活動報告

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『天然痘との闘いー九州の種痘』

研究分担者・研究協力者のご協力のおかげで、無事、岩田書院へ3年間の研究成果として

論考集を、入稿できました。

わが国に伝来した牛痘とはどのようなものであったか、

長崎に伝来して、九州各地にどのようにもたらされ、医師と行政(藩・幕府)と民衆の意識をどのように変えていったのか

地域医療の近代化にどのようにかかわったのか

などを、九州各地の種痘の実例から明らかにします。

あらたな史料発掘もたくさんあり、医学史のみならず、地方史、文化史などにも

必ず役にたつ本となるでしょう。

なお、この科研チームは、あらたな段階への研究、すなわち、種痘の全国展開についても

研究を展開すべく、30年度以後の科研費申請も行っております。

1 論考集「天然痘との闘いー九州の種痘」

 

口絵                              2頁

目次                             1頁

1はじめにー九州の種痘概要・・・・・・・青木歳幸 (10頁)

2天然痘について・・・・・・・・・・・・相川正臣10頁

3ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁

4人痘法の伝播 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 

5牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁

6牛痘伝来再考     ・・・・・・・・・・青木歳幸   20頁

7長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣   10頁

8大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁

9佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁

10佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁

11多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁

12長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁

13小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸・・17頁

14武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・・・・W.ミヒェル・14頁

15久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・17頁

16中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 31頁

17熊本藩の治痘           ・・・・大島明秀・・13頁  

18天草の種痘・・・・・・・・・・・・・・・/青木歳幸・・8頁(?)

19若山健海と宮崎の種痘・・・・・・・・・・ 海原 亮・・14頁

20薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁

21黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁

 

 

 

種痘科研関係者各位
  29年度第2回種痘科研打ち合わせ会のお知らせ
                             研究代表者青木歳幸
  下記により、第二回打合会を開催しますので、お集まりください。
 日時:11月5日(日)
 場所:電気通信大学東3号館301号室
 時間:17:15~19:15(洋学史学会ミニ・シンポ終了後)
 議題:1.科研費報告書史料集の準備状況
    2.30年度科研申請について

平成27~29年度科学研究費補助金(研究種目 基盤研究(C) )研究課題番号:15K02867

      「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」

                     研究代表者(所属機関・部局・職・氏名)

                    佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸

        29年度第1回研究会開催要項

 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)29年度第1回研究会を開催しますので、長丁場な日程ですが、ぜひ、ご参集ください。

 日程

 8月4日(金)

  10時に九大医学歴史館前に集合

  10時から12時まで、九州大学耳鼻咽喉科学教室・久保記念館

                医学歴史館、人体・病理ミュージアム見学

  12時00分~ 昼食 医学部周辺

  13時30分~ 29年度第1回研究会(於九州大学医学部附属図書館)

    議題1.研究報告書・今後の日程について(青木)

      2.研究報告

        海原 亮「若山健海種痘資料と延岡の医療環境(仮題)」

        山内勇輝「大村藩の種痘伝播と藩医 長与家(仮)」

        大島明秀「寺倉秋堤の種痘伝習について」

        相川忠臣「長崎の種痘について」

        青木歳幸「小倉領の種痘」

  15時30分~16時30分まで、九州大学医学部図書館展示室見学 

  17時00分~ 懇親会・食事

 

28年度種痘伝来研究実績の概要

28年度は、各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月16日~18日、島津尚古集成館で開催した。薩摩における種痘史料調査では、八木称平、前田杏斎らの事績のほかに吉良元民らによる種子島種痘史料、天ケ城歴史民俗資料館において黒江家種痘史料を見出した。また日向で最初に種痘を実施した若山健海の種痘記録も若山牧水記念文学館で見出した。これらの史料はいずれも最終年度報告書に翻刻する予定である。

各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は、鹿島藩・小城藩・蓮池藩・諫早領等、佐賀藩領内種痘史料調査を実施し、その成果の一部を、日本医史学会等六史学会合同例会(2016.12.17・於順天堂大学)において「牛痘伝来をめぐる一考察」を、野中家史料研究会(2017.1.27、於佐賀大学)において「野中家の牛痘書」を報告し、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2017.2.25)において楢林宗建・野口良陽・織田良益・下河辺俊益ら医師の種痘活動を執筆し、新知見と新史料を紹介した。

現在までの進捗状況

年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約6割である。佐賀藩の種痘に関しては,嘉永2年(1849)にモーニッケの指導を得て、佐賀藩医楢林宗建が種痘に成功し、その痘苗が佐賀藩から江戸へと伝播した経路などの解明のほか、佐賀藩領における引痘方による計画的な種痘実施の実態、種痘医と漢方医の対立・煩悶なども新たに発掘し、その研究成果を前掲『佐賀医人伝』に反映できた。学会発表・論文は、前掲のほか、シーボルト没後150年記念講演会招待講演「シーボルトとその門人」(2016.09.10、於長崎歴史文化博物館)、ISHIK2016・在来知歴史学国際シンポジウム「日本薬局方の先駆的活動」(2016、10。23~26、於佐賀大学)、「『御診察日記』にみる西洋医学治療」(『佐賀学Ⅲ』、海鳥社、pp207~232)などを成果公開した。

今後の研究の推進方策

研究最終年度において、わが国最初に種痘を実施した沖縄種痘史料調査及び第1回研究会を7月に沖縄で実施し、九州における種痘実施状況を比較研究する。第2回研究会を年末に長崎か福岡で実施し、研究のまとめを行う。

 各自調査も青木は、武田杏雨書屋、京都大学等での種痘資料調査と、九州諸地域の種痘関係資料の収集に努める。

 

研究協力者の海原亮と小川亜弥子は、研究会や調査に参加しつつ、研究報告書の刊行に協力する。

各自調査に、並行して、最終年度の研究報告書(含む資料集)刊行のために、資料選択・翻刻もすすめる。現時点での主な翻刻予定資料は、野中家種痘資料、若山健海種痘記録、黒木家種痘資料、種子島家記、武谷祐之『牛痘告論』、「痘瘡唇舌鑑図

 

7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。

15K02867 

「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸  

  27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 

13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603
研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真


医師免状は無試験で授与された?
2015年06月26日
洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史

諫早領医師への医師免状授与の場合
諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。
(1)安政二年四月九日記事
一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事
   手 覚
 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、
医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ
 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸
諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策
家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩
   郷医 雄仙   町医 謙造
右者此の節罷り登り候
     武冨文碩 岡村文意
右者当病二而登り相叶わず候
右之通り御座候此の段御達し仕り候以上
四月九日 益千代内 杉野助右衛門

光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿

 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。
つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富
文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館
弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。
 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。
 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。
 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。

 

種痘医野口良陽

第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

佐賀医人伝、犬尾文郁

 佐賀医人伝物語
犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 
       諫早領主侍医・内科医
 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。
 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。
 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。
 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。
 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。
 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。
【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑
写真解説 
①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。
②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。
③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある
④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。
⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。

佐賀医人伝を執筆してー天野房太郞ー

『佐賀医人伝』メモ(2)

天野房太郞。唐津出身医師。ずっと以前に医史跡マップ作成のときに、伊万里市へ調査にでかけ、写真撮影をしたことがあった。今回、再度、碑文調査のため、昨年10月19日に、再調査にでかけた。7.8年前は、伊万里市波多津町辻の高尾山公園も整備されていたが、今回はベンチも汚れ、人影もなく、やや寂れていた。天野翁頌徳碑は、高尾山公園の中腹の、金比羅社参道中腹にあった。碑文は、風化していて読みにくかったが、幸い、『伊万里市の碑文』という先駆的研究で解読してあったので、確かめつつ、記録した。
 ただ、碑文には唐津藩士の子とあるだけで、着到帳などで確かめることができなかったことや現在の御子孫が不明なのが残念。
 ただし、唐津藩士天野家出身者といえば、東京専門学校(早稲田)で教鞭をとった経済学者天野為之が知られる。為之は、唐津藩江戸屋敷詰の唐津藩医天野松庵、藩医天野松庵・鏡子夫妻の長男として生まれたとあるので、おそらく天野房太郞と親戚筋であろう。今後の課題でもある。

天野房太郎(文久二年~昭和一六年、一八六二~一九四一)                唐津の仁医

唐津藩士の子として生まれ、好生館で修業後、東京で細菌法医学精神学校衛生諸科に学び、明治二六年(一八九三)、波多津村辻(現伊万里市)で開業した。以来三〇年、患者の貧富の別なく、薬代や治療費も安くし、近くも遠くも平等に治療するという医は仁術の精神で、地域医療に従事した。大正一一年(一九二二)、房太郎六〇歳を記念して、区長ら一二名がその寿福無窮を願って頌徳碑を発起し、正三位子爵小笠原長生(ながなり)(旧唐津藩主)の書になる碑を、高尾山公園に建立した。
君通称房太郎、唐津藩士也、少壮学於佐賀医学校、事業後、及第於医術開業試験而為医士、君不満仮之、更登東都、究納菌法医精神学校衛生諸科之蓮奥、帰来歴任于検疫官・学校医・村医等、明治二十六年開業於波多津村、春風秋雨三十年如一日矣而、君之接患者也不問親疎、不論貧富、慎重懇切至矣尽矣、遠近知與不知、皆集君門、君慈仁博愛、恤無告救窮之、其開業之初、先廃診料、低薬価、宏開施療、齋生之道、得一村之保健悉依君而安定、人々以欽仰軒岐、頌揚其高徳。今茲大正十一年、君齢達耳順、元気益々旺盛精励、于業務壮者亦不及焉、業間或親書畫、或愛謡曲、以大発揮英雄、胸中閑日月児孫詵々満干内、和気洋々益于可以知、君之前途躋、古稀・米齢而九十而、百積善之寿域、尚無窮、茲村有志胥謀、欲勒(刻)君之高徳、於石以伝于不朽、令予叙之、銘日 術究軒岐 徳覃西郷以寿以福 山高水長

大正十一年十月中幹 正三位子爵小笠原長生書、西松浦郡長正六位勲五等福田三郎選
【参考】『波多津町誌』(一九九九)、『伊万里市史』教育・人物編(二〇〇三)、『伊万里市の碑文』(二〇〇五)。

シーボルト記念館鳴滝紀要27号

◆シーボルト記念館鳴滝紀要27号が届いた。遠藤正治「シーボルト編『日本植物目録』の改訂稿について」、マテイ・フォラー「シーボルトと北斎」、堅田智子「シーボルト、ミシャリエス、スクリバの明治」、町田明広「シーボルト書簡の新発見」、織田毅「近世中後期における長崎・出島の労働者について」などの内容を掲載。◆とくに『日本植物目録』とシーボルトの書簡新発見は、洋学研究史上重要な意義を持っている。これらの資料は京都の古書店主若林正治氏の旧蔵で、雄松堂書店(当時)の仲介で、神田外国語大学附属図書館に「洋学文庫」として収蔵されたもののなかにあった。◆本来は維新史研究者の町田氏が就任して、洋学文庫の目録づくりを担当することになり、調査を開始すると、植物目録に伊藤、賀来の日本名のほかにオランダ語の筆跡も見えた。◆そこで本草学やシーボルト研究に詳しい遠藤正治・鳥井裕美子・松田清の3人の研究者の協力を得て、調査をすすめると、この植物目録は、尾張のシーボルト門人伊藤圭介が、長崎に持ち込んだ1600種の植物標本に、シーボルトが伊藤と同じくシーボルト門人の賀来佐之(かくすけゆき)に、学名と和名をつけることを命じたものであったことが判明した。◆シーボルト自筆書簡の新発見とは、賀来が植物目録の作成中の1828年、シーボルト事件が起こり、シーボルトが賀来に、この目録の作成を急がせた書簡が、洋学文庫のなかから発見され、2016年2月にNHKで放送されたものであった。◆結局、シーボルトはこの植物目録を手にしてオランダに帰国することなく、やがて神田外国語大学の洋学文庫のなかに収められることになったのだが、この目録や書簡から、従来あまり注目されていなかった豊後出身蘭学者賀来佐之が、植物についての抜群の学識と語学力を有していたことなどが判明したのであった。

中井常次郎と東京府癲狂院

◆相良知安さんの御子孫相良隆弘さんと、相良家文書を読んでいる。そのなかに 東京府癲狂院長の中井常次郎なる医師の名前が出てきた。癲狂院は精神病院のこと。
◆『岡田靖雄著『私説松沢病院史』(1981・岩崎学術出版社)』によれば、 日本最初の公立精神病院は明治5年(1872)創設の京都療病院付属癲狂院で、京都府が南禅寺方丈に設立し、明治8年(1875)年7月25日に開業した。作業療法など施され、かなり進んだ治療がなされていたらしい。しかし地方財政の悪化で、この最初の公立精神科病院は82年10月に廃止されて、その医療器具、調度は私立癲狂院(現川越病院)に引き継がれた。京都癲狂院に続いては明治11年(1878)に東京に私立の癲狂病院(もと狂疾治療所)と、瘋癲病院が、翌年には府立の東京府癲狂院および私立の瘋狂病院(のち根岸病院)が設立された。87年当時の癲狂院は、東京府に4院(うち公立は1)、京都府に3院、大阪府に3院であった。精神科病院がこのように三府、なかでも東京府に偏在する傾向は大正年代いっぱいまで続く。東京府癲狂院は89年に、患者がその名を嫌って入院を拒否するからとの理由で、東京府巣鴨(すがも)病院と改称された。ついで精神病院を院名に入れるものが出、98年の東京脳病院あたりから脳病院を称するものが増加してきて、癲狂院・癲狂病院の呼称は大正時代に消滅した。この呼称は、日本で精神疾患に対する施策が貧困で、公的な精神科病院がほとんどなかった時代を象徴していると岡田さんは述べている。
◆東京府巣鴨病院は、大正8年(1919)に世田谷の現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始め、現在に至っている。
◆中井常次郎は、この東京府癲狂院の第2代院長で、じつは、日本精神病史に残る事件にも関わっている。岡田靖雄「大隈重信と日本の精神衛生運動」(『日本医史学雑誌』第54巻第1号、2008)によれば、大隈重信が玄洋社員に爆弾を投げつけられて負傷し、膝上から右脚を切断せざるをえなくなった。このときの執刀医が佐藤進で、「前東京府癲狂院長の中井常次郎は当時,外務大臣官舎医務嘱托で、このときの治療にもあたった」とある。
◆もう一つは東京府癲狂院における相馬事件である。公益社団法人日本精神神経学会のホームページ(https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php…)によれば、相馬事件とは、旧中村藩(現・福島県)主相馬誠胤が、24歳で緊張病型分裂病とおもわれる精神変調にかかり、自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりした。1883年頃から旧藩士の錦織剛清らは、殿様の病気は、御家の財産を乗っ取るために、精神病院へ無理矢理押し込んだものと訴えを起こしていた。そしてとうとう、明治20年(1887)に錦織は、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた。 相馬の死後1年して錦織は、殿様の死は毒殺だと告訴し、相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが拘留された。 中井は”毒医”として有名になった。 また家令であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も、陰謀の中心人物として拘留された。 墓を掘り返し死体を調べたが、毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり、錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となった。 錦織に組みしていた後藤新平は、1893年(明治26)当時内務省衛生局長であったが、この事件に連座して局長を止めることになり、無罪となったのちは政治家に転進した。 万朝報はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していた。 この事件は外国にも、日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道された。
◆中井常次郎は佐賀出身の医師のようである、が、まったく知られていなかった人物で、今後、調査を続けたい。

大庭雪斎

佐賀医学史話。大庭雪斎について
■大庭雪斎はシーボルトに学んだか。
大庭雪斎、名は忞(つとむ)、字は景徳。雪斎と号す。佐賀藩士大庭景平(仲悦)の子で、同族の大庭崇守(寿庵)の養子となる。文政年間に島本良順(龍嘯)について蘭学を修行した。その後、長崎に出て、シーボルトに師事したとの伝承がある(呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』)が、確証がなく、むしろこれは間違いだろう。というのは、雪斎自身が、自著のオランダ語文法書である『訳和蘭文語』前編の安政二年一二月序文で、「不肖年三十九ニシテ初テ原本ヲ習読シ、今日ニ至ルマデ十有二年許、中間世累ノ為ニ看書ヲ怠ル者若干年、方今ハ厳命ヲ奉シテ原本ニ臨メトモ、研業年月浅クシテ、猶上面ニ一膜ヲ隔テタルカ如シ」と述べており、三九歳にして初めてオランダ語の原本を習読したとあるので、雪斎が蘭書を習読したのは、長崎でなく、次に述べる大坂時代のことと考えられる。
◆雪斎は、どこで蘭学を本格的に学んだか。緒方洪庵が、『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずにやってきて洪庵の門に入り苦労して大成したと書いてある。
◆洪庵の蘭学師匠は二人いて大坂の中天游と江戸の坪井信道である。古田東朔氏の調査によると、寛政一〇年~一二年にかけて刊行された志筑忠雄『暦象新書』上中下三巻に、雪斎が刪定を加えた安政四年(一八五七)の『暦象新書』の雪斎の序文に「余往年浪速ニ遊ビ、先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ。爾后ハ医事ノ紛雑ナルガ為ニ之ヲ筐中ニ納メテ顧ルコト無リキ。再遊ノ後ニ於テ、家族等愚昧ニシテ書籍ノ何物タルヲ知ズ、此書ヲ併セテ人ニ借与シ亡失セル、若干部若干巻ナリ」とある。
◆雪斎の師は大坂の蘭学者中天游であり、天游の蘭学塾思々斎塾で洪庵とともに蘭書を学んだあと、いったん郷里に帰り、ふたたび大坂に来て、洪庵の適塾に通ったのであった。洪庵は文政九年(一八二六)七月から天保元年(一八三〇)まで天游塾に学んでいるので、雪斎もこの四年間のある時期に洪庵とともに天游の思々斎塾で、医学のみならず『暦象新書』など自然科学的な素養を身に付けたのだった。
◆大坂で修行した時期と場所はどこか。
郷里に帰ってから再び大坂に遊学した雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化二年)に、「内科 今橋二丁目 大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所にあった。
大坂再遊の期間は、中野操氏旧蔵の浪速医師見立番付による調査では、天保一五年(弘化元年、一八四四)二月版には、雪斎の名前がなく、弘化二年四月版に東前頭三六枚目に初見で以後番付が少しずつ上がって、弘化三年四月版で西前頭三〇枚目、弘化四年五月版で西前頭二〇枚目と少しずつ番付けがあがり、弘化五年(嘉永元年)五月版には、雪斎の記載がなくなっているので、弘化二年、三年、四年の三年間で、この間に医業を開きつつ、適塾に通って蘭学学習・原書講読を深めたものと思われ、さきに『訳和蘭文語』で三九歳のとき初めて原書を講読しというのも弘化二、三年のこの
修行のときと合致する。
◆洪庵の塾で研鑽をつみ、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文に、次のように
          足守  緒方章公裁
              義弟郁子文 同訳
          西肥  大庭忞景徳 参校
と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになった。
洪庵の門人帳『適々斎塾姓名録』には、天保一五年正月からの六三七人の名が書き継がれているが、この門人帳には雪斎の名前がない。それは、雪斎が洪庵の同門であり、客分的な存在であったからであろう。
◆なぜ大坂を選んだか。
じつは、雪斎の最初の蘭学師匠島本良順(龍嘯)が、文政五年(一八二二)から大坂に出て天満町で開業し、大坂に出て三年後、文政八年九月発行『浪花御医師見立相撲』(大坂医師番付集成12 思文閣出版)に、「頭取 テンマ(天満)島本良順」と初めて記されるまでになった。さらに翌文政九年、文政十一年の『浪花御医師名所案内記』や『海内医人伝』にも記載され、きわめつきは、文政十二年三月刊の『俳優準観朧陽医師才能世評発句選』には、「解剖 中環 糸町端、精緻 島本良順 西天満、窮理 橋本曹(宗)吉 塩町」と紹介されている。
良順の右隣は解剖の得意な中環とあり、緒方洪庵の師でもある中天游のことで、左隣は、窮理(物理学)で著名な我が国電気学の祖ともいわれる橋本宗吉であった。解剖と窮理で高名な二人に並んで記載されるほどの「精緻」な蘭方医として評価されるようになっていた。良順の学問的志向が、医学だけでなく自然科学にもむけられており、こうした良順の影響により、雪斎は大坂を目指したのであろう。
◆帰国後の大庭雪斎はどうしたか。
雪斎は、嘉永四年(一八五一)藩の初代蘭学寮教導となり、安政元年(一八五四)に弘道館教導となり、オランダ語の文法書『訳和蘭文語』前編を安政三年、同後編を同四年に刊行し、オランダ語学習には文法を学ぶことの重要性を、わかりやすい口語体で紹介した。安政五年(一八五八)に好生館ができるとその教導方頭取となり、西洋医学教育を推進した。文久二年(一八六二)には、物理学入門書『民間格知問答』を刊行し、教授した。佐賀藩の西洋医学・自然科学を率先して推進したのであった。
◆雪斎はその後どうなったか。
慶応元年(一八六五)に職を辞した雪斎は、維新後の明治六年三月二八日に没し、伊勢町天徳寺に葬られた。六八歳。法名を義山常忠居士という。
オランダ語に秀で、多くの著作物を残した。『遠西医療手引草』、『民間格知問答』(元治二年・一八六五)、『訳和蘭文語』(安政二年、三年・一八五五。
五六)、『液体究理分離則』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)、『(ヘンデル)算字算法起原或問』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)