島義勇と札幌

今朝(10月6日)の佐賀新聞、さが維新ひと紀行。札幌の都市建設を先導した島義勇(しまよしたけ)。
◆明治2年(1869)7月に藩主鍋島直正が初代開拓使長官となり、開拓使首席判官に島義勇を任命。直正は病気のためすぐに辞任。
◆かわりに長官となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに、明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時、箱館(函館)が、旧・蝦夷地の中心であったが、南に偏りすぎているため、北海道の中央に新たに都市を建設することとなった。
◆島は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を世界一の都市とする壮大な計画をたて、建設を開始した。が、厳冬期に予算を急激に消費したこと、地元商人からの反感などから、東久世長官としばしば対立し、明治3年1月に志半ばで解任された。
◆札幌の建設は、かわって首席判官となったもと土佐藩士岩村通俊のもとですすめられた。その設計の基本は、島がたてたものであった。
◆明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移り、札幌を中心とした北海道の開拓が展開した。
◆島義勇は、東京に戻った後、明治天皇の侍従、初代秋田権令などを務めたが、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)を首謀したとして斬首された。
◆島は、札幌開拓の父として、銅像が市役所ロビーと北海道神宮にある。この11月11日には、佐賀にも島義勇の像が建てられる。
◆なお札幌を代表する菓子屋である六花亭に「判官様」という焼き菓子がある。これは島判官を称えてのものであり、「激ウマ」という評判である。

札幌の開拓者島義勇のこと

種痘ではないが、佐賀と札幌の話。今朝(10月6日)の佐賀新聞、さが維新ひと紀行。札幌の都市建設を先導した島義勇(しまよしたけ)。
◆明治2年(1869)7月に藩主鍋島直正が初代開拓使長官となり、開拓使首席判官に島義勇を任命。直正は病気のためすぐに辞任。
◆かわりに長官となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに、明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時、箱館(函館)が、旧・蝦夷地の中心であったが、南に偏りすぎているため、北海道の中央に新たに都市を建設することとなった。
◆島は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を世界一の都市とする壮大な計画をたて、建設を開始した。が、厳冬期に予算を急激に消費したこと、地元商人からの反感などから、東久世長官としばしば対立し、明治3年1月に志半ばで解任された。
◆札幌の建設は、かわって首席判官となったもと土佐藩士岩村通俊のもとですすめられた。その設計の基本は、島がたてたものであった。
◆明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移り、札幌を中心とした北海道の開拓が展開した。
◆島義勇は、東京に戻った後、明治天皇の侍従、初代秋田権令などを務めたが、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)を首謀したとして斬首された。
◆島は、札幌開拓の父として、銅像が市役所ロビーと北海道神宮にある。この11月11日には、佐賀にも島義勇の像が建てられる。
◆なお札幌を代表する菓子屋である六花亭に「判官様」という焼き菓子がある。これは島判官を称えてのものであり、「激ウマ」という評判である。