徳島の関寛斎

◆今日(9月7日)は徳島での種痘資料調査。朝早く関寛斎像を探しに出掛けた。城東高校の東側で中徳島地区の河畔に大きな寛斎像があった。解説をみると、城東高校のグラウンドの一部で関寛斎は開業していて、種痘や患者の治療にあたっていたらしい。
◆城東高校に戻ると、高校生や先生が正門で、登校してくる生徒に挨拶している。ああ、こんな光景、私もあったなあと懐かしくなった。
◆朝食後、徳島市立徳島城博物館へ車で向かった。まだ時間があったので城内を散歩。このあたりは6000年前は海底から盛り上がったばかりだったらしい。この岩陰には貝塚遺跡があって、徳島出身の考古学・人類学者鳥井龍蔵博士が発掘した記念すべき貝塚だそうだ。貝塚の隣に鳥井博士の記念碑も建っていた。ぐるりと一回りして、9時10分ごろ、徳島城博物館の正門前にでた。
◆開館時間は9時30分から。さてどうしよう。博物館前のベンチに座ったら、目の前の桜の木の根っこ周辺に、キノコがこんもり、わっさわっさと出ていた。誰も気味悪がって採ってない。ああ、これはヤブタケだ。ナラタケモドキともいうけれど、立派な食用。8月末から9月にかけて、ほかのキノコに先駆けてでるので貴重なキノコ。ナラタケほどではないが、味噌汁に入れるとまあまあ美味しい。採って帰るのもちょっと難しいのでそのままにしておいたが、誰か気がついて食べるだろうな。
◆そうこうしているうちに開館時間になった。まずここの学芸員小川さんにアポなしだったが、面会を頼んだら、出てきてくれた。やあやあ、というわけで、時間を割いて展示を案内してくれた。洋学史研究会の会員だったことから知り合いだったのだが、今は美術展などを中心にお仕事をされているので、洋学はさっぱりと謙遜していた。しかし、『洋学研究事典』の徳島の項目を御願いしたら、文書館の館長さんらと分担して引きうけてくれた。そのお礼もかねて立ち寄った次第。
◆あわせて、関寛斎や井上不鳴の史料について相談したら、関寛斎の書籍や史料を紹介してくれ、コピーをいただいた。井上不鳴はよくわからないけれど、滝薬師というところに碑があるらしいと教えてくれた。
◆井上不鳴の碑を探しに滝薬師へ向かった。狭い寺町の通りの奥に滝薬師があった。碑文があるかもと、近くの和田之屋さんという茶店の女将さんに聞いたら知らないという。どうしようかなと店内を見回すと、さだまさしの「眉山」という本もあった。昔、映画化されたとき、この店もロケ地になったとか。北野大などのサインもあった。ああ、意外と名店なんだなと思って、まずは名物の滝の焼き餅を抹茶でいただくことにした。滝の焼き餅は蜂須賀公がこの地を治め始めたときからの献上品だという。400年変わらずこの滝の名水でこねて焼いてきたという。焼きたてと抹茶が美味しかった。
◆さて、元気がでたので、石段を昇ること15分、いけどもいけども、それらしき碑文は見えてこない。やがて道のない行き止まりの場所になってしまった。もう先は行かん、いかんともしがたい、井上不鳴はやはり不明だと、とぼとぼ100段以上もある石段を降りた。一番下まで降りて車の近くまで来たら、なんと目の前にあった。山に向かって建ててあったから気がつかずに通りすぎたのだった。
◆やれ嬉しやと写真をとろうとしたが、あら、残念、碑文の部分がすっかりはげ落ちてしまっていて跡形もなく、まったく読めない。残念無念で、滝薬師をあとにして県立図書館に向かった。
◆県立図書館では、関寛斎関係書籍を、たくさんだしてくれてあった。なかでも『阿波の洋学史研究』と『徳島県医師会史』が参考になったので、かなりコピーーさせてもらった
◆県立図書館周辺は文化の森公園といって、県立博物館や県立美術館も建っている。その公園の一番奥に徳島県文書館があったので、ちょっと疲れていたが、向かった。建物は昔の県庁を移築復元したようだ。文書は整理されていたので、種痘や関寛斎などとキーワードを入れてみた。が、なんにもヒットしなかったので医と入れて検索したらかなりの古文書がヒットしたので、医師の開業願などを撮影させていただいた。

丸亀の種痘医河田雄禎

2018年9月6日に丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査をおこなった。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。
◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。
◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。
◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。
◆というわけで旧河田医院跡を確認したあとは、一路、徳島へ。明日午前中に徳島で関関斎と井上不鳴という医師の調査をしてから高知へ向かう予定。関寛斎は知る人ぞ知る有名人だが、井上不鳴は不鳴だけにほとんど不明。

島義勇と札幌

今朝(10月6日)の佐賀新聞、さが維新ひと紀行。札幌の都市建設を先導した島義勇(しまよしたけ)。
◆明治2年(1869)7月に藩主鍋島直正が初代開拓使長官となり、開拓使首席判官に島義勇を任命。直正は病気のためすぐに辞任。
◆かわりに長官となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに、明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時、箱館(函館)が、旧・蝦夷地の中心であったが、南に偏りすぎているため、北海道の中央に新たに都市を建設することとなった。
◆島は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を世界一の都市とする壮大な計画をたて、建設を開始した。が、厳冬期に予算を急激に消費したこと、地元商人からの反感などから、東久世長官としばしば対立し、明治3年1月に志半ばで解任された。
◆札幌の建設は、かわって首席判官となったもと土佐藩士岩村通俊のもとですすめられた。その設計の基本は、島がたてたものであった。
◆明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移り、札幌を中心とした北海道の開拓が展開した。
◆島義勇は、東京に戻った後、明治天皇の侍従、初代秋田権令などを務めたが、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)を首謀したとして斬首された。
◆島は、札幌開拓の父として、銅像が市役所ロビーと北海道神宮にある。この11月11日には、佐賀にも島義勇の像が建てられる。
◆なお札幌を代表する菓子屋である六花亭に「判官様」という焼き菓子がある。これは島判官を称えてのものであり、「激ウマ」という評判である。

札幌の開拓者島義勇のこと

種痘ではないが、佐賀と札幌の話。今朝(10月6日)の佐賀新聞、さが維新ひと紀行。札幌の都市建設を先導した島義勇(しまよしたけ)。
◆明治2年(1869)7月に藩主鍋島直正が初代開拓使長官となり、開拓使首席判官に島義勇を任命。直正は病気のためすぐに辞任。
◆かわりに長官となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)とともに、明治2年(1869年)9月に北海道に向かった。当時、箱館(函館)が、旧・蝦夷地の中心であったが、南に偏りすぎているため、北海道の中央に新たに都市を建設することとなった。
◆島は、銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し、札幌を世界一の都市とする壮大な計画をたて、建設を開始した。が、厳冬期に予算を急激に消費したこと、地元商人からの反感などから、東久世長官としばしば対立し、明治3年1月に志半ばで解任された。
◆札幌の建設は、かわって首席判官となったもと土佐藩士岩村通俊のもとですすめられた。その設計の基本は、島がたてたものであった。
◆明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移り、札幌を中心とした北海道の開拓が展開した。
◆島義勇は、東京に戻った後、明治天皇の侍従、初代秋田権令などを務めたが、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)を首謀したとして斬首された。
◆島は、札幌開拓の父として、銅像が市役所ロビーと北海道神宮にある。この11月11日には、佐賀にも島義勇の像が建てられる。
◆なお札幌を代表する菓子屋である六花亭に「判官様」という焼き菓子がある。これは島判官を称えてのものであり、「激ウマ」という評判である。