ブログ・医学史

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宮崎の種痘ー若山牧水の祖父若山健海について

九州の医学史研究で宮崎県が研究者がいないことを考えていたら大島明秀さんが、若山健海についての史料を紹介してくれた。以下

伊藤卓雄さんの研究です。

 若山健(けん)海(かい)と予防接種
               伊藤 卓雄(埼玉県所沢市)

「若山健海」といってもご存じない方が多いが,歌人若山牧水の祖父。彼は,現在の埼玉県所沢市神米(かめ)金(がね)(旧武蔵国入間郡神谷新田)出身で,幕末の激動期に,江戸や福岡で漢学を学んだ後,長崎でオランダ医学を修めた。故郷には戻らず,日向国(今の宮崎県)の山奥に居を定め,そこで「種痘」を広めた医者として名を残している。
予防接種といえば,昨年来,新型インフルエンザの流行に,世界中がおびえ,ワクチンの確保をはじめ,その予防対策に翻弄されたことは記憶に新しい。
種痘は,幕末当時も流行病であった「天然痘」の予防接種で,なかでも,1796年に英国のジェンナーが開発した「牛痘ワクチン」を使った種痘法(以下,「牛痘法」)は,副作用も少ないため,かなりのスピードで世界各地に普及した。(因みに,「ワクチン」は,英語で(vaccine)。ラテン語の「牝牛」(vacca)に由来する。)
ところが,当時のわが国は厳しい鎖国政策の下にあり,牛痘法についての情報や文献はかなり早くから伝わっていたものの,肝腎のワクチンの入手は至難で,その著効を知る医師たちの渇望久しいものだった。
健海が遺した「種痘人名録」によると,彼は延岡藩の元藩医であった福島退庵(邦成)と協力して,嘉永2(1849)年3月,日向の地で初めての種痘を行ったと読める。
わが国の種痘は,同年の7月(又は6月),長崎において,佐賀藩の藩医楢林宗建によって初めて成功したというのが通史だが,それよりも3月ほど早く健海が種痘に成功したということが事実なら,通史を書き換えることになる。そのような問題提起をしたのは,健海の孫である牧水の高弟大悟法(だいごぼう)利雄だったが,その発表(昭和19年)当時はともかく,その後はあまり関心が持たれなくなった。
数年前のこと,私は,友人達とのお国自慢話から飛び出したこの話題に興味をそそられ,以来,健海が記した僅か3行の文章(「種痘Koepok傳嘉永酉初春上旬到于崎陽蘭人monnickei君為師得是術而歸于宮崎施之連名」)と種痘人名録(240余人分)及び後年の彼の医師免許申請の際の履歴書草稿を手掛かりに,あれこれの資料探索に努めてきた。その結果,当時のワクチンの入手事情や周辺状況を勘案すれば,彼の種痘実施の時期は,1年遅い嘉永3(1850)年3月であろうという推論に達した。
そして,農家出身ながら努力を重ねた彼の勉学の過程を推理し,上記の推論に至った経過などを取り纏めた小論(「若山健海の『種痘人名録』を読み解くために」)が,「沼津市若山牧水記念館館報(第38号・平成19年3月15日号)」及び同館のホームページの「館報」に掲載されるという僥倖を得た。(参考 http://www.dataeast.jp/users/bokusui/9kanpou38-08.htm)
そのおよそ1年後,新資料(「牧水祖父健海の種牛痘之原始と種痘人名録 陶山勲蔵」)が発見され,「若山牧水記念文学館」(宮崎県日向市東郷町)に寄贈されたという知らせを受け,これに記された健海自身の記録からも私の推論が裏付けられることになったのは,思いがけない展開であった。因みに,この中に明治6(1873)年に記された健海の文章があり,牛痘法伝受のため長崎へ行ったのが「嘉永三戌初春」(嘉永3年1月)とされている。
私は,自分の推理が的外れに終らなかったことに安堵するとともに,新資料の解析にも取り組み,当時の医師たちが,幼い子供達の命と多くの人々の人生を救おうとして,オランダ医学の修得と普及にかけた情熱と努力を,関連類書を含めて読み解きながら,改めて感動を深めている。そして,先人達の,「保嬰」(幼い者の命を守ること)の精神,情熱 努力は是非とも語り継ぎたいと思う。
新資料には,ほとんど漢字ばかりの前文(牛痘法に関する記述:34行500字ほど)と種痘人名録(146人分)が記載されており,現在,その内容を追究中だが,この作業の過程で,幕末における多くの人々の,蘭学と新医術の習得に注いだ情熱と努力を改めて強く感じるとともに,様々の記録が残されてきたことを有り難く思う。
残念ながら,漢文や漢字片仮名交じりの文語体,毛筆体でくずし字ありといった難読難解の資料を前に嘆息するばかりだが,もっぱら文献探索中心の作業に留まる者にとって,国会図書館をはじめ各種図書館やインターネットを通じて情報収集が容易になってきていることも,今の時代の見逃せない幸運である。
文化の伝承という視点から,書き残すことの大事さを痛感するとともに当今の「文字」・出版・情報に関する諸事情に思いを馳せることもたびたびで,末筆ながら,三九出版様の根気強いご活動に感服するとともに,貴重な紙面のご提供に心より感謝申し上げる次第です。 

  牧水生家は、歌人若山牧水が生まれた家で、江戸時代後期に牧水の祖父である若山健海によって建てられた。健海は、現在の埼玉県所沢市に生まれ、15歳の頃から江戸・福岡・長崎で漢学・蘭学・西洋医術などを学んでいる。天保7年(1836)25歳のときに坪谷にて移り住んで開業し、弘化2年(1845)に診療所をかねた2階建ての家を建てている。医院としての機能を持たせるために、当時としては大きな構えの家を作る必要があり、石垣に囲まれた敷地には、井戸や馬小屋をかねた納屋など当時としては立派な家構えだったといえよう。
  牧水(本名:繁)はこの家の東にある縁側で誕生し、多感な幼年期をこの山紫水明の地坪谷で過ごしている。家族や地域の人々によって愛情たっぷりに育てられることで、その短歌作品に大きな影響を受けている。雅号の牧水は、母である牧(マキ)と坪谷川の流れを合わせたものであるという。

 

2015.10.01 ◆川村肇さんのFBからシェアしました。江戸時代の庶民教育機関を寺子屋といいます。この名の由来は、村の知識人である寺の和尚さんから庶民が手習いを教わった寺子という意味からこの名がついたといわれるからです。たしかに信州では、手習いに出ることを登山というのは、そのなごりといえます。◆木村政伸さんの問題提起は、寺子屋の呼称について、「日本教育史資料」では「私塾・寺子屋」という項目の立て方があるが、入江宏氏が、実態から寺子屋にかわる用語として手習塾、私塾にかわる用語として学問塾とよぶことを提唱した、さらに別の適切な呼称があるかもしれないというのが、この文章の趣旨です。たしかに入江氏は、たとえば『栃木県教育史』などで手習塾の用語を使っています。◆ただし、木村さんが「日本教育史資料』において「私塾・寺子屋」とあるように述べているのはやや違っていて、この段階では「私塾・寺小屋」という分類でしたので、現在は、寺子の学習の場ということで寺子屋と呼び、寺小屋は誤りとされています。◆木村さんは、九州の筑紫女学園大学時代に、寺子のことを筆子とよぶのが九州の実態にふさわしいと主張(『近世地域教育史の研究』 思文閣出版、2006年)し、筆子塚の地道な研究をされていました。◆国立歴史民俗博物館の高橋敏さんの共同研究「非文献資料の基礎的研究(筆子塚の共同研究)」において、私も木村さんとご一緒に研究をしたことがあります。その後、しばらく会わないまま、音信も絶えていましたが、『鴨東通信』で思いがけず再会できてうれしいかぎりです。◆読書の秋です。久しぶりの書籍での研究者仲間との再会に、まさに「ひとり灯火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」(『徒然草』第13段)の境地で、見えない友とも共感できるのが読書の醍醐味と実感しました。

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