新刊紹介・書評

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■新刊紹介 『愛娘への手紙―貢姫宛て鍋島直正書簡集』  鍋島報效会編『愛娘への手紙―貢(みつ)姫(ひめ)宛て鍋島直正書簡集』(鍋島報效会、2018.5.20、25000円税込み)が出た。これは佐賀藩10代藩主鍋島直正が愛娘貢姫へ宛てた書翰191通と、乳母磯浜に宛てた5通の計196通を全写真・解読付きの書簡集である。  2部構成になっていてⅠ部が書翰と解読で、191通の写真がカラーで掲載され、解読が下にあり、なんと621頁もある。Ⅱ部は、直正と貢姫をめぐる歴史的背景と解説で77頁。とくに巻末の書翰一覧と直正と貢姫の年表、および直正の在府・在国、長崎巡見等年表は有意義で、幕末期維新期に、大藩として重きをなした佐賀藩主鍋島直正の、動向が一目瞭然であり、愛娘への手紙には、公的にはみられない直正の父親の愛情と幕末維新期の動乱に対する本音を見出すことができる。  貢姫は、佐賀藩医伊東玄朴の種痘により、天然痘にかかることなく、美形のまま、安政2年(1855)に川越藩主松平直侯に嫁いだ。ともに17歳だった。直侯は、水戸の徳川斉昭の8男で、7男がのちに徳川15代将軍となった徳川慶喜であり、直正にしてみれば、直侯の人脈と将来性をみこして選んだ貢姫の嫁ぎ先であった。  写真は、安政5年(1858)8月4日付けの佐賀からの貢姫宛て書翰である。7月11日付け書翰が届いたこと、江戸は大変な大騒動の由、尾州(徳川慶勝)・水戸(徳川斉昭)・越前(松平慶永)、大しくじり、前代未聞のこととと記し、貢姫を心配している。大騒動は安政の大獄の始まりの情報で、直正はこの3人とは懇意の間柄だった。  書翰解読は、故小宮睦之・大園隆二郎らが行い、10余年の歳月をかけて、丁寧に正確な校正をしての刊行であり、装丁も素晴らしく頒価は25000円(税込み)と高価ではあるが、幕末の佐賀藩と我が国の政治と科学技術をリードした鍋島直正の本音が聞こえる本として、史料価値の高さから言っても、十分な価値がある。申し込み・お問い合わせは、鍋島報效会0952-23-4200まで。(青木) ■新刊紹介 『「鎖国」を見直す』  ・『近世日本の国際関係と言説』 荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫、880円+税、2019年12月13日発行)が出た。かわさき市民アカデミーでの講座(2002年)での古座話と明治維新史学会第四七回大会での公開講演(2017年)を文章化したもの。あとがきで、筆者が「鎖国」論者から180度変わるきっかけとなったのが、1983年の歴史学研究大会の全体報告を引き受けたとき、「近世の日本は鎖国していたはずだが、近代に入ってから急に侵略性をもつようになる。このメカニズムはなぜか」という問いに対して、従来の「鎖国」観とは異なり、近世の日本にも国際関係があり、それが再編される過程で近代日本は侵略性をもつようになったという結論となったと述べている。 なぜ「鎖国」でなくて「海禁」なのかをわかりやすく述べているので、市民も「鎖国」「海禁」論争を考えやすい。 ただ、海禁政策への評価と4つの口での交易の実態は、対外関係史や交易史からみると、荒野氏の主張のとおりと考えているのだが、それでもなお江戸時代後期までには、「鎖国」(交易制限だけでなくキリスト教禁止など)を祖法とする体制や意識が、例えば漂流民への扱い、厳しい類族改め、洋書制限、蘭学者への弾圧など、全国津々浦々に浸透していったことの国内的な諸問題についても地方史研究の側からの言及がほしいと感じた。 この問題意識を深めるには、例えば荒野泰典編『近世日本の国際関係と言説』(溪水社、510頁、2017年4月1日刊、6300円プラス税)が有用である。立教大学ゼミの卒業生や研究者らが荒野氏の学恩への謝意をもって刊行したもの。 今、総てを紹介することは不可能なので、荒野氏は研究におけるキーワードが「近世日本」・国際環境・日本型小帝国・「鎖国・開国」言説であるとし、「近代史研究においても、近世の「鎖国」が米国ペリー艦隊によって「開国」されて日本の近代が始まるという言説(開国言説)が根強く、その思いこみは近世の国際関係の実態とは関係ないように私には見える。」と述べ、「開国」の言説的検討の必要性を述べている。 蘭学を腑分けする(大島明秀)、一九世紀における藩認識と国家意識・対外認識―三河田原藩家老渡辺崋山を事例にー(矢森小映子)、ペリー来航時の贈答のかわら版にみる対外認識(田中葉子)、漂流民救助と送還の近代化(上白石実)、「女大学」言説の変遷とその評価(安田千恵美)などの論考に、近世日本の国際関係を、内側から捉えなおす方向性の一端を感じた。 さらに、永積洋子『「鎖国」を見直す』(山川出版社、1999)、片桐一男『それでも江戸は鎖国だったのか』(吉川弘文館、2008)、大島明秀(『「鎖国」という言説』ミネルヴァ書房、2009)などが、問題意識を共有し、「鎖国」と「海禁」を考える上の参考になる。(青木) ■新刊紹介 『漢学と医学』 新たな視点の医学史の本が出た。講座近代日本と漢学のうち第3巻町泉寿郎編『漢学と医学』(戎光祥出版社、2020年2月10日発行、3000円+税)である。 我が国近代医学の発達の基礎に漢学があった。西洋医学の受容にあたり、『解体新書』でも、セーヌ―をどのように訳出するか、玄白らは悩み、神経と訳し、それが我が国医学用語として定着した。 宇田川玄真は、宇田川榕庵に蘭学学習の前に漢学を徹底的に学ばせた。漢学の本質的な理解を得た結果、榕庵は、西洋自然科学書の翻訳において、元素、水素、酸素、金属などの造語を生み出すことができた。漢学の深い知識がないと、内容を理解し翻訳できなかったのであり、本書は、そうした近代医学の発達に果たした漢学の役割を、多方面から明らかにした本である。 本書の構成は以下の通りである。第Ⅰ部近世近代の「学び」では、第一章近世日本近代社会における医学の「学び」(町泉寿郎)、第二章華岡流外科の普及と近代医学(梶谷光弘)、第三章江戸時代の経穴学にみる考証と折衷ー小坂元祐と山崎宗運を事例にー(加畑聡子)の3論文が掲載され、梶谷論文は華岡青洲の外科学と医学論の近代医学への影響をまとめた。 第Ⅱ部、西洋医学知識の普及では、第一章18世紀から19世紀のヨーロッパにおける医学の変革、日本との関わり(坂井建雄)、第二章舶載蘭書小考(吉田忠)、第三章ベンジャミン・ホブソン著『全體新論』の持つ意味(中村聡)の3論文がある。坂井論文は、日本における西洋医学の受容を述べ、例えば、18世紀初頭、ライデン大学のプールハーヴェが伝統的な生理学、病理学、徴候学、健康学、治療学のうち生理学を大きく変革させ、その弟子たちの著書が高埜長英の『西説医言枢要』や緒方洪庵の『人身究理学小解』として紹介されたとする。吉田論文は、舶載された医学関連蘭書に対し1800年以前については近藤守重の『好書故事』などから少なくとも15点程度の医学蘭書が舶載されたと推定した。19世紀前半には、永積洋子、科研報告書『一八世紀の蘭書注文とその流布』(1998年)などから60冊ほどの医学蘭書が輸入され、文化11年(1814)に長崎奉行が20冊蘭書を注文していること、誂物として例えばチットマン外科書が天保11年(1840)長州医学館が開設された際の会読テキストとして使用され、天保末期から弘化にかけて参照すべき外科書の転換が現れているように見受けられるとした。 第Ⅲ部、医学医療文化史では、第一章江戸時代の和算塾の様相(佐藤賢一)、第二章医者と漢詩文ー江戸後期から明治期を中心にー(合山林太郎)、第三章近世後期における地方医家の学問修業ー吉益塾に学んだ人々から(清水信子)の3論文が載る。清水論文は、近世後期の吉益塾とその門下生のうち、備前の中島宗仙・友玄、難波抱節、信濃の伊藤忠岱の修学や関連医書について論究している。 第Ⅳ部、医学医療制度では、第一章宗伯と漢方存続運動(渡辺浩二)、第二章医学校の近代化ー岡山藩医学館(松村紀明)、第三章近代日本薬学の形成(小曽戸洋)の3論文。 コラム【研究の窓】では、女訓書と医学知識啓蒙(ヤング・W・エヴァバン)、福澤諭吉の科学啓蒙(武田時昌)、清医と幕府医官の筆談について(郭秀梅)、満州医科大学について(川邉雄太)の短文が載る。 あとがきで、編者町氏は、近代化過程における漢学と洋学の関係を対立的なものとして捉えるのではなく、補完的なもの相即的なもの等と捉える研究は、もっともっと必要であると感じている」と述べており、同感である。(青木)

■新刊紹介 『徳川日本の洋学者たち』 元津山洋学資料館館長下山純正(よしまさ)さんが、『徳川日本の洋学者たち』(東京堂出版、2019年9月10日刊、2200円+税)を出した。 津山藩の洋学者宇田川玄随・玄真と杉田玄白らの関係、宇田川榕庵と科学・珈琲・アコーディオン・カルタ、津山人箕作阮甫こそ日本人文社会学の祖など日本的洋学者のエピソードなどに加え、津山・美作洋学者の発掘奮戦記、洋学浪漫としての龍馬も好んだ地理の本、玄白は梅毒治療の専門医、甲状腺、その名前の由来とは?など多くの洋学関係挿話が掲載されている。楽しく洋学を学び知ることができる本である。  第Ⅰ部日本の洋学と津山の洋学では、第一章では、難解な解剖書を翻訳した『解体新書』、不屈の精神で訳された西洋の内科書『西説内科撰要』、「膵」の文字を作った宇田川玄真を、第二章では、植物学を日本に紹介した宇田川榕庵、榕庵の和蘭カルタなどを紹介している。三章では、箕作阮甫こそ日本人文社会学の祖として、家の再興をかけて医師を目指した箕作阮甫が江戸で蘭学を学び、幕末の対外交渉に活躍したことなどを中心に、赤穂浪士神埼与五郎と箕作家の深い関係も語られる。  第四章では、津山に生まれた津田真道の蕃書調所出役やオランダへの留学、新政府での法整備などや、阮甫の婿養子である箕作省吾の著した『新製輿地全図』などが広く読まれたこと、阮甫のもう一人の婿養子である箕作秋坪は幕末にロシアとの交渉にあたったこと、明治元年に英語塾三叉学舎を興し、東郷平八郎、原敬、大槻文彦らが学んだこと、明六社の社長や高等師範の制度作りに関わったことなどを紹介している。第五章では、明治3年頃に、津山藩医久原宗甫の儀(やす)姫(ひめ)の乳がん剔出手術を行ったこと、有機化学研究の先駆者で京都大学総長を務めた久原躳弦、明治天皇の侍医頭である岡玄卿、和英辞典の編集をした岸田吟香などが描かれている。  第Ⅱ部津山・美作の洋学発掘記では、第六章杉田玄白・シーボルトの門人たちで、杉田玄白門人小林令助、シーボルト門人石井宗謙、適塾門人石井信義(宗謙の長男)、シーボルト門人石坂桑亀、第七章では京都や江戸・長崎・華岡塾で学んだ医師たちとして、京都小石塾で学んだ江見敬輔や岩下徳太郎、坪井信道門人の岡崎帰一、長崎に遊学した服部秀臣、長崎に定住した木村逸斎、山田方谷門人で横山廉造、箕作阮甫などに学んだ仁木永祐等が描かれた。木村逸斎の孫が医学史の泰斗古賀十二郎であり、仁木永祐は維新後に県会議員として民権運動にも参加したことを教える。第八章津山と種痘では、大坂で種痘を開始した緒方洪庵が国元で嘉永3年(1850)正月に,出身地足守藩で種痘を開始し、そこから津山藩医の野上玄博への分苗が行われたことのほか、種痘普及活動に尽力した在村蘭方医原村元貞や、華岡流外科医山田純造らの活動も紹介している。第九章最後の津山藩医では、芳村杏斎、高山俊斎ら、第十章浜田藩医能勢家の人々では、幕末から明治に医師から教育者として活躍した能勢道仙とその子孫で裁判所判事能勢萬について紹介した。第Ⅲ部洋学浪漫では、津山洋学資料館の収蔵資料とその収集経緯などを紹介している。洋学資料館の目玉資料の一つ、280万円もする「宇田川榕庵所蔵張込帖」は筆者の執念と宇田川への愛情とにより資料館が入手できた。発足当初、600点ほどのコレクションが約1万2000点にもなっている(岩下哲典評文)のは、津山の洋学と資料館をこよなく愛した下山さんの存在による。地方博物館と学芸員が何を目指し、どう行動すべきかということに大きな示唆を与える本であり、洋学研究者だけでなく学芸員必携の書といえよう。(青木)

『新版緒方洪庵と適塾』(大阪大学社学創叢書2 大阪大学適塾記念センター編集、2019年3月3月29日900円)が出た。第1部緒方洪庵の生涯、第2部適塾と塾生たち、第3部その後の適塾と文化財としての適塾の3部構成になっている。第1部には、洪庵の生い立ちから適塾での指導、洪庵の学問、医師としての洪庵、洪庵の薬箱、とくに種痘事業、コレラ対策などを扱い、短歌などを読む文化人としての洪庵の姿を描いている。第2部適塾と塾生たちでは、塾生たちの生活を描いている。

『鳴滝紀要』29号がでた。大島明秀「泉屋家旧蔵「オランダ語文法書」と志筑忠雄「助詞考」、堅田智子「男爵アレクサンダー・フォン・シーボルト「古き日本に関する回想 第2部ー英国の旗の下に 1862年~1870年」(2)、アーフケ・ファン・エーヴァイク「1830年12月、帰国したシーボルトへ其扇が送った最初の手紙」、史料紹介藤本健太郎「伊東昇迪「嵜陽日簿」翻刻及び註解」、特別展報告織田毅「高島秋帆の周辺ー系譜と晩年の活動を中心に」などの論考や史料紹介を含む。あとでじっくり読ませていただく。

新刊紹介大島明秀『細川侯五代逸話集』(熊日新書、2018年1月24日刊、1000円)が出た。筆者が熊本県立大学で日本史を教えているなかでの題材「随聞録」を読み解いた史料集でもあり解題集でもある。

「随門録」は、細川家祖丹後国主幽斎に始まり、小倉藩主忠興、初代熊本藩主忠利、光尚、綱利の五代にわたる全五十五話に及ぶ逸話集で近世後期に編さんされたものである。興味深い内容をもつこの記録を現代語訳し、解説をくわえて専門性を持ちながらも可能な限り一般に読みやすいものを心がけたという。

第二章は、解題編とし、諸本の異同や特徴を踏まえ、近世後期に編さんされた細川家史「綿考輯録」との影響関係について検討し、歴史的事実と逸話との関係性についても解説した。

第三章は、研究資料として利用できるように、すでに複数の写本で校合してある熊本県立図書館上妻文庫本を底本として、京都大学附属図書館谷村文庫本と公益財団法人永青文庫本を付き合わせて、校訂版を作成してある。

エピソードを読むと、細川忠興はやたら家臣らの首をはねる人物であった。ガラシャ夫人(明智光秀の三女で熱心なキリシタン)が食事のとき、その椀のなかに一本の髪の毛が入っていた。ガラシャは夫の気性を知っていたので、そっと髪の毛をとって中椀に入れて蓋をされた。忠興はそれをみていて、お椀の蓋をとり、髪の毛を確認して、料理人の首をはね、ガラシャ夫人の膝の上においた。すると、ガラシャ夫人は一言も発せられず、身動きもせず、終日そのままの姿でじっとしていたので、忠興もすまぬことをしたと思い、声をかけるとようやくガラシャ夫人も、お膝の首を取り除かれたとのことである。このようなエピソードが55話あって、現代語で読むと、当時の藩主の生き様を小説のように楽しめるのだが、第1章を読み終えた読者が、第二章解題と第三章校注へと進むことで、歴史資料にとりくみ、新たな発見をするという歴史研究の新たな旅へと誘うようなしかけが、註や参考文献が提示されている。よく練れた歴史探究書となっている。

新刊紹介『病と向き合う江戸時代』
◆岩下哲典さん(現在は東洋大学教授)から『病とむきあう江戸時代』(北樹出版、2017.9.15、2500円プラス税)と『津山藩』(現代書館、2017.10.10、1600円プラス税)を贈っていただいた。
◆岩下さんは、長野県塩尻市北小野出身の若手研究者、と思っていたらもう50歳を4つほど過ぎたという。岩下さんが学生の頃からの知り合い。北小野というところは支配が入り組んでいて面白い地域なのだが、それはまた別の機会に書くとして、岩下さんの健筆に驚くとともに多謝。
◆後者は時間があるときに詳しく紹介したい。前者は、外患・酒と肉食、うつと心中、出産、災害、テロについてのトピック的な本。
◆病に関する記述は「うつ」あたりだが、これもうつにかかった武士に対する休暇がどうあったかというもので、それはそれで面白いが、表題に惹かれた人にはやや違う感想をもたれるかもしれない。
◆酒と肉食に出てくる箕作阮甫の『西征紀行』については、藩医の出張旅行における酒・肉食の物語。『西征紀行』については、かねてから関心があったので、後日、これも佐賀藩の記述を詳しく紹介したいと思っている。まずは紹介と御礼まで。

鳥井裕美子『前野良沢』―生涯一日のごとくー

前野良沢については、岩崎克巳『前野蘭化』が定評ある書であったが、やや専門的だったのと、古くなって入手しにくくなっているので、鳥井氏が以前編纂した『前野良沢資料集第一~三』(大分県立先哲史料館)所載の資料をもとに、新事実を入れて描いたもの。 たとえば、前野良沢といえば『解体新書』の翻訳の指導をした人物であるが、『解体新書』には、前野良沢の名前はなく、杉田玄白刊行となっている。その理由は、従来、太宰府天満宮への誓いなどいろいろ取りざたされてきたが、鳥井氏は、玄白が外科であったのに対し、良沢は内科であり、解剖学への興味も玄白とは随分温度差があったろうし、あまりにも誤訳の多いままに刊行されようとする『解体新書』に、オランダ語学者としての学究肌の良沢の自負が、ともに名前を掲載されることを拒んだことが実相であろうとする。また、『解体新書』の典拠は『ターフェル・アナトミア』のみではなく、桂川甫周蔵『ブランカール解体書』(ブランカール解剖書)などからも加えていることなどを、耳の図(左が『解体新書』の耳図、右が『ターフェルアナトミア』の耳図)などで紹介しているなど、わかりやすい。寛政期には、ロシアの南下に伴い、ロシア語研究に打ち込み、「柬砂葛記」「魯西亜記本紀」などを残しており、晩年の江馬蘭斎の入門、大槻玄沢や藩主奥平昌高らとの交流、没後の評価などを描いており、『解体新書』以後の良沢の活動もていねいに描かれている。

◇鳥井裕美子『前野良沢』(思文閣出版、2015年3月31日刊、2500円+税)

7月4日第一回研究会 多久歴史資料館

15K02867 「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」
研究代表者(所属機関・部局・職・氏名)
佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸

27年度第1回研究報告会開催要項

下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」
(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。

日程
7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)
〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975
電話 0952-75-3002
13時15分~15時00分
多久御館日記ほか種痘関係資料調査
15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)
・青木歳幸「本研究の目標と課題について」
・青木歳幸「多久領の種痘」
・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」
・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」
・海原亮「医師の医学修業について」
17時00分 終了

※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター
特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378
携帯 090-4015-8603

研究会終了後郷土資料館の見学しました。
Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真

Wolfgang Michel-Zaitsuさんは多久聖廟で青木 歳幸さんと一緒です

7月5日 ·
https://scontent-hkg3-1.xx.fbcdn.net/hphotos-xap1/v/t1.0-9/11707531_10204958641421368_957884993922367558_n.jpg?oh=81140b3304e00717c84c3ecb34a2111e &oe=56A2581F

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Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真

新刊紹介・書評」への2件のフィードバック

  1. 新刊紹介『病と向き合う江戸時代』
    ◆岩下哲典さん(現在は東洋大学教授)から『病とむきあう江戸時代』(北樹出版、2017.9.15、2500円プラス税)と『津山藩』(現代書館、2017.10.10、1600円プラス税)を贈っていただいた。
    ◆岩下さんは、長野県塩尻市北小野出身の若手研究者、と思っていたらもう50歳を4つほど過ぎたという。岩下さんが学生の頃からの知り合い。北小野というところは支配が入り組んでいて面白い地域なのだが、それはまた別の機会に書くとして、岩下さんの健筆に驚くとともに多謝。
    ◆後者は時間があるときに詳しく紹介したい。前者は、外患・酒と肉食、うつと心中、出産、災害、テロについてのトピック的な本。
    ◆病に関する記述は「うつ」あたりだが、これもうつにかかった武士に対する休暇がどうあったかというもので、それはそれで面白いが、表題に惹かれた人にはやや違う感想をもたれるかもしれない。
    ◆酒と肉食に出てくる箕作阮甫の『西征紀行』については、藩医の出張旅行における酒・肉食の物語。『西征紀行』については、かねてから関心があったので、後日、これも佐賀藩の記述を詳しく紹介したいと思っている。まずは紹介と御礼まで。

  2. ◆『鳴滝紀要』28号が出た。内容が大変充実している。
    論文は宮坂正英「ミュンヘン五大陸博物館所蔵「鳴滝の家形模型」に関するシーボルト自筆の記述について、大島明秀「志筑忠雄「三種諸格」の資料的研究」、堅田智子「男爵アレクサンダー・シーボルト「古き日本に関する回想第2部ー英国の旗の下にー1862年~1870年ー」(1)、野藤妙「長崎東濱町井手禎蔵の日記と川原慶賀」、織田毅「日高凉台研究序説ー主に牛痘法普及における業績についてー」、織田毅「近世後期長崎における日雇の一側面」、織田毅「<オランダ通詞研究ノートⅣ>オランダ通詞西家史料について」などが掲載されている。
    ◆史料紹介は、伊東救庵「江戸御尋人高野長英私宅江立寄申一件」、石井信義「明治7年日記」(一)である。
    ◆論文のうち、とくに、織田毅「日高凉台研究序説ー主に牛痘法普及における業績についてー」は、シーボルト記念館に寄贈された日高凉台関係文書のうち、『種痘新書』(原書名は『牛痘新則』らしい)の草稿本と清書本の二種類について、検討した。
    ◆清書本は草稿本の修正が忠実に反映され、「文政乙酉夏六月訳於長嵜客舎 種痘新書 終」とあり、文政八年の成立とされる。同書には草場佩川の跋文と凉台の子凉言惟民の後序があり、後序には、愚父(日高凉台)が長崎にいたとき、シーボルトが三児に種痘したが感ぜず、惜しいことをしたこと、文政8年に草場佩川の跋文を得たことが記されており、その後序を記した時期が、「嘉永庚戌冬十二月」で

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