活動報告

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②第2回研究会

12月26日(土)12月26日(土)14時~、

場所:熊本県立大学 文学部棟4F 歴史学(大島)研究室 現地集合

青木、ミヒェル、大島

 14時15分~15時30分・・研究会

  報告1 青木歳幸「佐賀藩種痘関係史料紹介」                   諫早の種痘医野口良陽が、かならずしも西洋医学を信奉していたのではなく、やむなく種痘医としての自分である心情を吐露している漢詩などを紹介。ちなみに良陽の子は、野口松陽といって、漢詩人として著名になった。医師開業免許状の配布は試験なしでも行われた。しかし、幕末になって好生館での試験による免状授与制度が徹底すると、遠距離の学生のために中間地点での入学試験所まであらわれた。峯源次郎に与えられた受験科目は、僂广質斯説并治方、越列吉的尓説、動植二物説の3つであった。また野中家の史料調査において、痘瘡関係史料(池田家治痘論、痘瘡問答、牛痘種法)があることを紹介した。そのうち治痘問答は、肥後の村井琴山の痘瘡問答を、佐賀藩医松隈亨安が天保9年に筆写したものだった。また、六史学会での野中家所蔵解剖書についての報告を行った。ミヒェル先生から『解屍編』は自分で切って自分で測っていることなどが意義が大きいことが話された。

  報告2 ミヒェル・ヴォルフガング「中津地方における天然痘の小史(1)」

  報告書で、中津地方における天然痘の歴史をまとめるまえに、天然痘とは、和漢資料に見られる天然痘の諸名称、16.17世紀の西洋人がみた天然痘、病因に関する推測と学説、天然痘予防など全体的な議論をまず3人の連名でまとめ、以下中津の種痘など各論にはいるのがよいと述べられ、賛同を得た。中津での種痘については、辛島正庵の活動を軸に諸事例を紹介するとした。また幕末における牛痘接種普及の諸相のうち、医師たちによる啓蒙活動も重要であること、牛痘の予防効果・評価も一様ではなく、人痘法も必ずしも否定されていない面もあることなども話された。後半をどこまで描くかも議論になり、種痘が制度化された明治後期(明治42年・1909、種痘法実施)あたりまでを視野にいれたらどうかという議論になった。

  報告3 大島明秀「熊本藩洋学資料の現状」

熊本藩政時代の治痘は、村井琴山の治痘観・治痘技術が熊本藩政におけるそれとみてよい。として『治痘問答』(京大富士川文庫本1、九大医学図書館1本)や、『痘診要薬方』を収集して、解読を始めていること、近代化以後は、高橋春甫(実は資料がほとんどない)や寺倉秋堤について調査をすすめているとの報告があった。『治痘問答』については、偶然、青木が紹介した野中家資料の『治痘問答』が、村井琴山のを佐賀藩医が筆写したものだったので、後日、画像を送付することにした。

 15時30分~16時30分

  熊本県立大学図書館特別資料室の閲覧。図書館の藤井さんが対応してくれた。熊本洋学校関係史料や諸家関係史料が保存されていた。図書館員が2人しかいないので、大島さんが整理にあたっているとのことであった。

7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。

 

「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸  

  27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 

13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603
研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真


医師免状は無試験で授与された?
2015年06月26日
洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史

諫早領医師への医師免状授与の場合
諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。
(1)安政二年四月九日記事
一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事
   手 覚
 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、
医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ
 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸
諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策
家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩
   郷医 雄仙   町医 謙造
右者此の節罷り登り候
     武冨文碩 岡村文意
右者当病二而登り相叶わず候
右之通り御座候此の段御達し仕り候以上
四月九日 益千代内 杉野助右衛門

光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿

 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。
つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富
文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館
弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。
 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。
 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。
 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。

 

種痘医野口良陽

第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

史料多久の種痘(2)

【史料3―23】嘉永六年(一八五三)一一月七日 医学校での再研修予定者名簿

一 医学館より左之人々呼出相成候ニ付一昨五日被罷出候処開業

  免札被相渡候旨於保玄庵より被相達候事

 

       松崎雲晧     於保玄庵

       松尾仲悦     岡橋文賢  

       梶原快堂     鈴山俊庵

       尾形春園     岩永仲健

       前山良意     三根道円

  免札左之通        

            長門殿家来

             尾形道純門人

     内科       於保玄庵

                六拾四才

    医道開業被

    差免候也

    嘉永六年

      丑十一月     医学寮  (医学寮印) 

                     ( 御屋形日記』)

 

【史料3―24】安政五年(一八五八)一二月一九日 好生館開講につき達

向正月十三日開講被相整義候条、医師中無洩、朝六ツ時半出席相成候様、将又、開講業以上、別紙書載之通、御酒被為頂戴候条、此御筋々可被相達候、以上

未十二月二十九日

                        好生館

右之趣承届候 以上

梶原喜兵衛

木下忠左衛門

諸家中

          写

        岡橋文賢 岡橋賢道 鈴山俊庵 山口元逸 鶴蔵六 尾形良益 松崎雲江 三根道圓 西春濤 松尾俊庵 池田文庵  尾形春圓 於保玄庵 於保高庵 吉田文仙 前山杏春 前山雲洞 前山良意 一鴎                   以上

                      (『御屋形日記』)

 

 

 

【史料3―25】安政七年三月三日 西洋法への転換のため、免札再発行につき達

  写   

医師之義厚以思召一統西洋法研究いたし候様被仰付置候付而、免札被相改候半而不相叶義ニ候条、左ニ書載之人々是迄被相渡置候免札之義来ル廿日迄之内、銘々持出、一先好生館相納候様、尤配剤御差留ニ相成候通ニ而、諸人難渋可有之候条、配剤丈ハ当分被指免置候条、此段筋々可被相達旨ニ候 已上  

                 岡橋文賢  同賢道 

                 鈴山俊庵  山口元逸

                 鶴蔵六   尾形良益 

                 松崎雲江  三根道圓 

                 西春濤   松尾俊益 

                 池田文庵  尾形春園 

               於保玄庵  於保高益 

               吉田文仙  前山杏春 

               前山雲洞  岩永仲健 

               前山良意

                     好生館 

 閏三月二日右之趣承知仕候 已上     (『御屋形日記』)

【史料3―26】安政七年(一八六〇)三月九日 医業免札の再発行につき達

    写  

一 医師之義人命ニ預り大切至極之業ニ付、猥ニ配剤不致様医師一統御試之上開業免札被相渡置候処、間ニは無其義執匙配剤いたし候向も有之哉ニ相聞不可然義ニ候条、急速差留相成候而、其段好生館達出相成候様被仰付義ニ候条、此段筋々可被相達候 以上   

申三月九日                 (『御屋形日記』)

 

【史料3―27】安政七年一〇月九日、多久領主より種痘手伝い医師への御苦労代

(前略) 

  一 金 壱両三朱  山口元逸

  一 金 壱両三朱  鶴蔵六

  一 金 壱両三朱  尾形良益

  一 金 壱両三朱  岡橋賢道

 右之者共義引痘方句伝別而太縁仕候付為御労出席之

 度数ニより書載之通可被為拝領欤   (松尾徳明『引痘方控』)

 

 

【史料3―27】万延元年(一八六〇)五月三日 『引痘方控』にみる多久への種痘の実施

一 多久出張  惣針六拾

  一 出張所 下多久 寺

  一 手助  鶴蔵六 尾形良益 岡橋賢道

  一 土産  筈紙弐

  一 手男市兵衛 

  一 八分                ( 『引痘方控』)

史料、多久の種痘(1)

佐賀藩領内の邑主多久家における種痘関係史料である。

種痘伝来科研報告書

科研の成果公開として、『天然痘との闘いー九州の種痘ー』(岩田書院)を出版します。

以下の内容 

口絵                              2頁

目次                             1頁

 はじめに     ・・・・・・・・・・・・青木歳幸 (1頁)

 天然痘について・・・・・・・・・・・・・・相川正臣(?)10頁

 九州の種痘概要・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   10頁

◎佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

◎ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

◎人痘法の普及 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

◎牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

◎佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

◎多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

◎中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 37頁

◎熊本藩の治痘           ・・・・・大島明秀・・14頁  

◎宮崎の種痘(仮)・・若山健海を中心に・・・ 海原 亮・・10頁

◎薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

◎大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

◎黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁

 長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・相川正臣・・・15頁

 小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸  12頁

◎武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・W・ミヒェル・・15頁

 沖縄の種痘(未定)・・・・・・・・・・・青木歳幸・・・10頁

◎長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

◎久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・12頁

                          329頁

佐賀医人伝、犬尾文郁

 佐賀医人伝物語
犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 
       諫早領主侍医・内科医
 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。
 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。
 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。
 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。
 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。
 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。
【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑
写真解説 
①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。
②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。
③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある
④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。
⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。

佐賀医人伝を執筆してー天野房太郞ー

『佐賀医人伝』メモ(2)

天野房太郞。唐津出身医師。ずっと以前に医史跡マップ作成のときに、伊万里市へ調査にでかけ、写真撮影をしたことがあった。今回、再度、碑文調査のため、昨年10月19日に、再調査にでかけた。7.8年前は、伊万里市波多津町辻の高尾山公園も整備されていたが、今回はベンチも汚れ、人影もなく、やや寂れていた。天野翁頌徳碑は、高尾山公園の中腹の、金比羅社参道中腹にあった。碑文は、風化していて読みにくかったが、幸い、『伊万里市の碑文』という先駆的研究で解読してあったので、確かめつつ、記録した。
 ただ、碑文には唐津藩士の子とあるだけで、着到帳などで確かめることができなかったことや現在の御子孫が不明なのが残念。
 ただし、唐津藩士天野家出身者といえば、東京専門学校(早稲田)で教鞭をとった経済学者天野為之が知られる。為之は、唐津藩江戸屋敷詰の唐津藩医天野松庵、藩医天野松庵・鏡子夫妻の長男として生まれたとあるので、おそらく天野房太郞と親戚筋であろう。今後の課題でもある。

天野房太郎(文久二年~昭和一六年、一八六二~一九四一)                唐津の仁医

唐津藩士の子として生まれ、好生館で修業後、東京で細菌法医学精神学校衛生諸科に学び、明治二六年(一八九三)、波多津村辻(現伊万里市)で開業した。以来三〇年、患者の貧富の別なく、薬代や治療費も安くし、近くも遠くも平等に治療するという医は仁術の精神で、地域医療に従事した。大正一一年(一九二二)、房太郎六〇歳を記念して、区長ら一二名がその寿福無窮を願って頌徳碑を発起し、正三位子爵小笠原長生(ながなり)(旧唐津藩主)の書になる碑を、高尾山公園に建立した。
君通称房太郎、唐津藩士也、少壮学於佐賀医学校、事業後、及第於医術開業試験而為医士、君不満仮之、更登東都、究納菌法医精神学校衛生諸科之蓮奥、帰来歴任于検疫官・学校医・村医等、明治二十六年開業於波多津村、春風秋雨三十年如一日矣而、君之接患者也不問親疎、不論貧富、慎重懇切至矣尽矣、遠近知與不知、皆集君門、君慈仁博愛、恤無告救窮之、其開業之初、先廃診料、低薬価、宏開施療、齋生之道、得一村之保健悉依君而安定、人々以欽仰軒岐、頌揚其高徳。今茲大正十一年、君齢達耳順、元気益々旺盛精励、于業務壮者亦不及焉、業間或親書畫、或愛謡曲、以大発揮英雄、胸中閑日月児孫詵々満干内、和気洋々益于可以知、君之前途躋、古稀・米齢而九十而、百積善之寿域、尚無窮、茲村有志胥謀、欲勒(刻)君之高徳、於石以伝于不朽、令予叙之、銘日 術究軒岐 徳覃西郷以寿以福 山高水長

大正十一年十月中幹 正三位子爵小笠原長生書、西松浦郡長正六位勲五等福田三郎選
【参考】『波多津町誌』(一九九九)、『伊万里市史』教育・人物編(二〇〇三)、『伊万里市の碑文』(二〇〇五)。