活動報告

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②第2回研究会

12月26日(土)12月26日(土)14時~、

場所:熊本県立大学 文学部棟4F 歴史学(大島)研究室 現地集合

青木、ミヒェル、大島

 14時15分~15時30分・・研究会

  報告1 青木歳幸「佐賀藩種痘関係史料紹介」                   諫早の種痘医野口良陽が、かならずしも西洋医学を信奉していたのではなく、やむなく種痘医としての自分である心情を吐露している漢詩などを紹介。ちなみに良陽の子は、野口松陽といって、漢詩人として著名になった。医師開業免許状の配布は試験なしでも行われた。しかし、幕末になって好生館での試験による免状授与制度が徹底すると、遠距離の学生のために中間地点での入学試験所まであらわれた。峯源次郎に与えられた受験科目は、僂广質斯説并治方、越列吉的尓説、動植二物説の3つであった。また野中家の史料調査において、痘瘡関係史料(池田家治痘論、痘瘡問答、牛痘種法)があることを紹介した。そのうち治痘問答は、肥後の村井琴山の痘瘡問答を、佐賀藩医松隈亨安が天保9年に筆写したものだった。また、六史学会での野中家所蔵解剖書についての報告を行った。ミヒェル先生から『解屍編』は自分で切って自分で測っていることなどが意義が大きいことが話された。

  報告2 ミヒェル・ヴォルフガング「中津地方における天然痘の小史(1)」

  報告書で、中津地方における天然痘の歴史をまとめるまえに、天然痘とは、和漢資料に見られる天然痘の諸名称、16.17世紀の西洋人がみた天然痘、病因に関する推測と学説、天然痘予防など全体的な議論をまず3人の連名でまとめ、以下中津の種痘など各論にはいるのがよいと述べられ、賛同を得た。中津での種痘については、辛島正庵の活動を軸に諸事例を紹介するとした。また幕末における牛痘接種普及の諸相のうち、医師たちによる啓蒙活動も重要であること、牛痘の予防効果・評価も一様ではなく、人痘法も必ずしも否定されていない面もあることなども話された。後半をどこまで描くかも議論になり、種痘が制度化された明治後期(明治42年・1909、種痘法実施)あたりまでを視野にいれたらどうかという議論になった。

  報告3 大島明秀「熊本藩洋学資料の現状」

熊本藩政時代の治痘は、村井琴山の治痘観・治痘技術が熊本藩政におけるそれとみてよい。として『治痘問答』(京大富士川文庫本1、九大医学図書館1本)や、『痘診要薬方』を収集して、解読を始めていること、近代化以後は、高橋春甫(実は資料がほとんどない)や寺倉秋堤について調査をすすめているとの報告があった。『治痘問答』については、偶然、青木が紹介した野中家資料の『治痘問答』が、村井琴山のを佐賀藩医が筆写したものだったので、後日、画像を送付することにした。

 15時30分~16時30分

  熊本県立大学図書館特別資料室の閲覧。図書館の藤井さんが対応してくれた。熊本洋学校関係史料や諸家関係史料が保存されていた。図書館員が2人しかいないので、大島さんが整理にあたっているとのことであった。

7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。

 

「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸  

  27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 

13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603
研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真


医師免状は無試験で授与された?
2015年06月26日
洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史

諫早領医師への医師免状授与の場合
諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。
(1)安政二年四月九日記事
一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事
   手 覚
 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、
医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ
 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸
諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策
家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩
   郷医 雄仙   町医 謙造
右者此の節罷り登り候
     武冨文碩 岡村文意
右者当病二而登り相叶わず候
右之通り御座候此の段御達し仕り候以上
四月九日 益千代内 杉野助右衛門

光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿

 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。
つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富
文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館
弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。
 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。
 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。
 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。

 

種痘医野口良陽

第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

大庭雪斎

佐賀医学史話。大庭雪斎について
■大庭雪斎はシーボルトに学んだか。
大庭雪斎、名は忞(つとむ)、字は景徳。雪斎と号す。佐賀藩士大庭景平(仲悦)の子で、同族の大庭崇守(寿庵)の養子となる。文政年間に島本良順(龍嘯)について蘭学を修行した。その後、長崎に出て、シーボルトに師事したとの伝承がある(呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』)が、確証がなく、むしろこれは間違いだろう。というのは、雪斎自身が、自著のオランダ語文法書である『訳和蘭文語』前編の安政二年一二月序文で、「不肖年三十九ニシテ初テ原本ヲ習読シ、今日ニ至ルマデ十有二年許、中間世累ノ為ニ看書ヲ怠ル者若干年、方今ハ厳命ヲ奉シテ原本ニ臨メトモ、研業年月浅クシテ、猶上面ニ一膜ヲ隔テタルカ如シ」と述べており、三九歳にして初めてオランダ語の原本を習読したとあるので、雪斎が蘭書を習読したのは、長崎でなく、次に述べる大坂時代のことと考えられる。
◆雪斎は、どこで蘭学を本格的に学んだか。緒方洪庵が、『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずにやってきて洪庵の門に入り苦労して大成したと書いてある。
◆洪庵の蘭学師匠は二人いて大坂の中天游と江戸の坪井信道である。古田東朔氏の調査によると、寛政一〇年~一二年にかけて刊行された志筑忠雄『暦象新書』上中下三巻に、雪斎が刪定を加えた安政四年(一八五七)の『暦象新書』の雪斎の序文に「余往年浪速ニ遊ビ、先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ。爾后ハ医事ノ紛雑ナルガ為ニ之ヲ筐中ニ納メテ顧ルコト無リキ。再遊ノ後ニ於テ、家族等愚昧ニシテ書籍ノ何物タルヲ知ズ、此書ヲ併セテ人ニ借与シ亡失セル、若干部若干巻ナリ」とある。
◆雪斎の師は大坂の蘭学者中天游であり、天游の蘭学塾思々斎塾で洪庵とともに蘭書を学んだあと、いったん郷里に帰り、ふたたび大坂に来て、洪庵の適塾に通ったのであった。洪庵は文政九年(一八二六)七月から天保元年(一八三〇)まで天游塾に学んでいるので、雪斎もこの四年間のある時期に洪庵とともに天游の思々斎塾で、医学のみならず『暦象新書』など自然科学的な素養を身に付けたのだった。
◆大坂で修行した時期と場所はどこか。
郷里に帰ってから再び大坂に遊学した雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化二年)に、「内科 今橋二丁目 大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所にあった。
大坂再遊の期間は、中野操氏旧蔵の浪速医師見立番付による調査では、天保一五年(弘化元年、一八四四)二月版には、雪斎の名前がなく、弘化二年四月版に東前頭三六枚目に初見で以後番付が少しずつ上がって、弘化三年四月版で西前頭三〇枚目、弘化四年五月版で西前頭二〇枚目と少しずつ番付けがあがり、弘化五年(嘉永元年)五月版には、雪斎の記載がなくなっているので、弘化二年、三年、四年の三年間で、この間に医業を開きつつ、適塾に通って蘭学学習・原書講読を深めたものと思われ、さきに『訳和蘭文語』で三九歳のとき初めて原書を講読しというのも弘化二、三年のこの
修行のときと合致する。
◆洪庵の塾で研鑽をつみ、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文に、次のように
          足守  緒方章公裁
              義弟郁子文 同訳
          西肥  大庭忞景徳 参校
と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになった。
洪庵の門人帳『適々斎塾姓名録』には、天保一五年正月からの六三七人の名が書き継がれているが、この門人帳には雪斎の名前がない。それは、雪斎が洪庵の同門であり、客分的な存在であったからであろう。
◆なぜ大坂を選んだか。
じつは、雪斎の最初の蘭学師匠島本良順(龍嘯)が、文政五年(一八二二)から大坂に出て天満町で開業し、大坂に出て三年後、文政八年九月発行『浪花御医師見立相撲』(大坂医師番付集成12 思文閣出版)に、「頭取 テンマ(天満)島本良順」と初めて記されるまでになった。さらに翌文政九年、文政十一年の『浪花御医師名所案内記』や『海内医人伝』にも記載され、きわめつきは、文政十二年三月刊の『俳優準観朧陽医師才能世評発句選』には、「解剖 中環 糸町端、精緻 島本良順 西天満、窮理 橋本曹(宗)吉 塩町」と紹介されている。
良順の右隣は解剖の得意な中環とあり、緒方洪庵の師でもある中天游のことで、左隣は、窮理(物理学)で著名な我が国電気学の祖ともいわれる橋本宗吉であった。解剖と窮理で高名な二人に並んで記載されるほどの「精緻」な蘭方医として評価されるようになっていた。良順の学問的志向が、医学だけでなく自然科学にもむけられており、こうした良順の影響により、雪斎は大坂を目指したのであろう。
◆帰国後の大庭雪斎はどうしたか。
雪斎は、嘉永四年(一八五一)藩の初代蘭学寮教導となり、安政元年(一八五四)に弘道館教導となり、オランダ語の文法書『訳和蘭文語』前編を安政三年、同後編を同四年に刊行し、オランダ語学習には文法を学ぶことの重要性を、わかりやすい口語体で紹介した。安政五年(一八五八)に好生館ができるとその教導方頭取となり、西洋医学教育を推進した。文久二年(一八六二)には、物理学入門書『民間格知問答』を刊行し、教授した。佐賀藩の西洋医学・自然科学を率先して推進したのであった。
◆雪斎はその後どうなったか。
慶応元年(一八六五)に職を辞した雪斎は、維新後の明治六年三月二八日に没し、伊勢町天徳寺に葬られた。六八歳。法名を義山常忠居士という。
オランダ語に秀で、多くの著作物を残した。『遠西医療手引草』、『民間格知問答』(元治二年・一八六五)、『訳和蘭文語』(安政二年、三年・一八五五。
五六)、『液体究理分離則』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)、『(ヘンデル)算字算法起原或問』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)

種痘伝来28年度計画

今後の研究の推進方策

九州諸藩の種痘伝播と医学教育の比較研究のため,7月16日・17日に鹿児島・宮崎で28年度第一回研究会を開催し,各自中間研究発表を行い,進捗状況を確認し,島津集成館、若山牧水記念館等、同地の種痘及び医学連資料調査を行う。若山牧水記念館には、牧水の祖父若山健海が日向で実施した種痘記録が保存されているからである。さらに,10月21日~26日の第6回在来知歴史学国際シンポジウムに参加し、日中の医学教育の比較研究を行い、研究報告もする。12月に第2回研究会を我が国最初の種痘実施地沖縄で開催し、琉球大学付属図書館蔵球陽付巻などから琉球での種痘実施を調査する。最終年度における報告書(含む資料集)の刊行準備や資料選択についての調査研究を深める。代表者青木歳幸は古文書読解に堪能なアルバイトを雇用し、佐賀藩(蓮池藩等)種痘資料の翻刻をすすめる。研究の順調な進展を図るため、研究者相互の連絡を密にして、また蒐集した資料は、随時、ホームページやブログ等で更新し、公開し、研究を推進する。

28年度第2回研究会

7月16日・17日予定

種痘伝来28年度計画。27年度実施報告

27年度種痘伝来実施報告

(最大800字,現在550字)

研究初年度は,各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月1日,佐賀大学附属図書館において開催し24年度計画を立案し,佐賀藩支藩小城鍋島文庫共同調査を実施した。第2回研究会を,研究代表者青木歳幸がGeneral Chairである10月25日~26日の第二回在来知歴史学国際シンポジウム(ISHIK2012,於佐賀大学)に合わせて開催し,研究分担者ミヒェル・ヴォルフガング,研究協力者海原亮が発表をした。

各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は,佐賀藩好生館資料調査,種痘関係資料調査及び伊東玄朴象先堂調査を実施し,「近世佐賀の地域特性と普遍性―医学史の視点から」(『地域史の固有性と普遍性』,地域学歴史文化研究センター,pp97~102,2013),「種痘にみる在来知」(佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要,第7号,pp1~21,2013)の論考成果を得た。ミヒェル・ヴォルフガングは,村上医家史料館・大江医家史料館の医家資料の重点的調査を行い,「伝統と革新―江戸・明治期の日本における医科器械」(『Proceedings of International Symposium on the History of Indigenous Knowledge(以下ISHIK2012)』,pp61~67,2012)を発表した。小川亜弥子は,長州藩医学校・種痘関係史料調査を山口県文書館を中心に行った。研究協力者海原亮は,「19世紀前半における地方藩医の蔵書と学問」(『ISHIK2012』,pp55~60,2012)を発表し,三木恵理子は京都小石家文書調査を行った。

 

現在までの達成度(最大800字)

年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約3割である。佐賀藩医学教育に関しては,安政5年(1858)に開設された好生館においての西洋医学教育の実態が明らかになりつつある。同館蔵書蘭書目録によれば,佐賀藩の蘭医学書は104冊あり,外科書が17冊,解剖学書が10冊,内科書9冊などが判明し,明治初年の学則によればドイツ医学を中心とした西洋医学教育がすでに実施されていたことが判明し,明治4年の我が国ドイツ医学導入以前に,佐賀藩ではドイツ医学教育を展開していたことが判明した。中津藩では村上医家史料館,・大江医家史料館の史料整理・分析が進展した。長州藩に関しては,毛利家文庫に点在する個々の医学関係史料を重点調査した結果,これまで不明であった史料群の相互の関係,編綴の過程,及び残存形態について明らかにすることができた。これにより,長州藩医学教育の実態解明に係る基盤をほぼ整えることができた。

 

今後の研究の推進方策(最大800字)

諸藩の医学教育の比較研究のため,6月に中津で25年度第一回研究会を開催し,各自中間研究発表を行い,進捗状況を確認し,中津藩医学校関連資料調査を行う。さらに,9月14日の洋学史学会佐賀大会において,第二回研究会を開催し,研究発表にも参加する。10月24日~27日のISHIK2013にも参加し,日中の医学教育の比較研究を実施し,研究発表も行う。12月に山口で第3回研究会を開催し,中間発表を行うとともに,長州藩の医学教育・史料についての調査研究を深める。

最終年度の報告書(含む資料集)の刊行準備,とくに資料選択も並行して準備をすすめる。

 

次年度の研究費の使用計画

本年度は調査研究を主とするため,備品費・物品費10万円,旅費60万,人件費10万,諸費10万の使用計画ですすめる。

日本薬局方の先駆的史料の新発見

日本薬局方の先駆
◆このほど、佐賀大学地域学歴史文化研究センターで、『薬種商野中家からみる江戸時代の佐賀ー第7回地域学シンポジウムの記録』を刊行した。必要な向きは、センター(0952-28-8378)へ送料自費負担で申し込めば本代は無料で送っていただける。
◆井上敏幸「草場佩川と第7代野中恭豊、」、入口敦志「古活字版『延寿撮要』」、青木歳幸「野中家にみる解剖図」、三ツ松誠「小車社ー幕末佐賀の和歌サークルー」、伊藤昭弘「幕末維新期の野中家の経営」などのシンポジウム報告要旨のほか、野中源一郎・青木歳幸による浅田宗伯自筆の天璋院篤姫ら大奥診療日記『御殿診籍』や、伊藤昭弘『永代日記』などの翻刻を含む。
◆浅田宗伯の大奥診療記録も我が国医療史上大変貴重な新発見であるが、伊藤昭弘翻刻『永代日記』にも、日本の薬学史上、注目すべき史料がみつかったので紹介する。
◆『永代日記』は、天保15年(1844)から明治6年(1873)まで薬種商野中家と佐賀藩・佐賀県などとのやりとりを書き留めたもので、藩でいう御用日記のようなもので、いわゆる個人日記ではない。
◆嘉永4年(11851)6月19日に、野中家当主野中源兵衛は、製薬の鑑定につき次のような願いを藩役人へ提出した。
◆野中家が、調合をゆるされていた烏犀圓・反魂丹・地黄丸については、担当藩医らがその製薬に立ち会い、品質鑑定をしていたこと、そのため薬効と評判が佐賀藩領だけでなく、隣国から遠国までも広がり、繁栄できて有り難いことなどが記されている。
◆そして、「然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、」とあり、すでに医学寮には、嘉永4年段階で、製薬鑑定の役所である施薬局ができており、「施薬局鑑定」の押印により、牛黄・清心円其外之儀について製造・販売許可を与えるようになったことがわかる。先年がいつであるかはまだ不明であるので今後調査したい。この段階における鑑定による許可基準に成分までは含まなかったようで、諸藩における藩許の製薬レベルと同様であったろう。
◆安政5年(1858)に医学寮は好生館となり、佐賀藩の医療行政は好生館が担うことになった。好生館は、藩内医師の西洋医学への転換をすすめ、文久元年(1871)7月に、好生館から藩内全医師に対し、医師一統西洋法を学ぶようにすること、すでに開業免札をもらったものも西洋医学への再教育のために好生館の講義をうけること、文久三年(1863)までに西洋医学へ改めないものは配剤を禁止することになるという厳しい達しを出した。
◆領内全医師に対して、西洋医学への全面転換をせまり、西洋医学に改めないと配剤をも禁止するという内容であった。当時の医師は、藩医には給与があったが、多くは配剤によって生活費を得ていたから、配剤禁止は死活問題であった。従って、佐賀藩ではほぼ全医師が、江戸時代のうちに西洋医学を学ぶことになった。
◆西洋流への一統転換は、当然、漢方薬のあり方についても及んだ。西洋医学で禁止されている薬物が、漢方医学のなかに含まれていないか、医師の間で、当然議論になったのであろう。明治元年(1868)10月に、野中家から次のような願いが好生館へ出された。
◆烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹の儀について、藩からの鑑定のおかげで、評判もよく有り難いこと、薬方の儀につき、現在は西洋流の医方に変わってきているが看板や効能書は従来通りで御願いしたいとの願いであった。
◆これに対し、同年11月29日に丸散方などの薬方は鑑定により従来通り認めるが、「烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除捨ニ相成候」とある。つまり、烏犀圓の薬方成分である水銀・軽粉・白附子は、今後、使用禁止となったのである。
◆ここで重要なのが、好生館の医師らが、西洋医術にもとづいて、烏犀圓の58種ほどの薬種成分のうち、これら水銀・軽粉・附子などの有毒な成分を除外していることである。つまり、少なくとも江戸時代末期の佐賀藩では、好生館で薬学研究も進められ、日本薬局方の先駆的な製薬基準をつくり、有害と判断される物質を製薬から排除していたことが判明するのである。
◆日本薬局方は、明治13年(1880)10月に至って、衛生局長長與専齋の建議により、松方正義内務卿が太政官に「第一、本邦未た藥局方の律書あらす(略)」という伺書を出し、1886年(明治19年)6月に「藥局方」が公布されている。
◆その10数年前の江戸時代において、野中家史料を見る限り、佐賀藩では施薬局をつくり、薬剤への統制と基準づくりを強め、明治元年には、烏犀圓などの薬成分に、有毒成分としての水銀や軽粉、白附子を使うことを禁止するようになったのであった。
◆好生館の医師たちは、西洋医学の薬局方をもとに、我が国漢方薬の内容についても基準作りを目指していたことがわかった。これは、日本薬局方の先駆的業績であり、佐賀藩出身医師永松東海や丹羽藤吉郎らが、日本薬局方の制定や改正に参加したのも、そうした伝統があったからといえよう。
1.嘉永4年の烏犀圓等鑑定願
  乍恐奉願口上覚
某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、
然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、
其以後奉願候牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候
え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候処、
自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、
共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニ〆(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、
然末今又被仰達候は、打追之能書二鑑定之御印御申請候様無之て不叶旨被仰達奉畏候、
就は今又何角難奉願奉恐人侯え共、最前中上候通今更能書改候通ニては買入之向々何とか疑念を起し、
自然と咄口手薄ク可相成哉二付、右等之亘り奉案痛候、去迚ハ御達之旨も御座候処、
打追之通被成置被下候様ニも難奉願、依之重畳吟味合見候処、右能書別紙ニ〆当時御鑑定之御方々様御名前御印をも奉乞講売弘候はは、調合之時々厳密ニ御見分被成下候訳相響一際人気も引立、且は御手〆(締)宜訳こも差当申間敷哉と奉恐奉存候、
其通御聞済於被下は差免被置候調合之儀数代相渡り、我々家株相古ヒ居候候訳、自然と他邦へも相響、冥加至極御重恩猶又難有奉存候条、御支所無御座候はは何卒願之通被仰付被下候様、此段御筋々宜被仰達可被下儀深重奉願候、以上
  亥(嘉永四)六月十九日                    野中源兵衛
                                     野口丈次郎
                                     村岡大兵衛
別当 清次兵衛殿
別当 
別当 兵右衛門殿
                  
右之通願出候処、元々之通ニて施薬局鑑製之印、乞請ニ不相及候段、御当役
御聞届、御申候段、八月十六日町方御役所より三人御呼出ニて御達相成、但此
節町方代官高木権太夫殿・中野忠大夫殿也

2 明治元年烏犀圓等鑑定願への達書写
   烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹
右書載之丸散、先年来鑑定差免置候処、当時医術一般西洋法ニ被相改候ニ付、何分鑑定難相整、被御取上候段、相達被置候処、薬方取捨打追鑑定被仰付度、其人共より願出相成、薬方逐吟味被相改候ニ付、如願鑑定被差免候、尤鑑定印突整相成義候条、以来右印形乞請候様被仰付儀ニ候、以上
 辰(明治元年)十一月廿九日
右之趣奉畏候  以上
          此
          久保庄兵衛
          野口 恵助
          村岡勝兵衛
一 烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除籍ニ相成候