◆正橋剛二(まさはしこうじ)という富山の精神科のお医者さんで日本医史学会会員がいた。
◆知り合ったのは、今から約25年前、立山に関する本草学の研究書を読んだことから、当時私が代表をしていた国立歴史民俗博物館の「地域蘭学の総合的研究」(報告書は国立歴史民俗博物館から同名で2004年刊行)に参加していただいた。
◆この研究で、正橋先生は「越中高岡蘭方医の研究」という論考を発表された。知られている蘭学者門人帳から高岡の蘭学者を網羅し、その事績を史料にもとづいて解明した400詰め原稿用紙100枚にも及ぶ実証的な研究だった。
◆爾来、ご一緒に研究をさせていただいた。京都の医家小石元俊・元瑞らの塾究理堂に入った越中の蘭方医が多かったことから、小石家文書の研究をしたいと語られていた。
◆そして、今から12年前、平成19年(2007)8月9日、ご一緒に京都の小石秀夫医院をお訪ねして、書簡研究のご許可をいただいた。…
◆それから、先生と私と、海原亮(住友史料館)、有坂道子(橘大学)、三木恵里子(当時京都大学大学院)に古文書解読の先達浅井允昌(堺女子短大名誉教授)をお招きして、毎年3回の研究会を京都で重ねてきた。
◆研究会の夜は懇親会で、歴史や医学、山岳の話などを、柔和な笑顔でお話される先生が印象的だった。
◆研究会の書簡解読は、思いの外、時間がかかった。一つの書簡を初回担当者が解読・解説してみんなで検討後、2回、3回と担当者を変えて、3回以上同一文書を読み合わせ、間違いないといえるところまで、繰り返し解読したのだが、近世の医学用語が難しく、初回は、1日かけても埋まらない文字も多くあった。
◆たとえば、小野蘭山の薬に関する書簡、譽石、葶藶(ていれき)、阿勃勒(あぼつろく)など、漢方医学の知識がないと理解できない言葉が一杯でてきて、正橋先生になんども教えていただいた。
◆亀井南冥から小石元俊にあてた寛政2年(1790)12月19日付の長文の書簡があった。寛政2年といえば、寛政異学の禁が出され、幕府では朱子学以外教授禁止になった。その余波が福岡藩に及び、寛政4年に南冥は甘棠館祭酒を罷免させられるのだが、まだその危険は感じていなかったようで、医業では「内外ニてハ三百人餘ニ及候病人数」と書いており、医業繁多で薬の製造が間に合わなかったことが書かれている。
◆この書簡は、従来、亀井南冥といえば儒学思想のなかでそれこそ無数に語られ研究書があるなかで、医者としての南冥が語られることはほとんどなかった。しかし、じつは南冥は医者としても名医であったことをうかがわせる重要な文書であった。
◆この書簡中に、どうしてもわからない文字があった。瓜の下の字はどうみても、草かんむりに帯だがなんだろうと思案投げ首していたら、若手の三木さんがスマホで文字検索して、あった、瓜蔕(かてい)、マクワウリの蔕(へた)のことで、痰などを除く薬と解説してくれた。一同が、スマホの威力をあらためて感じた一瞬だった。
◆それやこんなで、あっというまに時は過ぎ、平成27年になった。春の研究会に出られた正橋先生は、その日は懇親会も出ずに早めに帰られた。その6ヶ月後、私たちは先生の訃報を聞くことになった。
◆先生の生前に本にできなかったことを悔やみ、残された私たちは、墓前に備えることを急いだ。海原さん、有坂さんが中心に編集をすすめ、ほぼ原稿が揃った。
◆さいわい、今年、文科省の出版助成研究に合格して、この12月に、『究理堂所蔵京都小石家来簡集』(思文閣出版、2017年12月20日、14400円プラス税)として出版できた。高額なので図書館などに推薦していただいたら幸いです。
2017年のアーカイブ
箕作阮甫「西征紀行」について
◆嘉永6年(1853)ペリー来航後一ヶ月半に、ロシア使節プチャーチンが長崎に来航し、開国や通商関係の要求を行った。
◆幕府はロシア応接係として筒井政憲、川路聖謨、武田斐三郎らを長崎に派遣した。川路の従者として、オランダ語の得意な蘭学者箕作阮甫をつけた。阮甫の出張記録が『西征紀行』である。
◆嘉永6年10月30日に江戸を出発した一行は、12月6日に佐賀に入った。いったん、上海に向かっていたプチャーチンが、嘉永6年12月5日(1854年1月3日)に再び長崎に戻り、幕府全権の筒井政憲、川路聖謨らと計6回に渡り会談した。
◆交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。
◆2月5日(嘉永7年1月8日)にプチャーチン一行は、長崎を発ち、マニラに向かった。
◆幕府使節も江戸への帰路嘉永7年1月20日に、佐賀に入り、1月22日に反射炉を見学し、医学館(医学寮)に招かれ、接待を受けた。一行は、1月23日朝暗い内に佐賀を出た。
今回の報告は、そのときの記録紹介である。
幕府一行佐賀へ到着
(12月)六日 繁霜。午暖。 七日晴。
六時前駕を発せんとする前、司農より、急に用事あれば本陣へ参るべきよし用人より申し来りしかば、速やかに至り謁するに、昨五日辰刻①比、峩船②四隻、長崎港へかえり来りたるよしの急帋③(きゅうし)到りぬ。さらば一日も早く長崎に詣り対面すべし。俄羅斯領止白里④(シベリー)地方の事、彼と問答すべき件々、書き記し出だすべきよしの命ありければ、別に認め差し出ださんと稿を起こす。
司農又日く、峩羅斯船中は沾疾④(せんしつ)の人甚だ多く、死者八十人に及びぬ。その⑤死屍を海中に投ずるに究せしかば⑥、測量などに托し、小舟を出だし棄てぬるに至りければ、(地を択び)上陸を請いしかど、鎮台の許しなければ、怒りて支那地方に赴きしよし。扨も扨も不愍(ふびn)の事なめりと語られぬ。
神崎にて午飯し、佐賀⑦に抵り蓮池町正木屋庄吉といえる売薬韓に宿す。千住大之助、肥前守どのの使いとて銀二枚賜いぬ。久しく相見えざれば相共に酒酙(く)む。斐三郎を尋ぬる書生并びに余に旧交なりとて五・六輩⑦来れり。
然るに司農の用人より、今夕九時比発程し、日夜兼ね行くべしと令しぬ。さらば発せんとて俄に行を促し、(七日の日になりて)明日泊まるべき武雄(即ち塚崎)にて午飯す。此の地は肥前の家老の采邑⑧とぞ。温泉一区あり。嬉野も温泉ありて稍繁華なり。
彼杵にて宿す。一酌して仮寐す。
①辰刻・・今の午前七時ごろ。②峩船・・ロシア船。③急帋・・急ぎの手紙。帋は紙。④沾疾・・コレラや腸チフスなど下痢性の伝染病。④止自里 今のソ連領シベリア。ロシア語でシビリ、シビル。院甫は『改正増補蛮語箋』に「止自里-Siberi21―シベリー」と記している。川路はいよいよプチャーチンとの交渉を旦別にして、改めて洋学者としての外国事情に詳しい阮甫の意見を徴したものと思われる。⑤死屍・・死体。⑥究せしかば・・困りはてる。⑦輩・・ともがら、仲間。⑧采邑・・領地。。
佐賀市。鍋島家三十五万七千石の城下町。
(4) 千住大之助 (1816~78)・・・佐賀藩士。号は西亭・西翁。肥後に遊学し藩校の指南役、藩主直正の御側頭兼目付となる。プチャーチンの渡来に際しては長崎に出張し、『西亭私記』等を残した。
幕府一行帰路に佐賀へ
二十日 雨。午後晴。
昨夜よりの雨徹夜止まず。今朝に到りて少しは減じたれど、前途の小川水銀りて済(わた)るべからずとて、朝十時の比までも発靭せず。久しくしてもと来りし駅外の川の方へ立ちもどり、これを済りて河源に遡り、行くこと数町にして川を乱(わた)り前程を取る。ひる後雨歇み、風起こり雲解駁し、晩は一天葺れわたりぬ。昨日以来寒暖の変化に感ぜし上、久しく輿中に動揺せらるるに慣れざる故にや、頭痛・微悪寒・腰痛甚だし。されどこれは余がおりおりある所の病なれば意とせず。
二時頃嬉野に抵り、双松楼といえる穀堂翁が額字ある楼上にて一酌す。別号なるにや琴鶴道人と署せり。されば印章は古賀燾(おおう)といえる字あり。
黄昏武雄又塚崎に抵(あた)る。本陣の内に温泉あり。清列可鑑、温暖身に適す。入浴する久しくして肌(き)肉(にく)の痙撃鮮弛(かいち)するを覚う。旅寓にかえり一酌して寐ぬ。
佐賀に至り二日を経て、反射炉を見たらん後は、余は筑前に向かい、斐三郎は佐賀に留まり、猶精しく反射炉を閲し、五・六日も過ぎて後、直に肥前の原路を経て小倉に出で、下関より船して、伊予大洲なる郷里にかえりて母兄を省し、二月二十日比大阪に出でぬべき約なり。余も其の比までには、築紫(筑紫)かたより中国路にかかり、作州にて墳墓を拝し、二十四・五日比浪華に出でぬべきこころ組みなり。
同じく江都を出ずる時冬に属す 峩船蘭舶酒千鐘
春風手を分かつ紅炉の畔 也(また)浪草城辺に向かって逢わん
①乱り・・川の流れを横切る意。②前程・・前の経路。程は道すじ。③清冽可鑑・・鏡のようにすみ切ったさま。④肌肉・・皮と肉。⑤痙攣・・・引きつけがゆるむこと。⑥原路・・もとからの道。通常の経路。⑦省し・・訪ねて様子を聞く。⑧蘭舶・・オランダ船。舶は大船。⑨千鐘・・多量の意。⑬紅炉・・火のあかあかともえている炉。
佐賀の反射炉をさす。⑪也・・・亦よりは軽い発語の辞。
(1) 穀堂翁 古賀穀堂(1778~1836)。江戸中期の儒者。佐賀に生まれ、父精里の後をうけて儒役として鍋島家に仕えた。名は寮。穀堂・琴鶴堂・清風堂と号した。阮甫は若いころ穀堂の弟侗庵に師事したことがあり、又今回の長崎出張では侗庵の子謹一郎が応接使に加わっているので、古賀一族に対し特別親しみと関心を持っていたに違いない。
(2)反射炉 佐賀藩は寛永19(1642)年以来、前年からの福岡藩と共に長崎警備の一番手を命ぜられ、湾岸に番所や台場を設けて警備に当たっていたが、幕末異国船の渡来が頻繁になるに伴い、警備の強化を迫られていた。
その為本島藤太夫を伊豆の韮山に派遣して江川英竜に砲術を学ばせ、又城下の築地 (現日新小学校用地)に反射炉を築造し、更に嘉永6年(1853)、幕府より発注された五十門の大砲鋳造の為、多布施地内に新しい反射炉を設けた。勘定奉行で海防係を兼ねている川路が、特にここを視察したのはその故である。
(3)作州にて墳墓を拝し・・津山における箕作家の墓地は、当時城東林田村浄円寺墓地内にあり、初めて津山藩に召し抱えられた義林以降、阮甫の父母並びに兄までの四世代にわたる先祖がそこに眠っていた。阮甫は江戸出発に際し、特に藩に願い出て、帰途墓参の為国元に立ち寄る許しを得ていたが(『津山藩江戸日記』)アメリカ使節ペリーの再来でその目的を果たすことができなかったので今回立ち寄ることにしたのである。
なお津山の箕作家墓地は、「津山藩箕作家」を継いだ阮甫の孫佳吉の手により、その後林田地内の別の場所に移されている。墓石は16基。箕作家旧宅、宇田川三代の墓 (市内西寺町泰安寺内) と共に、津山の洋学史を語る貴重なものとされている。
幕府一行佐賀に到着
二十一日 朝陰。午晴
夜明けて武雄を発し牛津に抵る。途中温泉(うんぜん)轎(きょう)右(う)に見ゆ。九里を隔つと云う。
雲仙は佳友の若し 終日共に相恰(よろこ)ぶ
淡く烟霞の色を帯び 深く嵓(がん)嶽(がく)①の奇を蔵す
清亭②洵(まこと)に慕う可く 温藉③(うんしゃ)自から師に堪(こた)う
国を去りて三千里 九州一知④を得たり
三時後佐賀に抵り宿す。千住大之助来り、鍋島侯より賜える銀二枚を交す。明日は反射炉見せんとの約にてその内旨を伝う。夜更けるまで酒のみかわし、長崎以来の事を話す。千住は十七日朝長崎を発し、諌早より舟に乗り十八日に家にかえりぬと語る。
①嵓(がん)嶽(がく)・・けわしくそぴえ立つ高い山。②清亭・・清らかで秀でる。③温藉・・度量が広く挙動がしとやか。④一知・・一人の良い友。
(1) 牛津 佐賀県小城郡牛津町。長崎街道の宿場町で、牛津川に面し、小城藩の米蔵があった。
(2)温泉・・島原半島の雲仙岳のこと。古くは温泉岳とも書いた。牛津と雲仙は50数キロメートル離れているが、晴れた日には牛津からも有明海を隔てて望見することができる。
(3)諌早・・長崎県諌早市。江戸時代は佐賀藩領で、長崎街道の宿場があった。長崎へのルートは一般的には陸路であったが、諌早から有明海を縦断し、筑後川の河口に至る海路も開けていた。
幕府一行反射炉視察
二十二日 ⑳天候欠
朝十時比、川路君に陪し新反射炉の場に到る。此の場は、幕府より命ぜられたる五十門の鉄煩①(てつこう)を鋳るために設くるとぞ。
新場を距つること七・八町にして旧炉あり。新場は其の備えいまだ完からざれど、旧場は悉く全備し、鏟錐②(さんすい)の機盤③に到りては太略洋法と別なかるべしと覚ゆ。
新場へは少将公親ら臨まれ司農と談話あり。一連の幕臣はのこらず謁見せらる。
余は別に後に及びて窃かに拝謁し、久しく某が名は聞きたれど、初めて逢うなどの沙汰せられ、又我が公御父子への御伝言など細かに御物語あり。御台場并びに鋳場の事に付き心づき候わば、天下の為なれば、少しも遠慮なく申すべしなど仰せらる。方今諸侯中指を屈するに、公のごときは多からざるべしと、ありがたくも又尊しとも思いぬ。
かえるとき既に夕四時前なり。晩には千住大之助の話には、医学館へ招かれ、古賀大之助・草場珮川・島田南嶺・大石良英・牧春堂・元山藤大夫など寄りつどい、余と斐三郎を饗応すべきよしなり。
六時後大之助馬を馳せ来り、いざやとすすめければ出で行きぬ。行くこと五・六町にしてかの舘に抵る。街の正面に門あり。玄関も頗る雄大、席に入れば床の間に徐葆光が全紙④にかける七絶あり。甚だ飛動せること書と詩と共感口金(かんきん)しぬ。三医と契?⑥(けいかつ)を叙し、暫くありて大之助来る。続いて佩川(ママ)翁も来る。翁は六十八歳のよしにて謹厚の君子なり。竹を画くに妙なるよし聞ければ、画を請いしに二枚を写して贈る。頻りに酒酌みかわして、酔いて宿りにかえりぬ。
①鉄煩・・鉄製の大砲。鋏は鉄の古宇。②鏟錐・・鉄をけずったり穴をあけたりする。③機盤・・大仕掛けの機械。④全紙・・紙をすいたままで裁断していないもの。⑤感きん・・人の作った詩を感嘆して読むこと。口金は吟に通じる。⑥契?・・遠く離れて疎遠なこと。
(1) 少将公 肥前佐賀藩主鍋島直正。
(2) 余は別に……阮甫が直正公に拝謁した時の状況は、『鍋島直正公伝』第四編にも左の通り述べられている。
「委員(幕府応接使)に通弁として随行せる作州津山の藩士箕作阮甫は、嚢に『坤輿図識』を著して公にその名を知られたりしが、公は此機会を以て、欄干荘に之を延(ひ)いて面談を遂げ、国家のためなれば、長崎新築の台場、及び昨日示したる大砲鋳造につきての心付あらば、遠慮なく言われたしと仰せられ、更に近侍千住大之助を旅館に遣わして銀二枚を贈らる。」
なお『坤輿図識』は、阮甫の協力で養子箕作省吾が病を押して訳述したものであるが、直正はその出版を耳にして直ちに買い入れ、感想を三首の絶句に寄せたと言われる。(『鍋島直正公伝』第三編)
(3) 我が公御父子・・津山藩主松平斉(なり)民(たみ)、同慶倫(よしとも)。
(4) 医学館・・医学寮を指す。阮甫には医学館と呼ばれていたとの認識だったのだろう。安政5年(1858)に好生館となり、現在の佐賀県医療センター好生館につながった。
(5) 古賀大之助 古賀翁助。
(6) 島田南嶺 医学寮の教授で蘭漠折衷を主唱した。
(7) 伊東玄朴門で、直正に招かれて侍医となった。。
(8) 牧春堂・・好生館指南役及び侍医。島田南嶺らと蘭漠折衷を唱え種痘の普及にも尽力した。
(9) 元山藤太夫 元山は本島の誤り。佐賀藩における西洋砲術の権威で、長崎の新台場築造を主宰した。
(10) 徐葆光・・清の人。字は亮直、号は澄斎。長州県に生まれ進士となり、琉球にも使いした。
武田斐三郎は川路君の命にて、鋳場の反射炉、諸機盤等を細かに寸尺大小まで書き記すべきよしにて、四・五日残り留どまりぬ。江戸を出でしより八・九十日の間、日夜親しく交わりしに、今更別れぞ惜しまるれ。
幕府一行佐賀を立つ
朝まだき①佐賀を立ちて晩田代に到る。明日宰府までは司農に伴い行けど、それよりの別れなれば、浴後拝別に趨る②(はしる)。
司農の話に、広瀬求馬淡窓翁只今来りぬと云われければ、急ぎ罷りて翁の所に到る。翁人と為り清癯③(せいく)寡黙④、恭謹自ら率い、聞きしごとく純乎(じゅんこ)たる君子なり。頃之にして酒殽(しゅこう)盛膳を出だす。翁は少しも飲まず。男⑦範治、旭荘子孝之助、門人某などと献酬し、酔いて宿にかえれば範治又来る。
其の席上の作、自ら書してかえりぬ。
西肥⑧の駅舎に逢谷先生と邂逅⑨し、酔中賦して贈る。
邂逅何んぞ厚き酔顔相共に酡(あか)らむ
宴間奇器夥し 歓裡異聞多し
詩は覚ゆ、裁玉⑪の如き 談は憐れむ⑫、決河⑬に似たるを
襟を分かちて万里に隔たる 再会定むること如何せん
如何畳出⑭、亦爛酔に由る。請う恕せよ
北豊⑮ 広瀬 範拝。乞う
叱教。
又翁の著書義府、及び遠思楼集前後篇を乞いかえりぬ。答礼にはあらざれど、佐賀侯より賜りたる蝋燭の尖端にホスホルぬりたるを三本贈る。範治にポトロード一枚を与う。
①朝まだき・・朝まだ早いの意。②趨る・・はせつける。③清癯・・やせてすらっとする。④寡黙・・言葉数が少ない。⑤恭謹・・恭しく謹しみ深い。⑥純乎・・まじりけ
のないこと。⑦男・・むすこ。⑧西肥・・肥前の園の西部。⑨邂逅・・思いがけなく出会うこと。⑬酡・・酔って顔がー赤くなる。⑪裁玉・・玉を作る。⑫憐れむ・・おしむ。⑱決河・・堤防がきれて水が溢れること。⑭畳出・・同じ語が重なって出ること。⑬北豊・・豊後の国の北部。⑯叱教・・教えを受ける時に言う謙譲語。⑰一枚・・物を数える時に添える語。一本の意。
(1) 宰府 太宰府の略称。福岡県太宰府市。往時の都府楼跡や太宰府天満宮がある。
(2)広瀬求馬淡窓翁。1782~1856)。江戸後期の著名な儒者。今の大分県日田市に住んで私塾咸宜園を開き、多くの塾生を教育した。なお川路の父はもと日田代官所の属吏で、聖謨も日田で生まれた。その縁で淡窓は一族を引き連れて聖謨に敬意を表し、川路も又手厚く過し、麻上下一具を贈ってその労をねぎらっている。(『川路聖講長崎日記』)
(3) 男範治(1819~84)。少年のころから咸宜園に学び、都講(塾頭)に進んで淡窓の義子となった。淡窓の嗣子孝之助成人の後は、咸宜園を孝之助に譲って府内侯(今の大分市を近世には府内と呼んでいた)賓師となった。
(4)旭荘(1807~63)。淡窓の末弟。淡窓の義子となったが、日田代官と意見を異にし、日田を出て大坂・江戸などを歴遊し塾生を教えた。
(5)孝之助(1836~74))。旭荘の長男。淡窓の養嗣子となり咸宜園を継承した。
(6)義府一巻。嘉永2年(1852)刊。淡窓の著書で天地人物、古今治乱などにつき所見を述べたもの。
(7)遠思楼集 正確には『遠思楼詩紗』。初編・後編各二巻。淡窓の詩集。遠思楼は淡窓の号である。
小倉藩の種痘(1)
◆今、科研費の論文を一つまとめている。今まであまり知られていなかった小倉藩の種痘についてである。先行論文として井上忠「種痘法の伝搬過程ー科学文化史のひとこま」(西南学院大学論集、1957.3、pp45~66)と、同「北九州における幕末の種痘法」(『九州史研究』お茶の水書房、1968、pp355~373)がある。両論文に導かれつつ、北九州市立博物館所蔵の膨大な量の大庄屋中村平左衛門日記と格闘しつつ、まとめているが、今日一日かかって、古文書5枚分を読み終えたところ。
◆遅々としてすすまないが、今までに知られていなかった新しい情報がいくつも得られて、はやく皆さんに本にして紹介したいと考えている。
◆その新知見の一つが、嘉永7年6月20日の、庄屋による種痘のしかたの取り決めである。この時期の小倉藩領では、郡方役所からの指示により、大庄屋のもとで庄屋があつまり、種痘のしかたについて取り決めが行われるようになっていた。その取り決めは以下のとおり。
一、最初種取ニ明日津田村へ上・中・下三曾根ゟ津田・田原両弐人ツ丶小児連参り、夫ゟ八日目程二其村々ニ而種方いたし、…夫ゟ又々外村へ種可申候
一、種候而八日目程ニ種子ニ相成候間、其日ニハ、八日目前ニ種の小児悉召連参候様
一、医者ハ其日々々を前日迄ニ庄屋元ニ相知セ候様
一、種候而種子を取り候迄の間、両三度ツヽ其家〳〵ニ医師一人廻り被参候様
一、種所を巻候花染花染たすきニ致し、花染ハ役前より遣可申、庄屋〳〵ゟ相求候様
一、見廻の品取遣り湯掛り等の祝ひ、不致候様
一、種痘中養生方并食禁等医者中ゟ之書付、役宅へはり出し置、一々委く申聞せ候様
◆最初の種取は津田村で行うので、津田村と田原村より二人ツヽの小児を連れていくこと。
接種後から八日目程で、それぞれの村々で種え、それから他の村に接種すること。接種してから八日目あたりで次の種子になるので、八日目前ニ、接種すべき小児を悉く召し連れること。種痘医はその日々を前日までに該当する村の庄屋へ知らせておくこと。種子を採るため、医師がその家々を三度まわるようになること。種えた箇所は花染めたすきで保護すること、医師の見廻りのときの御礼の品や快湯祝などはしないこと。種痘中の養生のしかたや食禁のことなど医者からの書き付けを庄屋の役宅に貼り付けておき、くわしく説明すること、などの内容を取り決めた。
◆随分、組織的な種痘活動が庄屋など村役人の主導で行われていたことに驚かれると思う。従来、知られていた大坂の緒方洪庵など都会における種痘活動とまったく異なる農村での種痘普及活動を知ることができる。
牛痘を牛に植え付ける
◆有栖川宮記念公園にある東京都立中央図書館は、300万冊の蔵書を誇る大図書館。地方史関係の本もかなり充実している。しかも本を頼んでから早いときは5分もかからずに出納され、コピーも開架書庫のは原則自分でコピーできるので10円で安いし早い。国会図書館にしかない本・雑誌以外の調査はここでたいてい済ますことができる。
◆小倉領の企救郡小森手永の大庄屋を勤めた友石承之助(大庄屋在勤中は小森承之助と称した)が書き綴った日記のうち、安政5年(1858)・6年・7年の3冊が、『小森承之助日記』第1巻として翻刻されており、現在、北九州市いのちのたび博物館で販売中。
◆この本も都立中央図書館3階に並んでいたので、読み進めると、じつに面白い。種痘の関係でも、今回、次のような史料を見つけた。
安政五年(一八五八)一一月八日の藩からの来状があった。
一 役筋より来状ニ別紙の通勘合合被致、否明日昼迄ニ可被申出候、以上
一 植疱瘡種取として山本村辺の子供五、六人、来ル一一日朝五ツ半時限て職人町へ連行候方弁利冝候哉。又は牛の子弐匹内壱匹は男、壱匹は女連行候方下方便利冝哉、
何れの道ニても両様の内治定被致、否明日昼迄の内可被申出候
但、人の子連行種痘いたし村方へ連帰らせ置、追て医師、道原辺え罷越、牛の子ニ移し候由、最初より牛の子連行、職人町ニて牛の子え植付候得は、医師、道原迄不罷越相済候様存候、以上
◆この来状によれば、来る十一日朝までに山本村(山がちの村)辺の子供五~六人か、または牡牝一頭ずつの仔牛を職人町まで連行せよとあり、人の子に植え付けた種痘もいったん児童に植え付けたあと、道原村(山がちの村と町の中間地の村)で牛の子へ植え付けるとあるので、当初から、種痘の種取り用牛を確保しようとするもくろみでの来状だった。
◆承之助はその意図を察し、人ではなく、最初から牛を連れてくるようにと村々へ触れた。
◆九日朝には、田代村から仔牛を連れてくる連絡がきたが、木下村では子牛が寒さわりで連れてこられないとの連絡があったので、三岳村へ牛の子牡牝二匹、または親牛一匹連れ参り候と連絡した。
◆一一日になって田代村から女の仔牛一匹、三岳村から牡の仔牛一匹、計二匹を、職人町の吉雄医師のもとへ牛曳きらが引き連れて職人町へ連行し、接種させた。さらに一週間後にこの二頭を再び職人町の吉雄氏のもとに連行している。
◆一週間後といえば、人間に接種してから一週間後に種を取って、他の子に接種するので、同様に、牛に植えて、牛痘の種を取ろうとする試みが、小倉藩領で行われていたのだった。
◆その後、種痘牛のことは出てこないので、これはおそらく失敗したのだろうけれども、吉雄氏なる医師によって、仔牛に牛痘を植えて新たな牛痘の種を取得する試みが為されていたことは、今まであまり知られていないことであった。
◆牛痘が入手できていないとき、人痘法による予防が普及していた。日本人医師のなかには、人痘を牛に植えて種を取る牛化人痘法を試みる医師が何人か知られる。今回の場合は、牛痘伝来後、牛痘の確保、保存のために、牛に牛痘を植えて、種を増やそうという試みで、日本人医師による医療技術の改良への取り組みの事例として評価できる。