ブログ・医学史

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島根の種痘 島根の種痘は、石見国高角村(現益田市高津町)の米原恭庵が、嘉永2年9月に、長門国須佐村(現山口県阿武郡須佐町)の村医師田村玄洞から、牛痘を入手し、高角村で接種を開始し、翌嘉永3年3月までに、500有余名に実施した。ときに恭庵21歳であった。 この恭庵への頌徳碑が、益田市の染羽天石勝(そめばあめいわかつ)神社に建っている。 米原恭庵頌徳碑」 米原恭庵は本名を祥 号を恭庵と称し文政十一年八月石見国高角村(現益田市高津町)米原宗敬の長男として生る 歳僅か十一才にして医学に志し 津和野藩医岩本靖庵に師事し 更に長門国須佐村田村玄洞に学び 十七才の時江戸に上り 竹内玄同の門を訪れ 西洋法内外科及牛痘種法等を修学の上帰郷す 嘉永二年九月旧師田村玄洞より牛痘を入手し 初めて高角村において接種 翌年三月までに五百有余名に施行す 時に恭庵二十一才であった 当時高角港は津和野藩港として殷賑を極めたが 反面悪疫病の流行も亦猛威を振い 特に天然痘の災禍は地方住民を苦しめた 恭庵は惨状を見るに忍びず 私財を投じ決然として全国に先駆け牛痘接種を断行しその防疫に献身した 後 居を益田村に移し内外産各科に亘りその研究と診療に生涯を捧げた ことに先師の医術に対する偉大なる研究心と牛痘実施の先駆者としての功績を讃えその遺徳を敬仰する 昭和四十七年九月二十二日 益田市美濃郡医師会建之 顕彰碑の存在は、昭和44年編纂の松田町史(矢富熊太郎氏編集)により島根県医師会長、米田正治氏、および湯浅浩一氏(わたしどもの縁類)の御尽力で再発見され、益田美濃郡医師会が「恭庵の六十二回忌記念法要」をしていただいた。現在、その顕彰碑は、医光寺にある恭庵の川柳の碑とともに益田の観光コース になっている。恭庵は晩年、川柳の師匠もした(月下吟社七世宗匠)。生け花、茶道、書道にもたけていた。 医光寺にある句碑には「雪どけで飯たく里や梅の花」  七十八才 晩山と刻まれている。 辞世「いいのこす言のは草もなかりけむ、身はあだし野の露とけぬとは」 ちなみにわたしの実父は「わたしは恭庵の六十の子だった」と良く言っていたものだ。 墓碑は大雄庵(ダイユアン)にある。 出典は、『医界風土記 中国・四国編』、およびhttps://fumioy6.exblog.jp/1414606/ 天草での牛痘種痘 天草地方へは、牛痘種痘伝来の情報と技術は、いつどのように伝わってきたのだろうか。本戸組大庄屋木山家文書『嘉永三年御用触写』によれば、嘉永三年(一八五〇)二月一九日付けの会所詰大庄屋(平井為五郎)から東筋村々大庄屋や庄屋衆中宛ての急廻状に、 急廻状を持って御意を得候、然ればおいおいお聞きおよびの通り、上津深江村内において牛痘山開起、是迄多人数種え立て相成候ところ、病人寝臥も致さず一人も気づかいなく仕取り(全快)候事にござ候、当郡は古来より痘病相恐れ候ところ、この節の牛痘にて死失絶家等これなきよう相成るべく、まことにもって仁術これにすぎざる事にござ候、然るところ郡内所々へ深く稽古鍛錬等これなきものども、上津深江村痘山へ参り稽古いたし同所より差図をうけ、郡中へ手分け相廻り候などと申し立て、村々をおげ(だまし)歩き、もちろん正規の見分(見学実習)等致さず、ひと通りの効能とり勝手まま種え付け、中には右の者どもかえって世話凝痘を施行に及ぶ旅医あり。斯かる他国者を見当らば、早々追い払ふべしとの会所触廻はる。 とあり、牛痘種痘が先年から行われていたこと、偽医者が偽の種痘を行う者もいたことを記している。 嘉永三年三月二七日にも、富岡役所より、蘭人持ち渡りの牛痘によって、種痘を上津深江村字大田山で実施したところ、至って軽安で、伝染への気遣いもなく、再煩いの患いがないこともはっきりとわかったこと、未熟の旅医どもが種痘をしているとのことも聞くのでそれは禁止することなどを触れている。さらに追記において、偽医者が横行していること、大田山で正式な種痘法を学ぶため各村から許可することなどが通達された。 木下逸雲の種痘 嘉永三年三月ごろから、大矢野島三カ村や上島の二間戸村で疱瘡が流行したため、富岡役所や大庄屋らは天草での疱瘡流行の報告と代官所の助力を日田代官所に願い出た。日田居住の天草支配郡代池田岩之丞手代から天草地方の大庄屋へ宛てて、嘉永三年四月一日付けの廻状が届いた。長崎から日田へ招かれて種痘を行っていた医師木下逸雲を派遣するというものであった。 廻状 長崎八幡町医師 木下逸雲 右の者儀、種痘巧者の趣につき、当地(日田)へ呼び寄せの上、当春以来相(あい)様(ため)し候ところ、大勢軽安く種痘いたし諸人相助かり候折柄、このたび富岡陣屋詰めの者より申し越し候趣にては天草郡中疱瘡流行の由にて、牛痘望みの者もおいおい出来候趣相聞こえ候間、諸人を救い候仁術の儀につき、とりあえず出立申し談じ、逸雲差し向け候間、疑念なく望みのものは種痘受け申すべく候 もっとも元来当人、施しの志これあり候につき、すべて心配なく手軽に取り計らい小前難渋に相成らざるよう世話致さるべく、且つ右牛痘法望みの医師へは、これまた相伝え候趣につき、その旨、組の庄屋へ通達致し候様相心得らるべく候 嘉永三年四月一日 池田岩之丞手代  紅林伊九郎 同人手付 菊田啓之進 大坪万太夫 高橋左太夫 組々大庄屋 木下逸雲が種痘を実施することだけでなく、逸雲から牛痘法伝授を望む医師へも伝えるとも記されている。逸雲が、天草地方にやってきたのが、四月八日であった。大矢野村から大浦、須子、赤崎、富岡などを廻り、種痘を接種しつつ、庄屋宅などでもとめられるままに画業にもいそしんだ。 逸雲が指導した牛痘苗の採取方法は、井上忠「木下逸雲の書簡」によれば「漿ヲ取ルノ法、前日ニツブシ置キ、翌日、痘頂、或ハ痘辺ニ、鼻クソ又目ヤニノ如クこわばりてあるをこそぎ落して取り、硝子庫ニ入レテ蝋(密閉)ス」というものであった。 逸雲は、やがて大島子村の翠樟亭を宿所に、嘉永三年一二月まで、数百人に種痘を実施し、医師らへの牛痘法の伝授を行った。逸雲の滞留中に、伝授を受けた医師の名前は、嘉永四年(一八五一)三月一四日付けの郡会所詰大庄屋からの東筋大庄屋・庄屋衆中宛ての御用触れに記されていた。その名は、教良木村平田賢哉、合津村荒木甘吾、大浦村森崎遠江、同小崎民寿、赤崎村上原礼太郎、下津浦村小島尚謙、打田村吉田周禎、大島子村宮崎玄逸、同津田春合、同音丸慎哉、湯船原村手島太準、二間戸村松崎蕣庵、同松崎恭林、高戸村佐々木守礼、浦村萩原文貞、亀川村織田臣哉、棚底村西章録、同西玄達、御領村山崎民之丞、同米原魯庵の合計二〇人であった。 逸庵からの免許と代官所の後押しによって、二〇人の医師らが、各所で天草地方の牛痘種痘をすすめた。こうして天草地方に牛痘接種が広まり、疱瘡患者が激減し、文久二年(一八六二)には、疱瘡隔離山小屋が廃止されるに至ったのであった。 明治初期の種痘 天然痘撲滅の闘いは、明治以降も受けつがれた。明治三年(一八七〇)正月二二日付け郡会所からの諭達(鬼池村庄屋「御用留」)には、牛痘の植え付け係医師として、富岡周辺は御用医師吉川文尚、富岡滞在百々禎裕、小松謙益を任命したこと、村々の種痘すべき小児を調べてこの正月中に郡会所に申し出ること、種痘医を派遣すること、種痘をしたうえはこれまでの他国養生や山小屋への養生は一切禁止すること、種痘を嫌うことは心得違いであり、性分にあわせて接種するので種痘をさせること、謝金は、身分よろしき者は小児1人につき金二朱、中分のものは金一朱づつ、困窮のものは無料とすること、種痘すべき小児の名前を書き出すべきこと、出張医師は手賄いとするので食事については出してもよいが、薪代や米代は無用であることなどの内容を達している。 これをうけて各村では村の種痘医名と種痘すべき小児名を書きあげ、富岡役所に報告をした。富岡役所から医師が派遣され、種痘が実施されたのであった。こうして、幕府領であった天草地方へは、明治政府の種痘行政が展開してゆくこととなった。 【参考文献】 松田唯雄『天草近代年譜』(国書刊行会、一九七三年) 北野典夫『大和心を人問わばー天草幕末史』(葦書房、一九八九年) 東昇『近世の村と地域情報』(吉川弘文館、二〇一六年)

2018年01月07日 天草の疱瘡流行と隔離山小屋

天草の疱瘡流行 天草地方でも天然痘の流行は頻繁に繰り返された。『天草近代年譜』によると、寛政六年(一七九四)に志岐村が一村あげて疱瘡に罹り、享和元年(一八〇一)には、崎津村に疱瘡が大流行し、罹病者は五〇〇人余りに及び、近村や郡中からも助勢がきて、島原表からも医師が来て救護にあたったので、流行当初は、患者の七割ほどが死亡したが、段々緩和されるようになった。 文化六年(一八〇九)八月には、志岐村で疱瘡が大流行した。小野田代官、町年寄、町庄屋等が、同村へ出張詰切り防疫に努めたが、九月に入り、益々猖獗を極めたため、同村の大庄屋平井為五郎は、隣村の坂瀬川村へ立ち退くことになった。一〇月になっても、志岐村の疱瘡流行は止まず、大庄屋たちは年貢の納期であるので、会所詰めの者は手落ちがあってはいけないので、この際、大庄屋や庄屋など年貢納入に関わる者は、すべて疱瘡相済み候者を宛ててほしいという要求を役所に出したほどだった。文化七年(一八一〇)二月になって志岐村、三月には富岡町の疱瘡流行がようやく終熄した。 文政三年(一八二〇)三月には、痘病(天然痘)がまた流行し始め、志岐村・内田村一帯に蔓延した。天保五年(一八三四)崎津村で疱瘡が大流行し、村中が極難に陥った。天保一三年(一八四二)には富岡町と志岐村に疱瘡が発生し、次第に蔓延しはじめた。二月には大流行となり、同所は出入り止めとなり、罹病者は一〇〇〇人余、死者は五〇余人にも上った。 疱瘡対策としての山小屋 このように天草地方では、疱瘡の流行が繰り返された。その対策の一つとして山小屋に隔離するならわしが生まれた。天草地方の疱瘡山小屋については、東昇『近世の村と地域情報』(二〇一六)に詳しい。 東昇氏によれば、山小屋の規定は、宝永六年(一七〇九)一〇月、「疱瘡人入申小屋并看病人仕様御請申上候覚」(上田家文書)という郡内の大庄屋から富岡役所に、郡中村々にいる疱瘡患者に対し、山小屋を建て、そこに隔離する願書が出されたのが初見という。 そこには、田畑に影響のない場所に、一人あたり二間四方の場所を確保し、一村で一五人から二〇人までの患者を隔離収容して、養生させること、それ以上の流行は、自家で看病するが、看病人以外の者は村外れに除くこととすること、たとい一村で五人、三人相患い候ものが出れば山小屋に入れるが、患者一人につき看病人二人宛つけ、近所の医師を派遣し療養させることなどを取り決めている。費用はまず村で負担し、まかない切れないときは、郡役所に相談することと決められた。 以後、疱瘡患者がでると、山小屋への隔離は常態化し、安永二年(一七七三)三月には、本戸馬場村の九人が、山小屋送りとなっている。 文化四年の高浜村での流行 文化四年一一月二八日に病死した漁師慶助の葬式に参列した二〇人が疱瘡に感染し、つぎつぎと高浜村内に蔓延した。一二月一四日に八軒、一五日に一二軒、四〇人余りが山入りをした。 高浜村を中心に活動していた宮田医師が山小屋に派遣され、治療にあたった。山小屋に入った宮田医師は一二月一八日に二通の書状を高浜村庄屋上田宜珍に送った。つぎつぎと山小屋に送られてくる疱瘡患者を、重病と軽症にわけ、薬用についても詳細に記録するとともに、一二月の寒さよけのため、酒や古衣類などを送ってほしい、肴も足りないなど、難儀していることを報告している。もう一通では二一人が死去したこと、そのうち薬を使用しなかったのが九人、あとの一二人は薬を使用したが亡くなったこと、雨が降ると薬をとりに行けないので、笠一本と下駄を持ってきてほしいとある。庄屋上田宜珍は、早速、肴や糧米、薬種を山へ送っている。 最初の発生から約一ヶ月後、宜珍は、一二月二五日付けで、病人八〇人、死者一六人(ママ)、看病人一二〇人、除小屋一〇一人と富岡役所へ報告した。除小屋というのは、患者の家族が避難するための小屋で、村はずれに建てられた。 翌文化五年正月、宜珍は、富岡役所の小川仁兵衛ほかへ年頭挨拶がてら病人の様子などを報告した。村内外から銭、米、麦、味噌、塩など救援物資がつぎつぎと宜珍のもとに送られてきた。宜珍は、それらを「諏訪疱瘡一件救方届書」として作成し、疱瘡が終熄したとみて富岡役所へ提出した。 ところが終息したかにみえた疱瘡が、二月一七日から再発して、再び山行きが始まった。三月七日までに病人一五人が山へ送られ、内一二人が死亡した。その後しばらく再発が無かったので、三月一〇日に宮田医師宅に、村役人らが御礼に伺い、その後、謝礼として銭一貫五〇〇目、米三俵、樽一を渡している。 三月二四日には、一二月一四日から山入りしていた者たちの帰村を許可したため、以後、ぞくぞくと帰村が始まり、ようやく終息したと安堵の気持ちが村に広がった。 四月一〇日には、看病費の額について村からの支出が提案された。男の看病費は大江村の八〇日=三五〇目を基準として、今回は一〇〇日と長期だったので、五〇目増の四〇〇目、女の看病費は三〇〇目とされた。山へ輸送などを行った山賃銭については、男の場合、初山三〇〇目、二番二〇〇目など計七五〇目とし、女子の山賃銭は計五八〇目としている。 なお北野典夫氏によれば、山小屋と麓の村との連絡は、旗を振って行ったことが多く、赤い旗が振られたら食糧が不足している合図で、それをみた麓の村では疱瘡わずらい済みの者が米俵やカライモを背負って山小屋に届けることにしていた。白い旗が振られたら、死者がでた合図、麓の村では、みんな山小屋に向かって合掌したと伝えられる(『大和心を人問わば』一九八九)。 他国養生の悲惨 高浜村では、終熄したかにみえた疱瘡が、またまた、四月四日から四月二五日にかけて、再度一七人の疱瘡病人が散発的に発生した。四月四日に見出された諏訪久平の娘は、今度山入りをしたらまたまた疱瘡が跡をひくかもしれないから。山入りでなく他国へ養生することになり、村から往来手形と銭七〇〇目が支給され、他国養生に向かわされた。以後の発生患者も他国養生となり、五月一三日の記録では、他国養生分として、合計で丁銭一〇四貫五〇〇文が村中から支給されたことがわかる。 他国養生の行方はどうなったか。五月一九日の役所への報告書には、未だ罷り帰り申さず候、それ以後村方に一人も病人が発生しないので、流行は終息したと判断された。他国養生の多くは、そのまま村外追放のかたちで、他国で息絶えたのだろう。ただ、この時に他国養生した元吉倅が、実際に治癒して帰宅した事例も一例知られている。全快すれば、帰村が許されてはいた。 文化一〇年(一八一三)正月末に、一五〇〇人ほどの大江組の崎津村で疱瘡が大流行して、港の対岸に約二〇〇人が小屋掛けして避難し、村境の梅木山へ逃げた者三〇〇人ほど、船に乗り込んで海に逃げ込んだ者五、六〇〇人という。しかし長引く避難により、食糧が不足して高浜村へ救援を求めてきた。 高浜村庄屋上田宜珍は、崎津村難渋百姓救援物資として、同村から米五俵、籾一五俵、味噌二挺、塩七俵、薪六〇〇〇斤、小屋掛け用の藁十束、苫一〇〇枚を船で送ったことを富岡役所に報告した。しかしこれだけは当然不足だったため、富岡付き山方役江間久兵衛が、米百俵を斡旋して船三艘で送った。 二月三日には、富岡浦に崎津村からの疱瘡船一一隻が入ってきた。富岡役所の役人らもこれには大慌てで、追い立てにかかった。疱瘡船からは、餓死寸前なので食糧さえ世話してくれたらすぐに出ていくからとの嘆願があり、哀れんだ町役人らは、大江組保証で一人一日四合ずつ、百人前三十日分二五味噌、塩などを富岡町から貸し与え。町内有志からも米二〇俵を集めて与え、沖へ追い払うようにして、富岡町への疱瘡の侵入を防いだ。翌々二月五日には、野母半島に避難していた崎津村の疱瘡船七艘が、食糧米を貸してほしいとやってきたので、同様の手続きをして追いやった。他国養生の疱瘡船は、やはり各所から迷惑がられて、厄介払いの対象だった。
20170801 小倉藩領の種痘 ◆有栖川宮記念公園にある東京都立中央図書館は、300万冊の蔵書を誇る大図書館。地方史関係の本もかなり充実している。しかも本を頼んでから早いときは5分もかからずに出納され、コピーも開架書庫のは原則自分でコピーできるので10円で安いし早い。国会図書館にしかない本・雑誌以外の調査はここでたいてい済ますことができる。 ◆小倉領の企救郡小森手永の大庄屋を勤めた友石承之助(大庄屋在勤中は小森承之助と称した)が書き綴った日記のうち、安政5年(1858)・6年・7年の3冊が、『小森承之助日記』第1巻として翻刻されており、現在、北九州市いのちのたび博物館で販売中。 ◆この本も都立中央図書館3階に並んでいたので、読み進めると、じつに面白い。種痘の関係でも、今回、次のような史料を見つけた。 安政五年(一八五八)一一月八日の藩からの来状があった。 一 役筋より来状ニ別紙の通勘合合被致、否明日昼迄ニ可被申出候、以上 一 植疱瘡種取として山本村辺の子供五、六人、来ル一一日朝五ツ半時限て職人町へ連行候方弁利冝候哉。又は牛の子弐匹内壱匹は男、壱匹は女連行候方下方便利冝哉、 何れの道ニても両様の内治定被致、否明日昼迄の内可被申出候 但、人の子連行種痘いたし村方へ連帰らせ置、追て医師、道原辺え罷越、牛の子ニ移し候由、最初より牛の子連行、職人町ニて牛の子え植付候得は、医師、道原迄不罷越相済候様存候、以上 ◆この来状によれば、来る十一日朝までに山本村(山がちの村)辺の子供五~六人か、または牡牝一頭ずつの仔牛を職人町まで連行せよとあり、人の子に植え付けた種痘もいったん児童に植え付けたあと、道原村(山がちの村と町の中間地の村)で牛の子へ植え付けるとあるので、当初から、種痘の種取り用牛を確保しようとするもくろみでの来状だった。 ◆承之助はその意図を察し、人ではなく、最初から牛を連れてくるようにと村々へ触れた。 ◆九日朝には、田代村から仔牛を連れてくる連絡がきたが、木下村では子牛が寒さわりで連れてこられないとの連絡があったので、三岳村へ牛の子牡牝二匹、または親牛一匹連れ参り候と連絡した。 ◆一一日になって田代村から女の仔牛一匹、三岳村から牡の仔牛一匹、計二匹を、職人町の吉雄医師のもとへ牛曳きらが引き連れて職人町へ連行し、接種させた。さらに一週間後にこの二頭を再び職人町の吉雄氏のもとに連行している。 ◆一週間後といえば、人間に接種してから一週間後に種を取って、他の子に接種するので、同様に、牛に植えて、牛痘の種を取ろうとする試みが、小倉藩領で行われていたのだった。 ◆その後、種痘牛のことは出てこないので、これはおそらく失敗したのだろうけれども、吉雄氏なる医師によって、仔牛に牛痘を植えて新たな牛痘の種を取得する試みが為されていたことは、今まであまり知られていないことであった。 ◆牛痘が入手できていないとき、人痘法による予防が普及していた。日本人医師のなかには、人痘を牛に植えて種を取る牛化人痘法を試みる医師が何人か知られる。今回の場合は、牛痘伝来後、牛痘の確保、保存のために、牛に牛痘を植えて、種を増やそうという試みで、日本人医師による医療技術の改良への取り組みの事例として評価できる。 20170625佐賀医人伝物語を再開します。今回は、諫早の医師犬尾文郁についてです。 犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 諫早領主侍医・内科医 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念 し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。 【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑 写真解説 ①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。 ②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。 ③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある ④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。 ⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。 2017年03月31日鹿島藩医秋永宗寿           鹿島藩三代藩主直朝侍医 秋永宗寿(鄰周)は、鹿島藩三代藩主鍋島直朝の主治医。当初は佐賀に在住していた。直朝の重大な症状のときには、佐賀から船に乗って、浜町の舟津に上陸して往診したという。直朝が宝永六年(一七〇九)に八八歳で亡くなる直前の宝永五年正月から三月までの鹿島藩日誌『花頂日記』には直朝の診療の様子が克明に記されている。宝永五年正月一六日には殿の小用が二〇回ほどで、立川正怡・秋永宗寿・古川意宣の三人が診療し、この日は益気湯に人参を一分五厘加え、正怡が薬を差し上げている。三月二日には殿の小用につき、秋永宗寿が薬を調合している。同年一〇月二三日には、(直朝が)朝、食後の行水のあと気絶されたので、(宗寿)が体をさすって脈をみたところ、腹が大分張っていたので、さすったところお吐きになられたなどの診療記録がある。 秋永家は、医家としては宗寿(鄰周)が五代目で、以後代々鹿島家侍医として六代律磬―七代鄰中(通淳)―八代鄰豊(玄説、木下玄仙忠之の子)―九代鄰次(宗英、宗寿、通淳)―一〇代鄰弼(宗寿、玄説)―一一代鄰休(交鄰、曽英、鄰爾)―一二代徳鄰(育太郎)と続いた。九代鄰次の弟吉太郎は、下河辺順益の養子と下河辺俊意である。一一代目の鄰(りん)爾(じ)は、『医業免札姓名簿』には、安政三年(一八五六)に、故福地道林門人、熊次郎殿家来、内科、秋永曽英、三一歳とある。熊次郎殿は一三代鹿島藩主鍋島直彬で、明治一二年(一八七九)、鍋島直彬が沖縄県知事就任すると随行し、のち鹿島の浜町仲町で開業。東京帝国大学医学部を卒業した長男皆太郎が明治二七年、二八歳で病死したため、医を廃業した。【参考】『花頂日記』(鹿島市祐徳稲荷神社蔵)、『鹿島藤津医会史』(一九八

2017年03月18日なぜ皆川淇園には医者の門人が多かったか

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◆昨日、facebookに、京都の儒者皆川淇園の門人になぜ医者が多いのか、それは現代におけるカルテの書き方を教えていたからだ、と記したら、廣川和花さんからそれは重要な要素です、詳しく教えてくださいというコメントがあったので、ちょっと専門的になりますが、良い論文を紹介します。◆それは、私の科研費報告書『西南諸藩医学教育の研究』(正式名は、平成24~26年度科学研究費補助金「佐賀藩・中津藩・長州藩を軸とする西南諸藩の医学教育の研究」2015.3、A5版、352頁、非売品)に掲載された、三木恵里子「医学初学者の遊学環境」(同書、135~143頁)に載っている論文です。◆この報告書は352頁もの大部な報告書ですが、市販化されていませんのと残部がほとんどないので、一般には入手困難です。いつか本の形で市販化して紹介したいよい報告書だと思うのですが、とりあえず、今回は、少し長いですが、三木論文の内容をできるだけ本文引用のかたちで、紹介します。◆三木さんは、「近世の学習形態の一つに、地方から三都・長崎などへの遊学がある。家庭や地元での学びを経て、最終的に文化の中心地で学問を修める、ということが一種の学歴となっていた。医学を修める者も、多く遊学をした。たとえば、伊勢松坂の商家の生まれだった本居宣長は、医者になろうと京都に遊学した。堀景山のもとで漢籍を学んだのちに、堀元厚に入門して医書を習った 。京都は宣長にとってあこがれの地であり、日記を見ると宣長は京都での生活を大いに享受したようだ。」と述べ、「『平安人物志』に載る学者に、皆川淇園という人物がいる。淇園の門人帖には、山脇東洋の子弟や小石元俊、賀川玄悦などの『平安人物志』に記載される医者とその紹介で入った門人の名前が多く見られる。医者が、門人に淇園を紹介し、儒学を学ばせたのはなぜか。どのような人が紹介されたのか。」という疑問から、研究をすすめ、山脇家門人と皆川淇園の共通の門人は少ないという従来の学説を否定し、むしろ山脇家子弟と関係者からの紹介が多いことを指摘して、その理由なると淇園の二つの著書を紹介しました。◆そのひとつが、『医案類語』十二巻、医学・薬学の用語を意味ごとに分類した辞典である。「集められた医学用語にわかりやすく和語で解説をつけている。たとえば腹痛の項であれば、「腹中絞絞トシテ迷悶極マリ無シ」「臍築湫シテ痛ム」など、腹痛の様子を表現する文例が12並ぶ。そして、「築湫」の左横には「オシツツムヨウニ」と漢語の意味が書かれており、「臍築湫シテ痛ム」とは「臍をおしつつむように痛む」という意味だとわかる。「傷寒」と割注があるので、『傷寒論』が出典であることもわかる。」「「補」「潤」「血」などの語も、書式と送り仮名・ふり仮名をつけた形の用例によって示されており、空白部分に字や語をあてはめれば漢文が完成するフォーマットが用意されている。医学を学ぶ者が、医書に出てくる難解な語や臨床で実際に使うであろう文を習得するのには最適な書であるといえよう。」とあり、医者が現代でいう医学用語の意味を、空欄穴埋め式のフォーマット的に紹介していたことがわかります。◆「ふたつめは、『習文録』である。」「淇園が塾で教えていた漢文作文教育を再現したものが、『習文録』である。『習文録』も『医案類語』と同じく初版が安永3年であるので、山脇家との共通門人が学んでいた内容だと言ってよい。」「『習文録』は淇園の塾で漢文作文習得のために行われていた「射復文」という方法をそのまま再現したものであった。淇園の門人である葛西欽は『習文録』題言に、「塾課ニ近コロマタ射復文ト云モノヲ作ス、其事甚タ文ヲ習フニ便ナルヲ以テ、諸生競テコレヲ為ス」と書いている。」と、三木さんは、『医案類語』で医学用語の意味を書式化して、医学生に学ばせ、『習文禄』で医学論文作成のための文章作成方法を教授していたと分析しています。◆だからこそ、皆川淇園の塾には、医者の子弟があつまり、門弟3000人(実際は『有斐斎受業門人帳』で確認できるのは1313人である)といわれた人気儒者になれたのでしょう。

楢林鎮山跡地

2017年02月17日 楢林宗建子への種痘接種日

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◆(2017.01.31) 『佐賀医人伝』の補充撮影で、大同印刷の稲富さんと一緒に長崎へ。長崎県庁の敷地内に入るとすぐ入口右手側にあるのが、イエズス会本部・奉行所西役所・海軍伝習所跡の記念碑である。◆報效会所蔵の『長崎海軍伝習所絵図で』いえば、広い大きな石段をあがったところの門のあたりが、ちょうど現在の長崎県庁の入口にあたる。◆県庁内敷地を裏手のほうに歩いて降りたところが楢林鎮山屋敷跡で、標柱がたっており、案内板もある。◆中島川をはさんで向かいが出島。やはりオランダ通詞としての役割を果たすために、その屋敷は出島のすぐ近くにあった。鎮山は、西洋医学へ深い関心をもち、『紅夷外科宗伝』という外科書を著し、紅毛流外科医としての楢林医家を興した。◆その子孫らが代々佐賀藩医となり、佐賀藩へ紅毛流外科を伝えるとともに、牛痘導入に成功した楢林宗建も出た。◆嘉永2年6月26日、出島において、宗建子建三郎と他の通詞の子へ牛痘を接種し、その1週間後の7月3日に宗建子建三郎のみが発疹ができ、種痘に成功した。その発疹から、他の通詞の子に接種すると、1週間後の7月10日に二人とも見事に発疹し、人から人へ伝える牛痘種痘が成功した。◆こうして成功したモーニッケ苗は、江戸町の通詞会所(現在の県庁敷地付近)で、モーニッケらがやってきて、通詞の子やら長崎町民らへの接種が始まった。◆以後の経過は、当時長崎に在住していた蘭方医柴田方庵の『日録』に詳しい。◆「江戸町(7月)十一日、大風雨 町内大塚、名村貞五郎口達之為、夜五ツ頃来ル、来ル十六日江戸町通詞会所ニ而蘭人牛痘種候ニ付、拙者(柴田方庵)ニ同所ニ参リ候様申来ル (7月16日は方庵が病気明けだったためと通詞会所の準備不足かで記載なし) (7月)廿一日 晴 「牛痘種方阿蘭陀□伝授之義御聞済ニ相成」(この書状からようやく種痘伝授が許可されたことがわかる。つまり今までは非公式の種痘伝授であったことがわかる) 朝五ツ半頃阿蘭陀通事年番両名書状来ル 以手紙貴意、然者牛痘ヲ以種痘いたし候儀、御伝授申度旨外科阿蘭陀人申出候ニ付、其段相伺候処、昨廿御聞済ニ相成候間、来ル廿四日江戸町阿蘭陀通詞会所江御出有之候様仕度、此段御掛合為可得貴意如此ニ御座候、以上 七月廿一日  植村作七郎 名村貞五郎 柴田方庵様」
◆江戸町の通詞会所の的確な位置は不明だが、現在の県庁付近であることは疑いなく、この場所が、わが国の最初の種痘伝播地となったのである

鐘ヶ江晴朝

2016年12月23日

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青山霊園と佐賀藩4 鐘ヶ江晴朝 ◆青山霊園へでかけたのは、鐘ヶ江晴朝のお墓を見たかったこともある。鐘ヶ江晴朝といっても知らない人がほとんどだろう。じつは、日本で最初に海水浴場を開いた佐賀出身の医師なのである。鐘ヶ江晴朝についての研究は、末岡暁美さんが長年研究されていて、そのブログ、たとえばhttp://sueoka-saga.jp/hagakure/76harutomo.htmlなどに、蘭方医と海水浴、あるいは鐘ヶ江晴朝について詳しい話が載っているので、ご覧いただきたい。 ◆従来、我が国最初の海水浴場は、明治18年(1885)に軍医統監松本順(良順)が大磯を海水浴の適地として紹介したので、ここが最初の海水浴場とされてきて、いまなお、大磯海岸には、日本の海水浴場発祥の地の碑や、松本順先生謝恩の碑まで建っている。 ◆じつは、早さでいえば、倉敷市の沙美海水浴場が、明治13年(1880)に海水浴場を開いている。坂田待園(1835 - 1890)という医師が、健康向上の手段として海水浴に注目し、それを受けて当時の村長(吉田親之)が海水浴場を開いた。これが大磯海岸より早い。 ◆いやいや、もっと早い時期に海水浴場をつくったのが佐賀藩出身医師鐘ヶ江晴朝だった。 東京都公文書館の文書に、鐘ヶ江晴朝が申請した明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」があり、翌明治11年9月15日に、芝浦海水浴場が開場している。晴朝は、その後もリウマチ治療などに海水浴を利用したり、この運営にもあたっていた。 ◆というわけで、鐘ヶ江晴朝のお墓を探していたのだが、今回は時間がなくて見つけられなかったので、また次回行ったときに探してみたい。鐘ヶ江晴朝については、『佐賀医人伝』にも末岡さんが研究成果を発表してくれるので、お楽しみに。 ◆写真は大磯海岸にある日本最初の海水浴場の碑、次が大磯海岸にある松本順謝恩碑、岡山の海水浴場を提案した医師坂田待園。佐賀の『医業免札姓名簿』にみる鐘ヶ江晴朝。  
2015.10.01 ◆川村肇さんのFBからシェアしました。江戸時代の庶民教育機関を寺子屋といいます。この名の由来は、村の知識人である寺の和尚さんから庶民が手習いを教わった寺子という意味からこの名がついたといわれるからです。たしかに信州では、手習いに出ることを登山というのは、そのなごりといえます。◆木村政伸さんの問題提起は、寺子屋の呼称について、「日本教育史資料」では「私塾・寺子屋」という項目の立て方があるが、入江宏氏が、実態から寺子屋にかわる用語として手習塾、私塾にかわる用語として学問塾とよぶことを提唱した、さらに別の適切な呼称があるかもしれないというのが、この文章の趣旨です。たしかに入江氏は、たとえば『栃木県教育史』などで手習塾の用語を使っています。◆ただし、木村さんが「日本教育史資料』において「私塾・寺子屋」とあるように述べているのはやや違っていて、この段階では「私塾・寺小屋」という分類でしたので、現在は、寺子の学習の場ということで寺子屋と呼び、寺小屋は誤りとされています。◆木村さんは、九州の筑紫女学園大学時代に、寺子のことを筆子とよぶのが九州の実態にふさわしいと主張(『近世地域教育史の研究』 思文閣出版、2006年)し、筆子塚の地道な研究をされていました。◆国立歴史民俗博物館の高橋敏さんの共同研究「非文献資料の基礎的研究(筆子塚の共同研究)」において、私も木村さんとご一緒に研究をしたことがあります。その後、しばらく会わないまま、音信も絶えていましたが、『鴨東通信』で思いがけず再会できてうれしいかぎりです。◆読書の秋です。久しぶりの書籍での研究者仲間との再会に、まさに「ひとり灯火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」(『徒然草』第13段)の境地で、見えない友とも共感できるのが読書の醍醐味と実感しました。

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