の普及、②在村蘭方医らの果たし
た役割、③公衆衛生・予防医学の芽生えともいえる諸藩の医療政策としての展開、④種痘普及が地域の医療近代化・医学教育に
どう影響したかなどを、地域別に解明し、医学史、科学史、文化史、近世史、近代史研究などに学術貢献する。

研究の実施計画

 5年間の研究期間に研究代表者は、1)全国各地の藩領・幕領の地域的・内容的に特色ある種痘史料を収集し、資料の整理、HP
への公開を行う。2)3年次以降、西日本編・中部編・東日本編として、順次史料集を刊行する。3)史料収集を通じて、全国各
地の種痘実施の地域的特色および実態解明をすすめる。4)史料分析により、種痘普及による医師のネットワーク、医学教育へ
の影響、地域医療の近代化の影響を明らかにする。
 物品購入は、医学史及び種痘関連書籍の購入等にあてる。旅費について、30年~34年度にかけては、西日本・近畿・中部・関
東・東日本・北海道と全国的に種痘史料調査をすすめる。また種痘史料所在地において、研究協力者との研究会を年一回は実施
し、地域の種痘史料を系統的に収集する。現時点の主要調査予定は以下の通りである。30年度は、山口県文書館(山口)、広島
県医学資料館(広島)、津山洋学資料館・中島家(岡山)、米原恭庵史料(島根)、原田謙堂史料(鳥取)、愛媛歴史文化博物
館・菅周庵史料(愛媛)、寺田志斎史料(高知)、井上勤(徳島)、中村恭安(香川)など。31年度は、有信堂(京都)、適塾
、加西市立図書館、浜口梧陵、高島郡マキノ町役場文書など。32年度の主な調査予定は福井市立郷土博物館(福井)、金沢大学
資料館(石川)、黒川良安(富山)、伊藤圭介(名古屋)、郡上医学校(岐阜)、信濃熊谷家(塩尻)。江川英龍文書(静岡)
、山梨県立博物館(山梨)など。33年度は、国立公文書館(東京)、順天堂(千葉)、安藤文沢(埼玉)、長沢理玄(群馬)、
斎藤玄昌(栃木)、茨城県立歴史館(茨城)など。34年度は、八角高遠史料・一関博物館(岩手)、小野寺丹元(宮城)ほか。
35年度は、市立函館図書館(北海道)ほか補充史料調査を実施する。人件費・謝金は、収集種痘史料の翻刻等のアルバイトの人
件費にあてる。
 現時点の研究協力者として、W.ミヒェル(研医会、九州大学名誉教授)は、北九州種痘史料、中津藩医学校形成史料、紅毛
流医学史料、大島明秀(熊本県立大学)は、東西文化交流史料・熊本藩領における種痘史料、海原亮(住友史料館)は、米沢・
福井・近畿の種痘史料や医学教育史料、松村紀明(帝京平成大学)は、岡山県及び中国地方の種痘史料・地域医療史料、胡光(
愛媛大学)は、紅毛流医学史料や四国の種痘史料などの調査研究に協力する。
 その他において、32年度以降、西日本、中部、東日本の種痘史料集を順次刊行するため各35~40万円をそれに当てる。

 

史料多久の種痘(2)

【史料3―23】嘉永六年(一八五三)一一月七日 医学校での再研修予定者名簿

一 医学館より左之人々呼出相成候ニ付一昨五日被罷出候処開業

  免札被相渡候旨於保玄庵より被相達候事

 

       松崎雲晧     於保玄庵

       松尾仲悦     岡橋文賢  

       梶原快堂     鈴山俊庵

       尾形春園     岩永仲健

       前山良意     三根道円

  免札左之通        

            長門殿家来

             尾形道純門人

     内科       於保玄庵

                六拾四才

    医道開業被

    差免候也

    嘉永六年

      丑十一月     医学寮  (医学寮印) 

                     ( 御屋形日記』)

 

【史料3―24】安政五年(一八五八)一二月一九日 好生館開講につき達

向正月十三日開講被相整義候条、医師中無洩、朝六ツ時半出席相成候様、将又、開講業以上、別紙書載之通、御酒被為頂戴候条、此御筋々可被相達候、以上

未十二月二十九日

                        好生館

右之趣承届候 以上

梶原喜兵衛

木下忠左衛門

諸家中

          写

        岡橋文賢 岡橋賢道 鈴山俊庵 山口元逸 鶴蔵六 尾形良益 松崎雲江 三根道圓 西春濤 松尾俊庵 池田文庵  尾形春圓 於保玄庵 於保高庵 吉田文仙 前山杏春 前山雲洞 前山良意 一鴎                   以上

                      (『御屋形日記』)

 

 

 

【史料3―25】安政七年三月三日 西洋法への転換のため、免札再発行につき達

  写   

医師之義厚以思召一統西洋法研究いたし候様被仰付置候付而、免札被相改候半而不相叶義ニ候条、左ニ書載之人々是迄被相渡置候免札之義来ル廿日迄之内、銘々持出、一先好生館相納候様、尤配剤御差留ニ相成候通ニ而、諸人難渋可有之候条、配剤丈ハ当分被指免置候条、此段筋々可被相達旨ニ候 已上  

                 岡橋文賢  同賢道 

                 鈴山俊庵  山口元逸

                 鶴蔵六   尾形良益 

                 松崎雲江  三根道圓 

                 西春濤   松尾俊益 

                 池田文庵  尾形春園 

               於保玄庵  於保高益 

               吉田文仙  前山杏春 

               前山雲洞  岩永仲健 

               前山良意

                     好生館 

 閏三月二日右之趣承知仕候 已上     (『御屋形日記』)

【史料3―26】安政七年(一八六〇)三月九日 医業免札の再発行につき達

    写  

一 医師之義人命ニ預り大切至極之業ニ付、猥ニ配剤不致様医師一統御試之上開業免札被相渡置候処、間ニは無其義執匙配剤いたし候向も有之哉ニ相聞不可然義ニ候条、急速差留相成候而、其段好生館達出相成候様被仰付義ニ候条、此段筋々可被相達候 以上   

申三月九日                 (『御屋形日記』)

 

【史料3―27】安政七年一〇月九日、多久領主より種痘手伝い医師への御苦労代

(前略) 

  一 金 壱両三朱  山口元逸

  一 金 壱両三朱  鶴蔵六

  一 金 壱両三朱  尾形良益

  一 金 壱両三朱  岡橋賢道

 右之者共義引痘方句伝別而太縁仕候付為御労出席之

 度数ニより書載之通可被為拝領欤   (松尾徳明『引痘方控』)

 

 

【史料3―27】万延元年(一八六〇)五月三日 『引痘方控』にみる多久への種痘の実施

一 多久出張  惣針六拾

  一 出張所 下多久 寺

  一 手助  鶴蔵六 尾形良益 岡橋賢道

  一 土産  筈紙弐

  一 手男市兵衛 

  一 八分                ( 『引痘方控』)

史料、多久の種痘(1)

佐賀藩領内の邑主多久家における種痘関係史料である。

種痘伝来科研報告書

科研の成果公開として、『天然痘との闘いー九州の種痘ー』(岩田書院)を出版します。

以下の内容 

口絵                              2頁

目次                             1頁

 はじめに     ・・・・・・・・・・・・青木歳幸 (1頁)

 天然痘について・・・・・・・・・・・・・・相川正臣(?)10頁

 九州の種痘概要・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   10頁

◎佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

◎ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

◎人痘法の普及 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

◎牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

◎佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

◎多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

◎中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 37頁

◎熊本藩の治痘           ・・・・・大島明秀・・14頁  

◎宮崎の種痘(仮)・・若山健海を中心に・・・ 海原 亮・・10頁

◎薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

◎大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

◎黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁

 長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・相川正臣・・・15頁

 小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸  12頁

◎武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・W・ミヒェル・・15頁

 沖縄の種痘(未定)・・・・・・・・・・・青木歳幸・・・10頁

◎長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

◎久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・12頁

                          329頁

佐賀医人伝、犬尾文郁

 佐賀医人伝物語
犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 
       諫早領主侍医・内科医
 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。
 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。
 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。
 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。
 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。
 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。
【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑
写真解説 
①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。
②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。
③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある
④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。
⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。