活動報告

このエントリーをはてなブックマークに追加
6.研究書の構成は、現在題名を頂いている方を含めて下記のように考えております。  『天然痘との闘いー西日本編』、全体350頁(論考14本ほど300頁ほど・史料編40頁ほど、その他10頁ほど) ■論攷編・発表題は現時点で以下のように考えております。頁数は執筆者の数により多少変化します。 カバーできていない県が出た場合は総論で、現在知られている範囲でのまとめ的なかたちで青木が執筆します。 (番号は仮です) 1.青木歳幸・・総論、 2.ミヒェル・ヴォルフガング・・・※上方蘭学の草分け・吉雄元吉について (ミヒェル・ヴォルフガング・・*「紅毛流書物に見られる天然痘治療」、未定) 3.中澤淳(山口大名誉教授)・・※長州藩と山口県の種痘 4.梶谷光弘(出雲財団)・・松江藩における種痘—松平家文書「列士録」を中心として— 5.海原亮(住友史料館)・・・鳥取の種痘など 6.ミヒェル・ヴォルフガング・・・※ゴルトシュミット著『牛痘と種痘の概史』の受容についてー日高凉台と有馬摂蔵を中心に 7.青木歳幸・・安芸の種痘 8.木下浩(中島医家史料館)・・※備前・備中の種痘 9.松村紀明(帝京平成大学)・※種痘の「終わり」〜明治初期岡山における在村医の種痘活動〜 (仮) 10.胡光(愛媛大学)・紅毛流医学の展開・合田求吾。香川の種痘? 11.井上淳(愛媛県立博物館)・・※宇和島の種痘 12.古西義麿(除痘館資料室)・・※土佐の種痘、※阿波の種痘、 13.浅井允晶(除痘館資料室)・・※「大坂除痘館と備中足守除痘館―緒方洪庵開設の備中足守除痘館の基本性格をめぐる問題―」ほか 14.古西義麿(除痘館資料室)近江の種痘 コラム・・有坂道子(橘大学)有信堂の種痘 ■史料編・科研費の報告書史料集との調整(頁数・内容等)でそちらに回る史料もあり。 田中美穂・・※「津山藩の種痘-宇田川興斎筆「引痘録」から」解題と翻刻 青木歳幸・・磨尼缺対談録(富士川文庫蔵)、 海原亮・・「引痘計簿」(津山洋学資料館所蔵) 青木歳幸・・頼春風の種痘記録(頼春風資料館蔵) 科研費報告書2020年分  三宅董庵の『補憾録』 難波抱節の『種痘伝習録』 松村・木下・・岡山の種痘行政に関する文書 種痘科研活動報告。 2019年度第一回研究会を8月3日に大阪の緒方記念除痘館資料室にて開催し、各自の調査報告と今後の計画を打ち合わせた。
2020年第一回研究会案内。

今回は除痘館記念資料室の川上理事長をはじめ、浅井、古西両先生に多大なご協力をいただきました。あらためて感謝申し上げます。

1.日時 83日(土)午後1時から3時ごろまで除痘館資料室、

  集合は、当日午後1時までに、除痘館資料室へお越しください。

541-0042 大阪市中央区今橋3-2-17 緒方ビル4F電話番号:06-6231-3257

 5時過ぎごろから、懇親会 華㐂(高麗橋「華㐂」。 大阪市中央区高麗橋3120  TEL.0662031277

 米田該典先生も懇親会ご参加予定です。

 8月4日(日)青洲の里調査

2.議事

(1.)『天然痘との闘いー西日本編』の出版について

①趣旨 『天然痘との闘いー九州の種痘』(岩田書院、2018)の続編として、『天然痘との闘いー西日本編』を2020年度内に刊行する。

 以後、中部日本編(2021)、東日本編(2022)へと展開する。

 当初計画は、中国・四国編と近畿編を2冊別に出版しようと考えたが、一緒にして西日本編(論攷編・史料編)として出版する。 現在の行政区画に必ずしもとらわれることはないが、一応の目安として種痘についてはできるだけ県別に種痘の特徴や実態を叙述したい。主な内容は、総論として紅毛流医学や人痘法の伝播、牛化人痘法の試み、天然痘予防の民俗、各論として各地域への種痘の伝播と実施・特徴などと、終論として地域医療の近代化と種痘など。

②体裁 論攷編と史料編とする。論攷の量は、1ページ18行×51字=918字で、現在1516本ほどお願いしており、350ページ÷15人=22ページ(図版・表含む)×918字=20196字=400字詰50枚を最大として8ページから20ページぐらいの間でまとめる。

③内容(演題はすべて仮です)

■論攷編青木歳幸・・総論

中澤淳(山口大名誉教授)・・長州の種痘

海原亮(住友史料館)・・・島根の種痘など

田中美穂(津山洋学史料館)・・史料紹介津山の種痘

木下浩(中島医家史料館)・・岡山の種痘

松村紀明(帝京平成大学)・・民間から公儀へ 〜岡山藩医学館と種痘(仮)〜

ミヒェル・ヴォルフガング・・紅毛流医学の展開、吉雄元吉など

胡光(愛媛大学)・紅毛流医学の展開・合田求吾。香川の種痘?

井上淳(愛媛県立博物館)・・宇和島の種痘

古西義麿(除痘館資料室)・・高知の種痘、徳島の種痘、近江の種痘など

浅井允晶(除痘館資料室)・・牛化人痘法、谷景命など

(岡宏三・・石見の種痘・地域医療、依頼中です)

ほかに、除痘館の設置、種痘宣伝ビラ、有信堂の種痘など。

■史料編

田中美穂・・岡山藩宇田川興齋の種痘

青木歳幸・・磨尼缺対談録

海原亮・・疱瘡証文について

青木歳幸・・中野操文庫の種痘資料

ほかに1~2編

(2)84日、日程

   レンタカーは9人乗りを借りましたので、席に余裕があります。研究会の席であらためて参加者の確認をします。

    9:00頃、淀屋橋トヨタレンタカー(中央区高麗橋4-7-3、06-6220-0800)に集合、 11:00頃、青洲の里ミュージアム見学、昼食、13:00頃、出発、15:00頃、淀屋橋トヨタレンタカー返却、時間がある人はれば適塾等見学、

3.今後の計画

(1)各自調査をすすめ、2020830日、原稿締め切りとする。2020年度・・西日本編刊行

(2)執筆者の再編成をして、2021年度・・中日本編刊行、2022年度・・東日本編刊行を予定し、我が国の種痘研究の全国的展開をまとめる。

島根の種痘医米原恭庵について 『医界風土記ー中国・四国編』の米田正治氏によれば、島根県益田市の石勝(いわかつ)神社内に米原恭庵頌徳碑がある。 種痘法伝自西洋、嘉永二年余始試之高角村爾後漸播于郡中人多免夭折 賦此志喜 海外奇方逐日新/尤忻種痘術如神 散花何假化工技 開落唯期手裏春 米原祥恭菴 と刻まれている。 米原恭庵は、本名を祥、号を恭庵、または帯霞仙、俳人として晩山と称し、岩見益田地方の蘭学の祖としてあがめられてきた。 9月7日徳島の種痘資料調査 今日(9月7日)は徳島での種痘資料調査。朝早く関寛斎像を探しに出掛けた。城東高校の東側で中徳島地区の河畔に大きな寛斎像があった。解説をみると、城東高校のグラウンドの一部で関寛斎は開業していて、種痘や患者の治療にあたっていたらしい。 ◆朝食後、徳島市立徳島城博物館へ車で向かった。まだ時間があったので城内を散歩。このあたりは6000年前は海底から盛り上がったばかりだったらしい。この岩陰には貝塚遺跡があって、徳島出身の考古学・人類学者鳥井龍蔵博士が発掘した記念すべき貝塚だそうだ。貝塚の隣に鳥井博士の記念碑も建っていた。ぐるりと一回りして、9時10分ごろ、徳島城博物館の正門前にでた。 ◆ここの学芸員小川裕久さんに案内をいただいた。『洋学研究事典』の徳島の項目を御願いしたら、文書館の館長さんらと分担して引きうけてくれた。そのお礼もかねて立ち寄った次第。 ◆あわせて、関寛斎や井上不鳴の史料について相談したら、関寛斎の書籍や史料を紹介してくれ、コピーをいただいた。井上不鳴はよくわからないけれど、滝薬師というところに碑があるらしいと教えてくれた。 ◆井上不鳴の碑を探しに滝薬師へ向かった。狭い寺町の通りの奥に滝薬師があった。碑文があるかもと、近くの和田之屋さんという茶店の女将さんに聞いたら知らないという。どうしようかなと店内を見回すと、さだまさしの「眉山」という本もあった。昔、映画化されたとき、この店もロケ地になったとか。北野大などのサインもあった。ああ、意外と名店なんだなと思って、まずは名物の滝の焼き餅を抹茶でいただくことにした。滝の焼き餅は蜂須賀公がこの地を治め始めたときからの献上品だという。400年変わらずこの滝の名水でこねて焼いてきたという。焼きたてと抹茶が美味しかった。 ◆元気がでたので、石段を昇ること15分、いけどもいけども、それらしき碑文は見えてこない。やがて道のない行き止まりの場所になってしまった。もう先は行かん、いかんともしがたい、井上不鳴はやはり不明だと、とぼとぼ100段以上もある石段を降りた。一番下まで降りて車の近くまで来たら、なんと目の前にあった。山に向かって建ててあったから気がつかずに通りすぎたのだった。 ◆やれ嬉しやと写真をとろうとしたが、あら、残念、碑文の部分がすっかりはげ落ちてしまっていて跡形もなく、まったく読めない。残念無念で、滝薬師をあとにして県立図書館に向かった。 ◆県立図書館では、関寛斎関係書籍を、たくさんだしてくれてあった。なかでも『阿波の洋学史研究』と『徳島県医師会史』が参考になったので、かなりコピーーさせてもらった。 ◆県立図書館周辺は文化の森公園といって、県立博物館や県立美術館も建っている。その公園の一番奥に徳島県文書館があったので、ちょっと疲れていたが、向かった。建物は昔の県庁を移築復元したようだ。文書は整理されていたので、種痘や関寛斎などとキーワードを入れてみた。が、なんにもヒットしなかったので医と入れて検索したらかなりの古文書がヒットしたので、医師の開業願などを撮影させていただいた。 香川の種痘医河田雄禎調査 2018年9月6日は丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。 ◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。 ◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。 ◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。 種痘科研第一回研究会案内 代表者 青木歳幸 第一回研究会につきまして下記の日程で実施しますので よろしくご参集ください。 8月4日   12時15分ごろ岡山駅西口オリックスレンタカーに集合。 (JR岡山駅西口より徒歩6分。岡山市北区昭和町4-7) レンタカーと海原さんの車2台に分乗して中島医家資料館へ向かいます。 木下先生は、青木車で道案内と、一応、免許証をご持参くださればと思います。 12時15分ごろ出発・・岡山バイパス国道2号線経由 1時ごろ中島医家資料館(701-4232 瀬戸内市邑久町北島1241 086-942-0577) 1時15分ごろから、研究会開始、中島医家資料館で 参加予定者 青木、松村、胡、ミヒェル、海原、木下、中島館長、清水さん? 青木・・九州の種痘から中国・四国の種痘への構想・・・20分 ミヒェル・・種痘の前史・・15分 木下・・中島家資料からみる種痘(仮)・・・20から30分程度 松村・・岡山の地域医療と近代化(仮)・・・20から30分程度 胡・・四国の種痘について考えていること・・15分程度 あとは、中島家資料館長のご案内で、資料閲覧を中心に およそ、5時頃まで その後、 レンタカーで岡山市内、各ホテルまで送ります。 19時ごろから、市内の庶民的な酒場・・食事と懇親会(有志) (ミヒェル先生は懇親会はご欠席の予定です) 8月5日 エクスカーション 現時点のおよそのコースです、津山資料館田中美穂さんに相談しました。 9時 岡山駅駐車場集合 9時15分発・・・ 9時30分・・難波抱節生家跡(岡山市金川) 11時ごろ・・津山資料館着・・ここで田中美穂さんと合流、同館種痘資料閲覧 (仁木家の種痘資料などが拝見できます ) 12時30分ごろまで 資料閲覧 昼食   (御都合のある方はここで一部解散) 13時30分ごろ津山発 14時30分ごろ緒方洪庵生家跡(岡山市北区足守)ほか関連史跡・資料館見学 15時40分ごろ岡山駅着解散、レンタカー返却 『天然痘との闘いー九州の種痘』 研究分担者・研究協力者のご協力のおかげで、無事、岩田書院へ3年間の研究成果として論考集を、入稿できました。わが国に伝来した牛痘とはどのようなものであったか、長崎に伝来して、九州各地にどのようにもたらされ、医師と行政(藩・幕府)と民衆の意識をどのように変えていったのか、地域医療の近代化にどのようにかかわったのかなどを、九州各地の種痘の実例から明らかにします。あらたな史料発掘もたくさんあり、医学史のみならず、地方史、文化史などにも必ず役にたつ本となるでしょう。 なお、この科研チームは、あらたな段階への研究、すなわち、種痘の全国展開についても研究を展開すべく、30年度以後の科研費申請も行っております。 1 論考集「天然痘との闘いー九州の種痘」 口絵                              2頁 目次                             1頁 1はじめにー九州の種痘概要・・・・・・・青木歳幸 (10頁) 2天然痘について・・・・・・・・・・・・相川正臣10頁 3ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁 4人痘法の伝播 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 5牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁 6牛痘伝来再考     ・・・・・・・・・・青木歳幸   20頁 7長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣   10頁 8大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁 9佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁 10佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁 11多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁 12長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁 13小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸・・17頁 14武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・・・・W.ミヒェル・14頁 15久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・17頁 16中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 31頁 17熊本藩の治痘           ・・・・大島明秀・・13頁 18天草の種痘・・・・・・・・・・・・・・・/青木歳幸・・8頁(?) 19若山健海と宮崎の種痘・・・・・・・・・・ 海原 亮・・14頁 20薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁 21黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁 種痘科研関係者各位 29年度第2回種痘科研打ち合わせ会のお知らせ 研究代表者青木歳幸 下記により、第二回打合会を開催しますので、お集まりください。 日時:11月5日(日) 場所:電気通信大学東3号館301号室 時間:17:15~19:15(洋学史学会ミニ・シンポ終了後) 議題:1.科研費報告書史料集の準備状況 2.30年度科研申請について 平成27~29年度科学研究費補助金(研究種目 基盤研究(C) )研究課題番号:15K02867 「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」 研究代表者(所属機関・部局・職・氏名) 佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸 29年度第1回研究会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)29年度第1回研究会を開催しますので、長丁場な日程ですが、ぜひ、ご参集ください。 日程 8月4日(金) 10時に九大医学歴史館前に集合 10時から12時まで、九州大学耳鼻咽喉科学教室・久保記念館 医学歴史館、人体・病理ミュージアム見学 12時00分~ 昼食 医学部周辺 13時30分~ 29年度第1回研究会(於九州大学医学部附属図書館) 議題1.研究報告書・今後の日程について(青木) 2.研究報告 海原 亮「若山健海種痘資料と延岡の医療環境(仮題)」 山内勇輝「大村藩の種痘伝播と藩医 長与家(仮)」 大島明秀「寺倉秋堤の種痘伝習について」 相川忠臣「長崎の種痘について」 青木歳幸「小倉領の種痘」 15時30分~16時30分まで、九州大学医学部図書館展示室見学 17時00分~ 懇親会・食事 28年度種痘伝来研究実績の概要 28年度は、各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月16日~18日、島津尚古集成館で開催した。薩摩における種痘史料調査では、八木称平、前田杏斎らの事績のほかに吉良元民らによる種子島種痘史料、天ケ城歴史民俗資料館において黒江家種痘史料を見出した。また日向で最初に種痘を実施した若山健海の種痘記録も若山牧水記念文学館で見出した。これらの史料はいずれも最終年度報告書に翻刻する予定である。 各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は、鹿島藩・小城藩・蓮池藩・諫早領等、佐賀藩領内種痘史料調査を実施し、その成果の一部を、日本医史学会等六史学会合同例会(2016.12.17・於順天堂大学)において「牛痘伝来をめぐる一考察」を、野中家史料研究会(2017.1.27、於佐賀大学)において「野中家の牛痘書」を報告し、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2017.2.25)において楢林宗建・野口良陽・織田良益・下河辺俊益ら医師の種痘活動を執筆し、新知見と新史料を紹介した。 現在までの進捗状況 年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約6割である。佐賀藩の種痘に関しては,嘉永2年(1849)にモーニッケの指導を得て、佐賀藩医楢林宗建が種痘に成功し、その痘苗が佐賀藩から江戸へと伝播した経路などの解明のほか、佐賀藩領における引痘方による計画的な種痘実施の実態、種痘医と漢方医の対立・煩悶なども新たに発掘し、その研究成果を前掲『佐賀医人伝』に反映できた。学会発表・論文は、前掲のほか、シーボルト没後150年記念講演会招待講演「シーボルトとその門人」(2016.09.10、於長崎歴史文化博物館)、ISHIK2016・在来知歴史学国際シンポジウム「日本薬局方の先駆的活動」(2016、10。23~26、於佐賀大学)、「『御診察日記』にみる西洋医学治療」(『佐賀学Ⅲ』、海鳥社、pp207~232)などを成果公開した。 今後の研究の推進方策 研究最終年度において、わが国最初に種痘を実施した沖縄種痘史料調査及び第1回研究会を7月に沖縄で実施し、九州における種痘実施状況を比較研究する。第2回研究会を年末に長崎か福岡で実施し、研究のまとめを行う。 各自調査も青木は、武田杏雨書屋、京都大学等での種痘資料調査と、九州諸地域の種痘関係資料の収集に努める。 研究協力者の海原亮と小川亜弥子は、研究会や調査に参加しつつ、研究報告書の刊行に協力する。 各自調査に、並行して、最終年度の研究報告書(含む資料集)刊行のために、資料選択・翻刻もすすめる。現時点での主な翻刻予定資料は、野中家種痘資料、若山健海種痘記録、黒木家種痘資料、種子島家記、武谷祐之『牛痘告論』、「痘瘡唇舌鑑図 7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。 15K02867 「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸 27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603 研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真 医師免状は無試験で授与された? 2015年06月26日 洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史 諫早領医師への医師免状授与の場合 諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。 (1)安政二年四月九日記事 一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事 手 覚 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、 医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸 諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策 家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩 郷医 雄仙   町医 謙造 右者此の節罷り登り候 武冨文碩 岡村文意 右者当病二而登り相叶わず候 右之通り御座候此の段御達し仕り候以上 四月九日 益千代内 杉野助右衛門 光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。 つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富 文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館 弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。 種痘医野口良陽 第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。 種痘戯作 疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり 散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな 勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると 腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。 (『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。 才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く 青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時 浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する 人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。 (探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。 こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。 まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、 (割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人 内科 野口良陽 三十六才 82番目には (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人 内科 犬尾文郁 五拾才 とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。 この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した) 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事 故牧春堂門人 内科   益千代殿家来 犬尾文郁 五拾歳 医道開業被差免候也 嘉永六年丑八月 医学寮 益千代殿家来 故野口長胤門人 内科   野口良陽 三十八才 書面右同断 在佐賀 内科 野口宗仁 針治 嶋田春栄 右両人は、先月廿日御免札 相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之 この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

華岡流門人、外科医井上友庵

井上友庵のこと
佐賀藩で文政7年(1824)閏8月5日に、華岡流麻酔による外科手術をおこなった医師がいました。名前を井上友庵といいます。蓮池藩医師で、華岡青洲門人でした。 
 井上友庵の外科手術の様子は、草場珮川(天明8~慶応3、1788~1867)の日記(『草場珮川日記』)に記されています。草場珮川は、佐賀藩家臣多久領の儒者で、のち佐賀藩弘道館教授になりました。佐賀藩儒者古賀精里に学び、文化8年(1811)には、幕府儒者となった古賀精里に随伴して、対馬に赴き、最後の朝鮮通信使との対話をしています。漢詩にすぐれ、頼山陽、篠崎小竹らとの交友もあります。著書は『津島日記』(文化8)、『珮川詩鈔』(嘉永6)などがあります。
 『草場珮川日記』は、2冊あり、上が文化元年(1804)~文政5年(1822)、下が安政4(1857)までの日記です。その文政7年の記事にそれがあります。
「(文政七年(1824)五月十七日)
 為姱叔 訪井上友菴、謀其医瘤事、時友菴有疾」
妻の実家の西家五男在三郎姱叔(かしゅく)の頭部に瘤ができたので、華岡門人として知られていた蓮池藩医井上友菴(友庵)を訪ねて、診察を乞うたのでした。しかし、そのとき友庵も病気でした。そこで日を改めて、手術を御願いすることにしました。三ヶ月半ほどして、その機会がやってきました。珮川は、次のように記しています。
文政七年閏八月五日
 姱叔為医瘤、相随到我舎
姱叔が、医瘤の手術のため、珮川の家にやってきました。

 閏八月九日
 姱叔在江原平治兵家、請井上友菴治瘤、友菴先遣弟徒、与麻沸湯、及  
 夜、友菴至時、眄(べん、両目がふさがる)眩已甚、瞳子散乱、摘肌不 
 覚、乃剖而療之。
 姱叔は、手術のため、江原平治兵家へ移ります。井上友庵に治瘤を依頼したので、友庵はまず、弟子を派遣して、姱叔に麻沸湯を与えました。麻沸湯は、華岡青洲が考案した全身麻酔薬です。粉薬を通仙散と言います。
 夜になって、友庵が到着した時、姱叔の両目はふさがり、眸を開いてみると瞳孔が散乱していました。友庵が姱叔の肌をつまんでも、痛みを感じていません。それを確認した友庵は、姱叔の頭部の瘤を剖き(さき)除去しました。珮川は、その一部始終を上記のように記しています。短い記述ですが、友庵の麻酔外科手術の様子を、的確に記しています。翌日になりました。

十日
 使姱叔弟季侖(泰助、後沢井)、走告安二親、
 姱叔至未牌(みはい、未の刻、午後二時から四時)、薬気始醒、瞻語(せ んご、うわごと)乃止、問其痛否、答曰、曽不知医之来、豈覚其痛楚(つうそ、痛み苦しみ)邪

 姱叔の弟の季侖(泰助、後沢井)が、手術が成功したようだと走って親に告げに行きました。姱叔とはいえば、未の刻(午後二時から四時)になって、薬が醒め初めて、うわごとをやめました。痛かったかと聞くと、かって医者が来たことも知らない、痛みもまったく感じなかったと答えました。

 十二日
又共往謝友菴

12日になって、もう手術が成功したことを確認した珮川は、友庵のもとに出かけて、有り難うございましたと、謝しています。この手術記事は、以上で終わりますが、この姱叔22歳のときの手術は、見事成功して、その1年後、姱叔は江戸昌平黌に学びにでかけます。やがて漢学者として著名になった西在三郎がその人です。在三郎は、江戸で活躍し、帰郷後、諫早からの帰途雪の深い多良岳で遭難してなくなりました。安政4年2月4日、55歳のときでした。手術後、約30年生きていました。不慮の死がなければもっと生きていたでしょう。
 友庵の佐賀での麻酔による外科手術記事は、現在までのところ、この草場珮川日記にみえるだけです。史料がでてくるとよいと思います。在三郎の瘤の麻酔による除去手術を一回で成功させた友庵の力量は、かなり高かったとみられます。しかし、友庵がほとんど有名にならなかった理由は、珮川が最初に訪れた時にも病気であったことから推察できるように、友庵は病気がちで、この手術の5年後、39歳でなくなったからとみられます。が、もっと世に知られてよい人物と思います。

井上友庵の医療器具(その1)
◆『蓮池藩日誌』文化15年正月18日記事に、文化14年10月に出された井上友庵から藩への医療器具購入のための資金25両拝借願が記録されています。解読した原文は下に解読して貼り付けておきますが、大意は以下のようです。

 私、井上友庵は去去年(文化12年)に名医である華岡青洲先生のもとへ医学稽古に出させていただきましたが、数箇条の相伝をうけるためにも、京都へ修業に行きなさいと先生に言われ、去年から京都でも学んでおります。相伝をうけて帰郷するにあたり、華岡流医療器具を購入しないと、郷里で御奉公も叶いません。(京都三条通りの安信に)見積もりをとりましたところ、高額でした。ただ、入門時にあまりにも多額の雑費がかかり、また京都でも諸費用がかかったため、このままでは購入がかないません。そのため25両を拝借いたしたくよろしくお願いします。返納は帰郷後3カ年、もしくは俸給のなかから引いていただいてもかまいません、文化14年10月、井上友庵、森川八郎右衛門様というものでした。

◆以下、京都三条通りの安信なる鍛冶師からの見積もりがありますが、結構多くの商品と値段がでており、長文となりますので、解読は次回にします。
◆名医といわれる外科の多くは、現在でも独自に工夫した外科道具を用意しています。華岡青洲もまた、自分の手にあった独自の外科道具を用意して、京都寺町の鍛冶師真龍軒安則に特注しています。もしかすると、三条通りの安信と同一の鍛冶師かもしれません。                         ◆華岡青洲の門人に本間玄調がいます。その著『瘍科秘録』六巻之上に、青洲のメスと玄調のメスの違いがカラー図説で載っています(写真)。青洲のメスのほうが直刀風で、本間玄調は手が大きかったでしょうか。青洲より大ぶりです。

 奉願口上覚
私儀外療未熟ニ御座候處より
紀州華岡随賢名医之趣、及
承候ニ付、暫年之間、随身稽古
仕度ニ付、御暇奉願候處、願通
被 仰付難有奉存候、依之
去々秋より罷越打部稽古出精
仕候処、大ニ心ヲ副、取立被呉、数
ケ条之相伝等、可有之処、文盲
ニ有之候而者、右相伝仕候而茂
其詮無之ニ付、医学修業仕
候様右師家より被申聞候故、去
秋より京都之方江茂罷出、双方
懸ケ候而、医学稽古仕居
申候、然処㝡前罷登候砌者
諸事稽古中、御助成ニ
不相成、勿論当御時節柄
過分之御当介被為拝領候故
右を以万事相整候心得ニ御座候
処、花岡家入門之砌、諸雑用
多有之、先生初同門中江茂
身祝之手数等有之、過分ニ入用
銀相増、扨又京都江茂数ケ所江
入門仕、是又雑費多有之存外之
金子入越、甚当惑仕、其上花岡
流之外療稽古仕候ニ付而者、右
流之療治道具所持不仕候而者
療治方可仕様無御座、右品々
相調候得者、過分銀高ニ而、別判
書付之通御座候、一躰者右ニ而
金不相揃候ニ而者、無御座右丈位
成共、無之而者罷下リ候而も、何之
御奉公茂出来不申候、当時御物入
多被為 在候得共、正金弐拾五両御
取替被差出被下度奉願候、然時ハ
御蔭を以、右療治道具相整
且又諸相伝等仕誠以難有
仕合奉存候、返納之義者、罷下
候而、両三年ニ御返納被 仰付
於被下者聊茂無間違御返上申
上義ニ御座候、自然相滞候節者
拝領米より御引当御返納可被成下、願
之通、被仰付被下候様、深重奉
願候、此旨、御国元江御取扱被仰届
被下候様御願仕義ニ御座候、猶委細
之義者口達仕候 己上
 丑十月      井上友庵
 森川八郎右衛門様  (『蓮池藩日誌』文化15年正月)

井上友庵の医療道具(2)
井上友庵が蓮池藩に提出した外科道具の見積書は以下の通りです。
驚くほどたくさんの道具が必要だったのです。友庵は25両の借用を願ったのですが、20両しか貸してもらえませんでした。が、なんとか工面してのこれら道具を購入したのでしょう。これらについて、次回からわかる範囲でどのような器具であったのか、紹介することにします。

外療道具直段附
針類之分
一 三積針    壱本
    代三匁五分
一 同直鍮管
    代弐匁
一 金瘡針  尤取合 拾本
    代拾五匁
一 癰切針  尤大形 壱本
    代拾五匁
一 同    尤小形 壱本
    代拾匁
一 ランセッタ 尤大形 壱枚 
代拾匁
一 同 尤中形 壱枚
    代八匁五分
一 同     尤小形 壱枚
    代七匁五分
一 匕針        壱本
    代三匁五分
一 三角針    壱本
   代弐匁五分
一 口中三ツ道具
   代拾匁五分
一 口中焼金   壱本
代四匁五分
一 焼金  但品々取合 六本
   代三拾七匁
一 口中吹筒  尤真鍮 壱本
   代四匁五分
一 口中剃刀      壱挺
   代弐拾五匁
 尤真鍮
一 曲頭管      壱本
   代弐匁五分
一 眼療七ツ道具
   代三拾弐匁

  鋏類之分
但シ八寸
一 大関切鋏  壱挺
   代四拾八匁
一 同七寸   壱挺
   代参拾匁
一 同六寸   壱挺
   代弐拾匁
一 長刀鋏   壱挺
   代弐拾五匁
一 ソリ鋏   壱挺
   代弐拾五匁
一 関切鋏   壱挺
代拾匁五分
一 同四寸   壱挺
   代九匁五分
一 匕三切鋏  壱挺
   代九匁五分
一 小ソリ鋏  壱挺
   代拾弐匁
但大形
一 小手鋏   壱挺
   代九匁五分
一 先細形   壱挺
   代九匁五分
一 六指鋏   壱挺
   代壱拾八匁
一 大毛引   壱挺
   代拾八匁
一 小手毛引  壱挺
   代拾五匁
一 直毛引   壱挺
   代拾三匁
一 糸毛引   壱挺
   代拾弐匁
但無双
一舌押     壱挺
   代弐拾五匁
一 ヒストロス 壱本
   代七匁五分
(メか)
一 コロンヒス 壱本
    代六匁五分
但くじら
一 サクリ   弐本
   代三匁五分
但銀細工男形
一 カテイトル 壱本
   代五拾匁
但シ銀
一 同女ノ形  壱本
  代八匁五分
但真鍮
一 スポイト  壱挺
代拾弐匁
右同
一 同小  壱挺
   代拾八匁
一 ケット   壱挺
   代三拾弐匁
一 八貫形  壱挺
   代拾六匁
一 クイ貫   壱挺
   代弐拾匁
一 センケツ刀 壱本
   代弐拾匁    
一 リョウシ刀   壱本
   代弐拾匁
一 曲生      
代六匁五分
一 ホネ引ノコ切 壱挺
   代拾五匁
一 同       壱挺
   代拾匁
一 ホネヌキ   壱本
   代七匁五分
一 ウミカキ   壱本
   代四匁五分
一 ウミカキ
   代四匁五分
大形柳
一 鉄へら   壱本
  代拾匁
一 口柄入   壱本
  代七匁五分
大柄入
一 鉄へら   壱本
 代拾匁五分
大中小
一 同常形   三本
   代拾匁五分
一 ハチモン  壱挺
   代四拾五匁
但シ赤金
一 ランビキ  壱組
   代六拾五匁
一 膏薬鍋   壱芍
  代五拾匁
一 療治台   壱組
   代七拾五匁
〆銀高壱貫七拾八匁五分
   差引
残正銀五百四拾六匁五分
 代金八両壱分ト九匁四分六厘壱毛
   右之通ニ御座候 已上
              京都三条通    安信
  九月拾五日
 井上友庵 様

 

新刊紹介『岡山の在村医中島家の歴史』

◆『備前岡山の在村医中島家の歴史』(中島医家資料館・中島文書研究会編・思文閣出版、2015年11月21日、10000+税別、301頁)が出た。◆御当主の中島洋一氏の著した「中島家の歴史」のほか、松村紀明「地域医療研究の端緒としての中島家文文書」、木下浩「中島友玄と岡山県邑久郡における江戸末期から明治初期の種痘」、梶谷真司「事業者としての友玄ー製薬業からみた中島家の家業経営」、町泉寿郎「中島宗仙・友玄と一九世紀日本の漢蘭折衷医学」、清水信子「『胎産新書』諸本について」、鈴木則子「『回生鈎胞代臆』からみた中島友玄の産科医療」、平崎真右「地域社会における宗教者たち」、黒澤学「中島乴と明治期岡山の美笑流」などの論考と、史料解説、蔵書目録、中島家年表などからなる岡山邑久郡の在村医中島家の歴史を総合的に調査した研究報告書である。◆同家は300年前の大工職中島多四郎の子友三が一代限りの俗医(在村医)として医家となり、友三の子玄古の時代に専業医となった。18世紀後半、玄古の子宗仙の代には、京都で吉益南涯に古方を、長崎で西洋医学を学ぶようになった。宗仙の子友玄は、京都にでて、吉益北州に古方を、小石元瑞に漢蘭折衷などを学び、幕末期には、内科・外科医の医業のほかに、鍼灸治療や売薬業でも手広く営業し、明治5年には種痘医としても活動した。◆まさに、庶民が医師と医薬による医療を望むようになった時期から在村医が創出されるようなるのだが、中島医家もまたその流れに沿っていた。西洋医学が浸透しはじめると在村の漢方医らも蘭方を取り入れるようになるのだが、中島家もまた漢蘭折衷医としての医療活動を展開するようになる。中島家の歴史から、江戸時代医学史が見えてくる。同家には大量の医薬書のほか、診療記録、配剤記録、医療器具も残されている。◆在村医としての中島家の活動が、医薬書や配剤記録などとともに研究がさらに進展することで、江戸時代の在村蘭学の潮流と地域医療の近代化、庶民の知的水準の高まり・文化的傾向もまた明らかになることになる。多くの人々の目に触れてほしい本であり、医学史・文化史研究に寄与することの多い本である。

種痘医野口良陽

 

2015年10月06日

 洋学 at 14:46  | Comments(0)
第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

金平糖と肥前・信州

◆金平糖というお菓子がある。子どもの頃、駄菓子屋さんで買っていくつものとんがりから口のなかに広がる甘さがなんともいえないおいしさだった。◆ポルトガル語でコンフェイト (confeito) に由来し、戦国時代に宣教師らが伝えた南蛮菓子という。永禄12年(1569)に、宣教師ルイス・フロイスが京都の二条城において、信長に謁見したとき、ろうそくなどともに献上されたのが文献上の初見らしい。◆フロイスは、confeitoをよく献上物に使った。たとえば『フロイスの日本史覚書』(中公新書)に「われらにおいては、柄杓一杯の水を飲むのに一匙の砂糖菓子(コンフェイト)をまたは一切れの砂糖漬けが与えられる。日本では、盃をとるためには砂糖菓子1個、またはそれと同じくらいの大きさのものを与えれば事足りる」(同書、141頁)とある。この場合の砂糖菓子は金平糖のことだろうから、1個でも喜んでもらえた相当貴重でなおかつ珍重されたことがうかがえる。◆江戸時代にはいってもこの菓子は献上物として珍重された。江戸時代初期、慶長14年(1609)、佐賀藩坊所鍋島文書に、「金平糖一斤(600グラム)」の記録があり(江後迪子『長崎奉行のお献立 南蛮食べもの百科』吉川弘文館、2011年)、さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていたという(同前)。3000斤とはかなりの量であり、かなりの流通量になったのではないかと考えられる。◆さてこれからが本題で、金平糖が信州に伝わったは、江戸時代初期とみられる。それが史料的にわかるのが、先に紹介した佐久ホテルの篠澤家文書などである。
◆以前に、岩村田の佐久ホテルは歴史のあるホテルと書いた。じつは1428年(正長元年)の創業という。なんと600年以上も続く、旅館業はもちろん、長野県の産業界でも最も歴史のある老舗中の老舗。戦国時代には武田信玄も入ったという天然温泉もいまだにホテル内にある。江戸時代は中山道岩村田宿の本陣と割元(村でいう大庄屋クラス)を代々勤めて現在に続く家柄である。◆江戸前期の岩村田宿割元篠澤佐五右衛門が、慶安元年(1648)に小諸城主を接待したときの文書が写真である。文書の左に、慶安元年­十月十九日晩に信州佐久岩村田の篠澤佐五右衛門滋野重長と息子良重が信州小諸城主青山­因幡守宗俊公らに対し、料理を献上し、その場所は小諸町鈴木三四郎宅で、小諸藩家老田塩­吉兵衛も同席していたと書いてある。◆写真の真ん中以降に、御くわし(御菓子)として、一みつかん、一あまひ、一里(?)やうかん、こんへいとうという文字が見える。つまり、小諸城主を接待した本膳料理の水のもの(デザート)ととして、甘い御菓子を出したということ。◆今でも、料理のあとにはアイスとか甘い物をほしがる人が多いが、同じ気持ちだったのだろう。いや、今よりもっと甘い物は貴重だったから、甘い御菓子(砂糖菓子)をだすことは、最高のもてなしだった。◆みつかんは、もちろん酢ではなく、ミカンのことである。ただ旧暦10月19日のミカンとはどのようなものであったか。ミカン栽培のできない信州佐久で、この時期にミカンを入手できたのはなぜだろうか。またどのようなミカンだったのだろうか。早生ミカンだったのかよくわからない。ただし、現在の温州ミカンのことではなく、肥前八代を故郷とし、戦国期に紀州有田に移植された有田みかんが江戸時代のミカンであった。◆江戸時代後期になると、江戸の金持が、富士山の氷室で凍らせたミカンを江戸まで早飛脚で運ばせた事例はある(塚本学「江戸のみかんー明るい近世像」)が、江戸前期のミカンは、貴重であったことはまちがいない。◆あまひとはなにか。求肥(ぎゅうひ)のことで、白玉粉や餅米の粉に砂糖や水飴などを入れて練って蒸したもの。また餡を包むその皮のこと。現代的にいえば、雪見だいふくの皮の部分といえよう。求肥は、善光寺でも名物の一つで、今でも玉だれ杏などは、ようかんに杏を練り込み、求肥で巻き込んでいる。羊羹の甘さと杏の甘酸っぱさと求肥のもちもち感がマッチして美味しい土産品。◆やうかんはようかん。羊羹はもともとは羊のスープのにこごり。中国から鎌倉時代に我が国へ禅僧の世界へ伝えられたが、肉食を禁じられた僧侶たちが、小豆を煮て同様の味わいを出したのが始まりという。江戸時代になって琉球や奄美諸島などで黒砂糖が生産され、砂糖が流通するようになると、さらに寒天を使った練り羊羹も流通しはじめたようである。おそらく慶安元年のやうかんは、貴重な砂糖を使った練り羊羹だったとみられる。◆そして真打ちが、コンペイトウだった。1637年に金平糖が3000斤輸入され、1639年にポルトガル船の来航禁止となった。来航禁止の約10年後に、信州で金平糖の製造技術があったとは思えないので、これはおそらく、1637年に輸入された金平糖の1粒か数粒であったのだろう。フロイスも砂糖菓子(コンペイトウ)1粒で足りると書いている。最後の最後に、当時の砂糖菓子の真打ちをもってきたところに、篠澤佐五右衛門の最高のおもてなしの心があった。◆殿、これがポルトガル伝来のコンペイトウと申すものでございます。おお、そうか、これがうわさのこんぺいとうか、佐五右衛門よくぞ、手に入れてくれた。余は満足じゃ、ははあ、有り難きしあわせ、というような会話がなされたかもしれない。◆老舗中の老舗の佐久ホテルは、佐久平駅前のはやりのビジネスホテルに押されて、やや元気がない。歴史好きの人が軽井沢周辺に来たとき、武田信玄ゆかりの天然温泉に入り、豊臣秀吉の書状を読み、北斎の絵や一茶の句を鑑賞しながら、鯉料理に舌鼓をうつ、そんな旅もおすすめしたい。◆なお、この接待文書は現在佐久市望月町歴史資料館に保存されている。この文書からは、江戸前期の信州での最高の本膳料理が復元できるので、それについては機会があったら書いてみたい。◆また、鈴木先生からの、砂糖の普及によっての虫歯の広がりや歯科医療(江戸時代は口中科として独立)、白い歯の絵などの関連についても宿題としておきたい。肥前から信州への南蛮菓子の普及も、また意外とはやく広がっていたのであった

企画展 「米沢医家の系譜」

◆米沢の上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」展が9月19日から11月23日まで開催されています。図録は、米沢藩の医家堀内家文書やシーボルト門人伊東省迪資料の紹介のほか、海原亮(住友史料館)氏や織田毅(シーボルト記念館)氏らの寄稿もあります。◆堀内家第5代堀内素堂は江戸に出て蘭方医坪井信道に師事し、伊東玄朴らと一緒に診療活動を続けています。坪井信道が堀内忠寛(素堂)にあてた手紙には、信道の義父青地林宗の病気を忠寛が診療したあと、信道や伊東玄朴が診療したことを告げている(拙著『伊東玄朴』51頁)など、素堂と信道、玄朴は大変な協力関係にありました。素堂が、ドイツ人医師フーヘランドの小児科医書のオランダ語版を『幼々精義』(第1輯天保14年、第2輯弘化2年)として刊行しますが、この第1輯の序文は坪井信道、跋文は杉田立卿、第2輯の序文は箕作阮甫、跋文は伊東玄朴と錚々たる蘭学者が書いており、我が国最初の小児科医書となっています。◆写真の図録表紙は、明和元年(1764)の米沢藩での解剖記録が載っています。東北で最も早い時期の解剖記録です。写真の米沢藩医家水野家門人姓名録からは、米沢の医家たちの修学過程も見えます。藩医学校好生堂蔵書目録は図録に全文翻刻されており、米沢藩の医家らが蔵書を借用して勉強していた様子もうかがえます。◆米沢藩医学の西洋医学導入の過程と地域蘭学の展開過程が、歴史的に見える展示と図録になっており、近年にない充実した医学展示となっています。

 
青木 歳幸さんの写真
青木 歳幸さんの写真