華岡流門人、外科医井上友庵

井上友庵のこと
佐賀藩で文政7年(1824)閏8月5日に、華岡流麻酔による外科手術をおこなった医師がいました。名前を井上友庵といいます。蓮池藩医師で、華岡青洲門人でした。 
 井上友庵の外科手術の様子は、草場珮川(天明8~慶応3、1788~1867)の日記(『草場珮川日記』)に記されています。草場珮川は、佐賀藩家臣多久領の儒者で、のち佐賀藩弘道館教授になりました。佐賀藩儒者古賀精里に学び、文化8年(1811)には、幕府儒者となった古賀精里に随伴して、対馬に赴き、最後の朝鮮通信使との対話をしています。漢詩にすぐれ、頼山陽、篠崎小竹らとの交友もあります。著書は『津島日記』(文化8)、『珮川詩鈔』(嘉永6)などがあります。
 『草場珮川日記』は、2冊あり、上が文化元年(1804)~文政5年(1822)、下が安政4(1857)までの日記です。その文政7年の記事にそれがあります。
「(文政七年(1824)五月十七日)
 為姱叔 訪井上友菴、謀其医瘤事、時友菴有疾」
妻の実家の西家五男在三郎姱叔(かしゅく)の頭部に瘤ができたので、華岡門人として知られていた蓮池藩医井上友菴(友庵)を訪ねて、診察を乞うたのでした。しかし、そのとき友庵も病気でした。そこで日を改めて、手術を御願いすることにしました。三ヶ月半ほどして、その機会がやってきました。珮川は、次のように記しています。
文政七年閏八月五日
 姱叔為医瘤、相随到我舎
姱叔が、医瘤の手術のため、珮川の家にやってきました。

 閏八月九日
 姱叔在江原平治兵家、請井上友菴治瘤、友菴先遣弟徒、与麻沸湯、及  
 夜、友菴至時、眄(べん、両目がふさがる)眩已甚、瞳子散乱、摘肌不 
 覚、乃剖而療之。
 姱叔は、手術のため、江原平治兵家へ移ります。井上友庵に治瘤を依頼したので、友庵はまず、弟子を派遣して、姱叔に麻沸湯を与えました。麻沸湯は、華岡青洲が考案した全身麻酔薬です。粉薬を通仙散と言います。
 夜になって、友庵が到着した時、姱叔の両目はふさがり、眸を開いてみると瞳孔が散乱していました。友庵が姱叔の肌をつまんでも、痛みを感じていません。それを確認した友庵は、姱叔の頭部の瘤を剖き(さき)除去しました。珮川は、その一部始終を上記のように記しています。短い記述ですが、友庵の麻酔外科手術の様子を、的確に記しています。翌日になりました。

十日
 使姱叔弟季侖(泰助、後沢井)、走告安二親、
 姱叔至未牌(みはい、未の刻、午後二時から四時)、薬気始醒、瞻語(せ んご、うわごと)乃止、問其痛否、答曰、曽不知医之来、豈覚其痛楚(つうそ、痛み苦しみ)邪

 姱叔の弟の季侖(泰助、後沢井)が、手術が成功したようだと走って親に告げに行きました。姱叔とはいえば、未の刻(午後二時から四時)になって、薬が醒め初めて、うわごとをやめました。痛かったかと聞くと、かって医者が来たことも知らない、痛みもまったく感じなかったと答えました。

 十二日
又共往謝友菴

12日になって、もう手術が成功したことを確認した珮川は、友庵のもとに出かけて、有り難うございましたと、謝しています。この手術記事は、以上で終わりますが、この姱叔22歳のときの手術は、見事成功して、その1年後、姱叔は江戸昌平黌に学びにでかけます。やがて漢学者として著名になった西在三郎がその人です。在三郎は、江戸で活躍し、帰郷後、諫早からの帰途雪の深い多良岳で遭難してなくなりました。安政4年2月4日、55歳のときでした。手術後、約30年生きていました。不慮の死がなければもっと生きていたでしょう。
 友庵の佐賀での麻酔による外科手術記事は、現在までのところ、この草場珮川日記にみえるだけです。史料がでてくるとよいと思います。在三郎の瘤の麻酔による除去手術を一回で成功させた友庵の力量は、かなり高かったとみられます。しかし、友庵がほとんど有名にならなかった理由は、珮川が最初に訪れた時にも病気であったことから推察できるように、友庵は病気がちで、この手術の5年後、39歳でなくなったからとみられます。が、もっと世に知られてよい人物と思います。

井上友庵の医療器具(その1)
◆『蓮池藩日誌』文化15年正月18日記事に、文化14年10月に出された井上友庵から藩への医療器具購入のための資金25両拝借願が記録されています。解読した原文は下に解読して貼り付けておきますが、大意は以下のようです。

 私、井上友庵は去去年(文化12年)に名医である華岡青洲先生のもとへ医学稽古に出させていただきましたが、数箇条の相伝をうけるためにも、京都へ修業に行きなさいと先生に言われ、去年から京都でも学んでおります。相伝をうけて帰郷するにあたり、華岡流医療器具を購入しないと、郷里で御奉公も叶いません。(京都三条通りの安信に)見積もりをとりましたところ、高額でした。ただ、入門時にあまりにも多額の雑費がかかり、また京都でも諸費用がかかったため、このままでは購入がかないません。そのため25両を拝借いたしたくよろしくお願いします。返納は帰郷後3カ年、もしくは俸給のなかから引いていただいてもかまいません、文化14年10月、井上友庵、森川八郎右衛門様というものでした。

◆以下、京都三条通りの安信なる鍛冶師からの見積もりがありますが、結構多くの商品と値段がでており、長文となりますので、解読は次回にします。
◆名医といわれる外科の多くは、現在でも独自に工夫した外科道具を用意しています。華岡青洲もまた、自分の手にあった独自の外科道具を用意して、京都寺町の鍛冶師真龍軒安則に特注しています。もしかすると、三条通りの安信と同一の鍛冶師かもしれません。                         ◆華岡青洲の門人に本間玄調がいます。その著『瘍科秘録』六巻之上に、青洲のメスと玄調のメスの違いがカラー図説で載っています(写真)。青洲のメスのほうが直刀風で、本間玄調は手が大きかったでしょうか。青洲より大ぶりです。

 奉願口上覚
私儀外療未熟ニ御座候處より
紀州華岡随賢名医之趣、及
承候ニ付、暫年之間、随身稽古
仕度ニ付、御暇奉願候處、願通
被 仰付難有奉存候、依之
去々秋より罷越打部稽古出精
仕候処、大ニ心ヲ副、取立被呉、数
ケ条之相伝等、可有之処、文盲
ニ有之候而者、右相伝仕候而茂
其詮無之ニ付、医学修業仕
候様右師家より被申聞候故、去
秋より京都之方江茂罷出、双方
懸ケ候而、医学稽古仕居
申候、然処㝡前罷登候砌者
諸事稽古中、御助成ニ
不相成、勿論当御時節柄
過分之御当介被為拝領候故
右を以万事相整候心得ニ御座候
処、花岡家入門之砌、諸雑用
多有之、先生初同門中江茂
身祝之手数等有之、過分ニ入用
銀相増、扨又京都江茂数ケ所江
入門仕、是又雑費多有之存外之
金子入越、甚当惑仕、其上花岡
流之外療稽古仕候ニ付而者、右
流之療治道具所持不仕候而者
療治方可仕様無御座、右品々
相調候得者、過分銀高ニ而、別判
書付之通御座候、一躰者右ニ而
金不相揃候ニ而者、無御座右丈位
成共、無之而者罷下リ候而も、何之
御奉公茂出来不申候、当時御物入
多被為 在候得共、正金弐拾五両御
取替被差出被下度奉願候、然時ハ
御蔭を以、右療治道具相整
且又諸相伝等仕誠以難有
仕合奉存候、返納之義者、罷下
候而、両三年ニ御返納被 仰付
於被下者聊茂無間違御返上申
上義ニ御座候、自然相滞候節者
拝領米より御引当御返納可被成下、願
之通、被仰付被下候様、深重奉
願候、此旨、御国元江御取扱被仰届
被下候様御願仕義ニ御座候、猶委細
之義者口達仕候 己上
 丑十月      井上友庵
 森川八郎右衛門様  (『蓮池藩日誌』文化15年正月)

井上友庵の医療道具(2)
井上友庵が蓮池藩に提出した外科道具の見積書は以下の通りです。
驚くほどたくさんの道具が必要だったのです。友庵は25両の借用を願ったのですが、20両しか貸してもらえませんでした。が、なんとか工面してのこれら道具を購入したのでしょう。これらについて、次回からわかる範囲でどのような器具であったのか、紹介することにします。

外療道具直段附
針類之分
一 三積針    壱本
    代三匁五分
一 同直鍮管
    代弐匁
一 金瘡針  尤取合 拾本
    代拾五匁
一 癰切針  尤大形 壱本
    代拾五匁
一 同    尤小形 壱本
    代拾匁
一 ランセッタ 尤大形 壱枚 
代拾匁
一 同 尤中形 壱枚
    代八匁五分
一 同     尤小形 壱枚
    代七匁五分
一 匕針        壱本
    代三匁五分
一 三角針    壱本
   代弐匁五分
一 口中三ツ道具
   代拾匁五分
一 口中焼金   壱本
代四匁五分
一 焼金  但品々取合 六本
   代三拾七匁
一 口中吹筒  尤真鍮 壱本
   代四匁五分
一 口中剃刀      壱挺
   代弐拾五匁
 尤真鍮
一 曲頭管      壱本
   代弐匁五分
一 眼療七ツ道具
   代三拾弐匁

  鋏類之分
但シ八寸
一 大関切鋏  壱挺
   代四拾八匁
一 同七寸   壱挺
   代参拾匁
一 同六寸   壱挺
   代弐拾匁
一 長刀鋏   壱挺
   代弐拾五匁
一 ソリ鋏   壱挺
   代弐拾五匁
一 関切鋏   壱挺
代拾匁五分
一 同四寸   壱挺
   代九匁五分
一 匕三切鋏  壱挺
   代九匁五分
一 小ソリ鋏  壱挺
   代拾弐匁
但大形
一 小手鋏   壱挺
   代九匁五分
一 先細形   壱挺
   代九匁五分
一 六指鋏   壱挺
   代壱拾八匁
一 大毛引   壱挺
   代拾八匁
一 小手毛引  壱挺
   代拾五匁
一 直毛引   壱挺
   代拾三匁
一 糸毛引   壱挺
   代拾弐匁
但無双
一舌押     壱挺
   代弐拾五匁
一 ヒストロス 壱本
   代七匁五分
(メか)
一 コロンヒス 壱本
    代六匁五分
但くじら
一 サクリ   弐本
   代三匁五分
但銀細工男形
一 カテイトル 壱本
   代五拾匁
但シ銀
一 同女ノ形  壱本
  代八匁五分
但真鍮
一 スポイト  壱挺
代拾弐匁
右同
一 同小  壱挺
   代拾八匁
一 ケット   壱挺
   代三拾弐匁
一 八貫形  壱挺
   代拾六匁
一 クイ貫   壱挺
   代弐拾匁
一 センケツ刀 壱本
   代弐拾匁    
一 リョウシ刀   壱本
   代弐拾匁
一 曲生      
代六匁五分
一 ホネ引ノコ切 壱挺
   代拾五匁
一 同       壱挺
   代拾匁
一 ホネヌキ   壱本
   代七匁五分
一 ウミカキ   壱本
   代四匁五分
一 ウミカキ
   代四匁五分
大形柳
一 鉄へら   壱本
  代拾匁
一 口柄入   壱本
  代七匁五分
大柄入
一 鉄へら   壱本
 代拾匁五分
大中小
一 同常形   三本
   代拾匁五分
一 ハチモン  壱挺
   代四拾五匁
但シ赤金
一 ランビキ  壱組
   代六拾五匁
一 膏薬鍋   壱芍
  代五拾匁
一 療治台   壱組
   代七拾五匁
〆銀高壱貫七拾八匁五分
   差引
残正銀五百四拾六匁五分
 代金八両壱分ト九匁四分六厘壱毛
   右之通ニ御座候 已上
              京都三条通    安信
  九月拾五日
 井上友庵 様

 

新刊紹介『岡山の在村医中島家の歴史』

◆『備前岡山の在村医中島家の歴史』(中島医家資料館・中島文書研究会編・思文閣出版、2015年11月21日、10000+税別、301頁)が出た。◆御当主の中島洋一氏の著した「中島家の歴史」のほか、松村紀明「地域医療研究の端緒としての中島家文文書」、木下浩「中島友玄と岡山県邑久郡における江戸末期から明治初期の種痘」、梶谷真司「事業者としての友玄ー製薬業からみた中島家の家業経営」、町泉寿郎「中島宗仙・友玄と一九世紀日本の漢蘭折衷医学」、清水信子「『胎産新書』諸本について」、鈴木則子「『回生鈎胞代臆』からみた中島友玄の産科医療」、平崎真右「地域社会における宗教者たち」、黒澤学「中島乴と明治期岡山の美笑流」などの論考と、史料解説、蔵書目録、中島家年表などからなる岡山邑久郡の在村医中島家の歴史を総合的に調査した研究報告書である。◆同家は300年前の大工職中島多四郎の子友三が一代限りの俗医(在村医)として医家となり、友三の子玄古の時代に専業医となった。18世紀後半、玄古の子宗仙の代には、京都で吉益南涯に古方を、長崎で西洋医学を学ぶようになった。宗仙の子友玄は、京都にでて、吉益北州に古方を、小石元瑞に漢蘭折衷などを学び、幕末期には、内科・外科医の医業のほかに、鍼灸治療や売薬業でも手広く営業し、明治5年には種痘医としても活動した。◆まさに、庶民が医師と医薬による医療を望むようになった時期から在村医が創出されるようなるのだが、中島医家もまたその流れに沿っていた。西洋医学が浸透しはじめると在村の漢方医らも蘭方を取り入れるようになるのだが、中島家もまた漢蘭折衷医としての医療活動を展開するようになる。中島家の歴史から、江戸時代医学史が見えてくる。同家には大量の医薬書のほか、診療記録、配剤記録、医療器具も残されている。◆在村医としての中島家の活動が、医薬書や配剤記録などとともに研究がさらに進展することで、江戸時代の在村蘭学の潮流と地域医療の近代化、庶民の知的水準の高まり・文化的傾向もまた明らかになることになる。多くの人々の目に触れてほしい本であり、医学史・文化史研究に寄与することの多い本である。

種痘医野口良陽

 

2015年10月06日

 洋学 at 14:46  | Comments(0)
第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。
  種痘戯作
疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり
散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな
勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると
腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。
(『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。
才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く
青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時
浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する
人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。
(探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』
 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。
 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。
こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。
まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、
(割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人
 内科 野口良陽 三十六才
82番目には
  (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人
         内科 犬尾文郁 五拾才
とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。
この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した)

 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事
     故牧春堂門人
内科   益千代殿家来
       犬尾文郁
         五拾歳
医道開業被差免候也
 嘉永六年丑八月
     医学寮
     益千代殿家来
     故野口長胤門人
内科   野口良陽
        三十八才
書面右同断
     在佐賀
内科 野口宗仁
針治 嶋田春栄
右両人は、先月廿日御免札
相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之  

この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。
 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。
 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

金平糖と肥前・信州

◆金平糖というお菓子がある。子どもの頃、駄菓子屋さんで買っていくつものとんがりから口のなかに広がる甘さがなんともいえないおいしさだった。◆ポルトガル語でコンフェイト (confeito) に由来し、戦国時代に宣教師らが伝えた南蛮菓子という。永禄12年(1569)に、宣教師ルイス・フロイスが京都の二条城において、信長に謁見したとき、ろうそくなどともに献上されたのが文献上の初見らしい。◆フロイスは、confeitoをよく献上物に使った。たとえば『フロイスの日本史覚書』(中公新書)に「われらにおいては、柄杓一杯の水を飲むのに一匙の砂糖菓子(コンフェイト)をまたは一切れの砂糖漬けが与えられる。日本では、盃をとるためには砂糖菓子1個、またはそれと同じくらいの大きさのものを与えれば事足りる」(同書、141頁)とある。この場合の砂糖菓子は金平糖のことだろうから、1個でも喜んでもらえた相当貴重でなおかつ珍重されたことがうかがえる。◆江戸時代にはいってもこの菓子は献上物として珍重された。江戸時代初期、慶長14年(1609)、佐賀藩坊所鍋島文書に、「金平糖一斤(600グラム)」の記録があり(江後迪子『長崎奉行のお献立 南蛮食べもの百科』吉川弘文館、2011年)、さらに、寛永14年(1637年)の長崎・平戸のオランダ商館長日記に拠れば、ポルトガル船により「各種金平糖3000斤(1800キロ)」が運ばれており、京都などに流通して献上品として用いられていたという(同前)。3000斤とはかなりの量であり、かなりの流通量になったのではないかと考えられる。◆さてこれからが本題で、金平糖が信州に伝わったは、江戸時代初期とみられる。それが史料的にわかるのが、先に紹介した佐久ホテルの篠澤家文書などである。
◆以前に、岩村田の佐久ホテルは歴史のあるホテルと書いた。じつは1428年(正長元年)の創業という。なんと600年以上も続く、旅館業はもちろん、長野県の産業界でも最も歴史のある老舗中の老舗。戦国時代には武田信玄も入ったという天然温泉もいまだにホテル内にある。江戸時代は中山道岩村田宿の本陣と割元(村でいう大庄屋クラス)を代々勤めて現在に続く家柄である。◆江戸前期の岩村田宿割元篠澤佐五右衛門が、慶安元年(1648)に小諸城主を接待したときの文書が写真である。文書の左に、慶安元年­十月十九日晩に信州佐久岩村田の篠澤佐五右衛門滋野重長と息子良重が信州小諸城主青山­因幡守宗俊公らに対し、料理を献上し、その場所は小諸町鈴木三四郎宅で、小諸藩家老田塩­吉兵衛も同席していたと書いてある。◆写真の真ん中以降に、御くわし(御菓子)として、一みつかん、一あまひ、一里(?)やうかん、こんへいとうという文字が見える。つまり、小諸城主を接待した本膳料理の水のもの(デザート)ととして、甘い御菓子を出したということ。◆今でも、料理のあとにはアイスとか甘い物をほしがる人が多いが、同じ気持ちだったのだろう。いや、今よりもっと甘い物は貴重だったから、甘い御菓子(砂糖菓子)をだすことは、最高のもてなしだった。◆みつかんは、もちろん酢ではなく、ミカンのことである。ただ旧暦10月19日のミカンとはどのようなものであったか。ミカン栽培のできない信州佐久で、この時期にミカンを入手できたのはなぜだろうか。またどのようなミカンだったのだろうか。早生ミカンだったのかよくわからない。ただし、現在の温州ミカンのことではなく、肥前八代を故郷とし、戦国期に紀州有田に移植された有田みかんが江戸時代のミカンであった。◆江戸時代後期になると、江戸の金持が、富士山の氷室で凍らせたミカンを江戸まで早飛脚で運ばせた事例はある(塚本学「江戸のみかんー明るい近世像」)が、江戸前期のミカンは、貴重であったことはまちがいない。◆あまひとはなにか。求肥(ぎゅうひ)のことで、白玉粉や餅米の粉に砂糖や水飴などを入れて練って蒸したもの。また餡を包むその皮のこと。現代的にいえば、雪見だいふくの皮の部分といえよう。求肥は、善光寺でも名物の一つで、今でも玉だれ杏などは、ようかんに杏を練り込み、求肥で巻き込んでいる。羊羹の甘さと杏の甘酸っぱさと求肥のもちもち感がマッチして美味しい土産品。◆やうかんはようかん。羊羹はもともとは羊のスープのにこごり。中国から鎌倉時代に我が国へ禅僧の世界へ伝えられたが、肉食を禁じられた僧侶たちが、小豆を煮て同様の味わいを出したのが始まりという。江戸時代になって琉球や奄美諸島などで黒砂糖が生産され、砂糖が流通するようになると、さらに寒天を使った練り羊羹も流通しはじめたようである。おそらく慶安元年のやうかんは、貴重な砂糖を使った練り羊羹だったとみられる。◆そして真打ちが、コンペイトウだった。1637年に金平糖が3000斤輸入され、1639年にポルトガル船の来航禁止となった。来航禁止の約10年後に、信州で金平糖の製造技術があったとは思えないので、これはおそらく、1637年に輸入された金平糖の1粒か数粒であったのだろう。フロイスも砂糖菓子(コンペイトウ)1粒で足りると書いている。最後の最後に、当時の砂糖菓子の真打ちをもってきたところに、篠澤佐五右衛門の最高のおもてなしの心があった。◆殿、これがポルトガル伝来のコンペイトウと申すものでございます。おお、そうか、これがうわさのこんぺいとうか、佐五右衛門よくぞ、手に入れてくれた。余は満足じゃ、ははあ、有り難きしあわせ、というような会話がなされたかもしれない。◆老舗中の老舗の佐久ホテルは、佐久平駅前のはやりのビジネスホテルに押されて、やや元気がない。歴史好きの人が軽井沢周辺に来たとき、武田信玄ゆかりの天然温泉に入り、豊臣秀吉の書状を読み、北斎の絵や一茶の句を鑑賞しながら、鯉料理に舌鼓をうつ、そんな旅もおすすめしたい。◆なお、この接待文書は現在佐久市望月町歴史資料館に保存されている。この文書からは、江戸前期の信州での最高の本膳料理が復元できるので、それについては機会があったら書いてみたい。◆また、鈴木先生からの、砂糖の普及によっての虫歯の広がりや歯科医療(江戸時代は口中科として独立)、白い歯の絵などの関連についても宿題としておきたい。肥前から信州への南蛮菓子の普及も、また意外とはやく広がっていたのであった

企画展 「米沢医家の系譜」

◆米沢の上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」展が9月19日から11月23日まで開催されています。図録は、米沢藩の医家堀内家文書やシーボルト門人伊東省迪資料の紹介のほか、海原亮(住友史料館)氏や織田毅(シーボルト記念館)氏らの寄稿もあります。◆堀内家第5代堀内素堂は江戸に出て蘭方医坪井信道に師事し、伊東玄朴らと一緒に診療活動を続けています。坪井信道が堀内忠寛(素堂)にあてた手紙には、信道の義父青地林宗の病気を忠寛が診療したあと、信道や伊東玄朴が診療したことを告げている(拙著『伊東玄朴』51頁)など、素堂と信道、玄朴は大変な協力関係にありました。素堂が、ドイツ人医師フーヘランドの小児科医書のオランダ語版を『幼々精義』(第1輯天保14年、第2輯弘化2年)として刊行しますが、この第1輯の序文は坪井信道、跋文は杉田立卿、第2輯の序文は箕作阮甫、跋文は伊東玄朴と錚々たる蘭学者が書いており、我が国最初の小児科医書となっています。◆写真の図録表紙は、明和元年(1764)の米沢藩での解剖記録が載っています。東北で最も早い時期の解剖記録です。写真の米沢藩医家水野家門人姓名録からは、米沢の医家たちの修学過程も見えます。藩医学校好生堂蔵書目録は図録に全文翻刻されており、米沢藩の医家らが蔵書を借用して勉強していた様子もうかがえます。◆米沢藩医学の西洋医学導入の過程と地域蘭学の展開過程が、歴史的に見える展示と図録になっており、近年にない充実した医学展示となっています。

 
青木 歳幸さんの写真
青木 歳幸さんの写真

横田冬彦編『読書と読者』

2015年06月09日

 洋学 at 09:13  | Comments(0) | 書評 | 文化史 | 地域史
◆横田冬彦編『読書と読者』(平凡社、2800円・税別、2015年5月25日刊)が出た。人はなぜ読書をするのか、「より多くの実りを求め、信心のよすがに、新しい交流のため、また家の維持や地域の安寧のため、命を救うため、暮らしをささえる知や経験のために、この国で、男や女やさまざまな業を営む人々が書籍に向かい読者となった時代、そのありようを多角的に描く」と帯にある。
◆編者がまえがきで述べているのは書籍の意味の問い直しと、書籍文化のゆくすえであるとする。「インターネットや電子出版の急速な普及により、紙媒体の書籍がなくなるのではないか、書籍の時代は終わりつつあるという危機感を多くの人たちがもつに至っている。こうした時代を生きている私たちは、書籍が時代のなかで担ってきた歴史的役割を明らかにして、人々にとって紙の本を読むことが大きな意義をもった書籍の時代とはなんだったか、あらためてふりかえってみる必要があろう」と、本書の編纂の意図を述べている。
◆だから、江戸時代を舞台に公家と蔵書、武家役人と狂歌サークル、村役人と編纂物、在村医の形成と書物、農書と農民、仏書と僧侶・信徒、近世後期女性の読書と蔵書について、地域イメージの定着と日用教養書、明治期家相見の活動と家相書など、僧侶、農民、公家・武士、寺子屋師匠、在村医、女性などが、書籍を必要としてきた理由を論文としてまとめている。
◆山中浩之「在村医の形成と読書」は、八尾田中家弥性圓の蔵書調査と意義の研究である。田中家が代々の蔵書の形成を通して医療知識を蓄積し、医療活動を営んできたこと、いわば書籍が医者を形成してきたことを明らかにしている。
◆戦前に、百姓の研究をしようとした中村吉治という東大学生がいた。平泉澄という皇国史観の学者に相談したところ、豚に歴史がないように百姓に歴史はないと一喝された(中村吉治「農民史探求と社会史」『歴史評論』410)。しかし、戦後の地方史研究の進展は、百姓にも歴史があり、じつは彼らの活動が社会を支えていたことを明らかにしてきた。
◆その研究の進展の源は、地域に残された古文書であった。当時、新進気鋭の地方史研究者、児玉幸多、所三男、宝月圭吾、中井信彦、和歌森太郎、佐々木潤之助氏らは、長野県大町市の清水家文書の調査を行い、『近世村落自治史料集』という戦後地方史研究のバイブル的な史料集を編纂した。
 なお、この清水家文書はある事情で散逸しそうになったので、私が長野県立歴史館勤務中に、竹内誠、塚本学、森安彦氏ら多くの方のご協力を得て、無事歴史館に保管され、現在は、清水家近世・近代文書約4万点が長野県宝となり、随時、公開展示されている。
◆しかし、その地方史研究の目録づくりにおいても、庶民の蔵書については、雑扱いされ、顧みられることが少なかった。そうした研究状況も1970年代の地方市史・県史編纂ブームもあり、変化が生まれた。その代表的な研究の一つが、木村礎氏らの大原幽学研究であり、医学史でいえば、同グループの故平野満「蔵書にみる知的状況―平山・宇井・林家の場合-」(『大原幽学とその周辺』八木書店、1981年)が在村医の蔵書に注目している。その後、たとえば小林文雄「近世後期における「蔵書の家」の社会的機能について」(『歴史』76号、1991)なども出て、蔵書も地方史研究の主対象となってきた。
◆近世初期城郭研究者だった編者横田冬彦氏は「近世村落における法と掟」(『文化学年報』5、1986年)あたりから、村落文化研究に注目し、河内屋可正日記との出会いが、その研究方向を決定づけたのではないか。また読書人からの蔵書という視点研究を確立したのが、鈴木俊幸氏の一連の研究で、それは『江戸の読書熱 自学する読者と書籍流通』(平凡社 2007 )として集成された。
◆さて、本書をゆっくり読もうと、読み始めたら第1章に次のような一文があった。横田冬彦氏の河内屋可正との出会いと通俗道徳の連続性についての記事のあとに「また、塚本学の地方文人、高橋敏の村落生活文化史、田崎哲郎の地方知識人といった先駆的研究に加えて、宮城(公子)論文ともあいまって、川村肇の在村儒学、青木歳幸の在村蘭学、杉仁の在村文化論など、全国各地の事例を発掘していくことになる」と書いてあった。  

新刊紹介 吉田伸之『地域史の方法と実践』

2015年06月27日

 洋学 at 00:29  | Comments(0) | 書評 | 地域史 | 日本史
◆吉田伸之氏の『地域史の方法と実践』(校倉書房、2015年6月30日、6000円・税別)をいただいた。恐縮である。吉田氏は江戸をフィールドとしての都市史研究の第一人者であるが、一方で、信州飯田の飯田市歴史研究所の所長をも勤めておられる。本書は、主に後者の立場から得た地域史研究の論考を集成したものである。
◆Ⅰ部が地域史の方法、Ⅱ部が地域史の実践という構成になっている。私はとくにⅠ部第二章地域把握の方法にみえる地域史研究への提言に共感した。ここでは、地域把握の方法として三つの視点を提起している。一つは前近代における地域を歴史的・限定的に捉えるという視点、第二は、地域を社会レベルにおける第一次的な総括・統合主体=ヘゲモニー主体によって形成される社会=空間構造との関連で捉えるという方法(視点)、第三にこうした地域を歴史的に、いわば地域の「発展」段階として把握し、n地域をその帰結あるいは到達点として位置づけるという視点である。
◆n地域というのは、板垣雄三氏によって唱えられた地域概念で、簡単にいえばn人にとってn人分の地域概念があるということと理解している。たとえば満州移民にとっての地域は出身地だけでなく満州であり、帰国してからの居住地といえるようにn人分の地域があるという概念といえよう。
◆しかし、吉田氏はこのn地域論は、一方で地域概念を融通無碍な不可知論に陥らせるとして、第三章において単位地域概念を提起している。吉田氏の提起する単位地域とは、小学校区程度の規模の自治区域とする。その単位地域を地域史研究の最小単位としてその歴史を追究することが地域史研究であるとしている。
◆第五章で岡田知弘氏報告「現代日本の地域再生を考える」(『部落問題研究』197輯、2011)に対するコメントで、岡田氏の地域概念は、「本源的には、社会的動物としての人間の生活領域」とするが、より歴史的に深く捉えるべきだと主張する。さらに近世史研究における地域社会論の立場から、小野将「新自由主義時代の日本近世史研究」(『歴史科学』200,2010)氏や松沢祐作『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009)による、吉田氏らの地域社会論批判についてもコメントしているが、ここでは省略する。
◆吉田氏は、飯田市歴史研究所、とくに近世から現代にかけての単一村であった清内路村の研究を通じて、単位地域論の有効性を確認されている。以下、第Ⅱ部での実践報告や、書評などからなっている。
◆本書は地域史研究書であるので、一般読者には読解に困難をともなうが、地域とはなにか、地域史研究は何をあきらかにする学問かなどを考えるうえで多くの提示があり、示唆に富む書である。

書評『種痘伝来』

2015年06月27日

 洋学 at 11:43  | Comments(0) | 書評
日本歴史』7月号が届いた。約1年以上前に書いた『種痘伝来』の書評がようやく掲載されているので、紹介する(一部書き加えてある)。

アン・ジャネッタ著、廣川和花/木曾明子訳『種痘伝来』
                           青木歳幸
 本書は、著者によれば「種痘を支持・支援するためのネットワークを構築した日本の医師と学者の献身的な活動と、その宿願達成の軌跡を跡づけたもの」(日本語版によせてⅴ頁)である。
序章では、中国人とオランダ商人が長崎で交易を行う排外政策(鎖国政策)をとっていた江戸時代の特質に触れ、ペリー来航以前のジェンナー牛痘法普及というさほど劇的ではない「開国」を蘭方医のネットワークを通して検証している。
 第一章「天然痘に立ち向かう」では、人痘の痘痂粉末を鼻孔に吹き入れる中国式人痘種痘法の中国への広がりと、腕に傷をつけて人痘漿を接種するトルコ式人痘種痘法のイギリスへの伝播、つまり1721年にイギリスで実施されたモンタギュー夫人の娘への実験成功などを検証している。また中国式人痘法由来の秋月藩緒方春朔の種痘活動を紹介している。
 第二章「ジェンナーの牛痘ワクチン」では、イギリスのジェンナーによる牛痘種痘法の公表と情報発信活動により、牛痘ワクチンが1798年から5年以内に世界各地へ広がった経過を伝えている。なかでもスペインから中南米、フィリピン、マカオ、広東へ伝えたパルミス医師や、東南アジアとくにバタヴイアへ伝えたラボルデ医師の普及活動が詳述され、興味深い。
 第三章「周縁を取り込む」では、ロシアから中川五郎治がもたらした牛痘書を、幕府天文方通詞馬場佐十郎が『遁花秘訣』(1820年脱稿)として翻訳するなどの活動を中心に叙述している。
 第四章「オランダとのつながりーバタヴィア、長崎、江戸」では、イギリス占領下のオランダ領東インド諸島でのラッフルズ卿による組織的な牛痘種痘普及活動が、同諸島に根付いたことを検証し、オランダ商館長ブロムホフが1820年から毎年痘苗導入を試みている新事実を明らかにした意義は大きい。シーボルトの牛痘接種の試みは失敗したが、シーボルト離日後、江戸での宇田川家の翻訳書刊行や各地のシーボルト流蘭方医らの水平的ネットワークの形成により、19世紀初頭の数十年間に、西洋医学・学術への内的障壁が取り除かれていく過程を描いている。
 第五章「ネットワークを構築するー蘭方医たち」では、牛痘を導入するために尽力した蘭方医として日野鼎哉、伊東玄朴、大槻俊斎、佐藤泰然、緒方洪庵、桑田立斎、笠原白翁ら七人の医家の医療活動を牛痘導入のネットワークの視点から紹介している。
 第六章「種痘医たち」では、1849年(嘉永2年)、長崎に来した牛痘ワクチンを佐賀、京都、江戸など日本各地へ伝播させるために、楢林宗建ら蘭方医たちが、それまでに築き上げていたネットワークを活用して、種痘技術を向上させ、啓蒙書を出して大衆を説き伏せて急速に伝播させたその努力と活動を追跡した。
 第七章「中央を取り込む」では、伊東玄朴ら日本の種痘医らが1858年にお玉が池種痘所を設立し、徳川幕府を取り込んでいったことが、東京大学医学部に至る日本における近代医学と大学制度整備に直接つながったことを描いた。
 以上が本書の概要であるが、村田路人・廣川和花氏が、本書の意義を巻末解説で次の四点にまとめている。その第一は日本の牛痘種痘史をグローバルな観点から世界の牛痘種痘史のなかに位置づけたこと、第二は、近世日本の医家ネットワークの重要性を再認識させたこと、第三は新たな史料を活用し、日本牛痘種痘史に新しい事実を付け加えたこと、第四は、近世日本の学術において「翻訳」の果たした役割を見直し、これを位置づけ直したことをあげており、これらはすでに的確な書評となっているので、本稿では医学史研究上の成果に絞って書評する。 
 本書の医学史研究上の最大の成果は、我が国への牛痘苗伝来日が、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)であり、楢林宗建の子建三郎ら三児への接種日がその三日後の8月14日(6月26日)であったと特定したことと考えている。
 じつは、我が国種痘伝来における重要なこの両日が本書刊行まで特定できていなかった。主な研究書をひもといても、富士川游『日本医学史』(1942年)には「翌嘉永二年七月入港ノ蘭船ニテ牛痘痂モーニッケノ許ニ達セリ、由リテ之ヲ三名ノ児ニ種痘セシニ、二児ハ感ゼザリシモ、一児ハ感受シテ善良ノ痘ヲ発セリ」とあり、嘉永2年7月の伝来とし、種痘実施日も不明であった。古賀十二郎『西洋医術伝来史』(1942年)・添川正夫『日本痘病史序説』(1987年)・深瀬泰旦『天然痘根絶史』(2002年)はいずれも嘉永2年6月伝来としたが、伝来日を特定していない。
 種痘実施日については、じつは諸研究書でも記述が少なく、渡辺庫輔『崎陽論攷』(1964年)が6月23日とし、深瀬泰旦『我が国はじめての牛痘種痘』(2006年)では、7月7日、17日、19日説と古賀十二郎の6月下旬説を紹介したが、特定にはいたっていない。
 この混乱の理由解明と検証は、本書評の紙数を超えるので、別稿を用意する予定だが、評者はオランダ商館日記や、長崎奉行所の記録、柴田方庵の『日録』などの調査により、著者の記述が正しいことを裏付けており、本書のこの記述を高く評価している。
 一方で、本書は、牛痘伝来後の日本各地への伝播の様相については、主に『洋学史事典』(1984年)、『天然痘ゼロへの道』(1983年)など約30年前の研究に依拠した面が多々あるため、その後進展した研究成果が反映されていない問題がある。
 たとえば、緒方春朔の人痘法は中国式鼻孔吹入法を改良した鼻孔吸入法であったことに触れていない(青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要、第7号、2013など参照)。また春朔式人痘法が「彼のいた藩以外にはほとんど影響を与えなかったようである」(26頁)とあるが、春朔の門人が江戸も含めて六九人余もおり(富田英壽『種痘の祖緒方春朔』西日本新聞社、2005)、大村藩医長与俊民ら三人が春朔に入門し、技術習得後、大村藩で春朔式人痘法を実施しているし、江戸の司馬江漢も「緒方氏ハ六百人をためしぬ」(『種痘伝法』)と記し、シーボルトや華岡青洲門人の本間棗軒も「(人痘種痘で)高名なるは肥前大村の吉岡英伯・長与(俊)春達、筑前秋月の緒方春朔、武州忍の河津隆碩、江戸近村木下川の庄屋次郎兵衛なり」(『種痘活人十人弁』)として春朔の高名を讃えているし、かの緒方洪庵ですら春朔式人痘法を実施(結果は失敗)しており(青木歳幸前掲論文、2013)、春朔式人痘法はかなりの影響を与えていた。
 また日本での人痘法には、春朔式鼻吸入人痘法だけでなく腕種人痘法がじつは蘭方医によってかなり広範に実施され、伊東玄朴も大槻磐渓娘や前宇和島藩主娘に実施し(青木歳幸『伊東玄朴』2014)、本間棗軒も、自家の子女のみならず近在の小児ら六〇〇人に(腕種)人痘種痘を行ったと述べている(『種痘活人十全弁』)。牛痘法普及の前提として人痘法の影響は大きいと考えられ、とくに腕種人痘法の普及が牛痘法普及に直接結びつくと考えているが、その実態解明は進んでいない。
 著者は、佐賀藩主鍋島直正が侍医大石良英を長崎に派遣し、良英が「楢林宗建の長男永吉を伴って佐賀に戻った」(150頁)としているが、じつは佐賀城下に牛痘と種痘児をもたらしたのは良英でなく、楢林宗建が長男でない種痘児を伴って8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日に藩医の子へ種痘を実施している(青木歳幸『伊東玄朴』2014)のであり、事実ではない。藩医の子に植えられた痘苗が約一週間ずつの接種→発痘→採取→接種のサイクルを二サイクル経て後に藩主の子に接種され、それが江戸にもたらされ、江戸のお玉が池種痘所につながったのである。
 国内での種痘伝播研究は、かようにまだ十分ではない。だからこそ、本書を手にした国内研究者と著者のようなすぐれた海外研究者との研究ネットワークによって、医学史研究の新たな進展が生まれよう。
[あおきとしゆき 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授]
[A5判、254ページ、4320円、岩波書店、2013・12刊]

新刊紹介「近世化」論と日本


◆『「近世化」論と日本』(勉誠出版、2015年6月25日、2800円)が出た。本書は、約10年前ころからの歴史学研究会において、近代化論があるのになぜ近世化論がないのか、東アジアの近世と日本の近世とはどうリンクするのか、しないのか等の議論と問題意識から、2012年の歴史学研究会部会合同シンポジウム「近世化論と日本ー東アジアの捉え方をめぐって」での発表がもとになっての論考集である。
◆編者清水光明氏によれば、「東アジア近世」論や「近世化」論とはなにかを把握するために、第Ⅰ部は「近世化」論における日本の位置づけを、小農社会、新興軍事政権、朱子学理念から考えるとし、第Ⅱ部は、「「東アジア」の捉え方」と題し、対外関係史や比較史研究によって捉え直し、第Ⅲ部は、「近世史研究から「近代」概念を問い直す」として史学史や時代区分、規範等の観点から「近代」概念を問い直そうとしているとした。
◆Ⅰ部には牧原成征「日本の「近世化」を考える、杉山清彦「二つの新興軍事政権ー大清帝国と徳川幕府」、岸本美緒「「近世化」論における中国の位置づけ」(コラム)、綱川歩美「十八世紀後半の社倉法と政治意識ー高鍋藩儒・千手廉斎の思想と行動」、清水光明「科挙と察挙ー「東アジア近世」における人材登用制度の模索」、朴薫「東アジア政治史における幕末維新政治史と”’士大夫的政治文化’の挑戦」、道家真平「「明治百年祭」と「近代化論」」(コラム)などを掲載している。
◆Ⅱ部には、清水有子「織田信長の対南蛮交渉と世界観の転換」、木崎孝嘉「ヨーロッパの東アジア認識ー修道会報告の出版背景」、吉村雅美「イギリス商人のみた日本のカトリック勢力ーリチャード・コックスの日記から」、根占献一「ヨーロッパ史からみたキリシタン史ールネッサンスとの関連のもとに」(コラム)、屋良健一郎「近世琉球の日本文化受容」、井上智勝「近世日越国家祭祀比較考ー中華帝国の東縁から南縁から「近世化」を考える。藍弘岳「「古文辞学」と東アジアー荻生徂徠の清朝中国と朝鮮に対する認識をめぐって」(コラム)、岡崎礼奈「「アジア学」資料の宝庫、東洋文庫九十年の歩み」(博物館紹介)などから、東アジアと日本を捉え直している。
◆第Ⅲ部には、宮嶋博史「儒教的近代と日本史研究」、三ツ松誠「「近世化」論から見た尾藤正英ー「封建制」概念の克服から二時代区分論へ」、中野弘喜「歴史叙述から見た東アジア近世・近代」(コラム)、古谷創「清末知識人の歴史観と公羊学ー康有為と蘇輿を中心に」、佐々木紳「オスマン帝国の歴史と近世」(コラム)、高津秀之「ヨーロッパ近世都市における「個人」の発展」、三谷博「東アジア国際秩序の劇変ー「日本の世紀」から「中国の世紀」へ」(コラム)が掲載され、東アジアの近世・近代をさまざまに論じている。
◆再び編者の解説にもどると、「近世化」論は従来の古代・中世・近世・近代の4段階区分論にのって、そのなかでいつから近世が始まったのかという議論から開始され、東アジアのなかでどのような位置づけにあるかという比較史的検討が開始され、「近世化」の指標や時期設定についての研究が開始されたのであるとし、さまざまな角度からの指標や説明モデルの提示によって、議論や相互批判を活性化することになるのだろうということで、本書ではそれぞれの近世化とはなにか、東アジアにおける日本の近世の意味とは何かの論が出され、統一的な見解は出されていない。
◆このように多様な論者によって様々な角度から、日本「近世化」論が語られている。編者によれば、どこか気がついたところから読んでいただければという。佐賀大学地域学歴史文化研究センター講師の三ツ松氏による尾藤正英氏と宮嶋博史氏の論は表裏一体であるという指摘が印象的であった。本書は21人もの多様な分野の執筆からなり、それぞれの「近世化」論や東アジアの近世論が語られていて、統一的見解がないので、百家争鳴の迷路にはいったような気持ちにもなり、ハードであるが、本書全体を時間があるときにじっくり読んでみたい。
◆補筆をしておくと、医学史の分野では、真柳誠(茨城大学)・肖永志(中国中医科学院)両氏による「漢字文化圏古医籍の定量的比較研究ー各国伝統医学が共有可能な歴史観の確立」http://www.jfe-21st-cf.or.jp/jpn/hokoku_pdf_2008/asia08.pdf…’
(JFE21世紀財団報告書、pp67~78)が、本書の各論部分を適切に構成することになろう。関心のある方はあわせて読むことをおすすめする。真柳誠「日韓越の医学と中国医書 」(日本医史学雑誌 56巻2号. 151-159 、2010)などの同氏の漢字文化圏における医学史研究の成果と視点は、我が国近世医学史研究において最も重要な指標の一つになるだろうと考えている。また近年においては町泉寿郎(二松学舎大学)氏の一連の研究(たとえば科研「漢籍抄物を中心とした中世末期~近世初期の学術的展開に関する基礎的研究 」2010~2013など)も重要である。
◆医学史の分野からは本草学研究についても重要な視点を提供することになる。その意味では、ミヒェル・ヴォルフガング氏の近年の本草学研究も西洋だけでなく中医学史・近世医学史に、新鮮な視点を提供してくれるだろう。
◆このように、各研究分野での指標を出しあい、比較しあうことは「近世化」論争においては、それなりに多様な議論をもたらし、「近世」を再吟味する意味を豊かにすることになろう。が、あえて時代区分についての感想をのべれば、やはり日本では、社会構造の変化を基底にすえた原始・古代・中世・近世・近代(現代)という時代区分論が今のところ最も整合性のあるように考えてはいる。  

除痘館記録を読み解く

2015年07月25日

 洋学 at 07:59  | Comments(0) | 書評
◆緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館」記録を読み解く』(緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室、思文閣出版、2015年6月10日、2300円)が出ました。第一部が「除痘館記録」を読むで、影印や現代語訳、解説があります。第二部に天然痘対策と除痘館活動として米田該典「天然痘との闘い」浅井允晶「緒方洪庵と「除痘館記録」の解説があります。第二部は大阪の除痘館の成立と展開として、米田該典「モーニッケ苗の伝来と展開」、浅井允晶「大阪の除痘館の記録」、古西善麿「大阪の除痘館の活動と官許」、古西善麿「尼崎町除痘館の創成と展開」、第三章牛痘種痘法の意義と役割として加藤四郎「エドワード・ジェンナーによる牛痘種痘法の開発」、加藤四郎「天然痘対策の今日的意義」、巻末に天然痘と大阪の除痘館関係年表を載せています。◆『除痘館記録』を影印本にし、現代語訳をつけていることにより、除痘館での種痘普及の努力と工夫にたいする理解を深めることができます。各論文も実証的で的確です。加藤四郎氏は、こうした種痘普及活動の今日的意義を予防医学の先駆と評価しており、同意できます。◆ただ、アンジャネッタ『種痘伝来』を参考文献にあげているのに、モーニッケ苗の我が国伝来日を正確に書かずに、旧来の説である嘉永2年6月ととどめているのは残念で、伝来日を6月23日と書いてよかったと考えます。おそらく種痘接種日が、楢林宗建の記録などには7月17日とあるので、日の特定に迷っているのだと思いますが、種痘接種日は伝来から3日後の6月26日でよいと考えています。◆今後の展開として、古西氏の尼崎除痘館の創成と展開にみられるように、大阪除痘館を基点とした除痘館活動、種痘普及活動がより解明されていくことが望まれます。たとえば、土佐の種痘は、緒方洪庵に学んだ門人らにより伝えられ、洪庵の義弟緒方郁蔵の門人84人中土佐出身者が26人おり、彼らの種痘活動もどのように進められていったか、より詳細に調査することで、種痘をきっかけに在村蘭学の広がりを図示することができると考えます。◆なお、隣の伊予宇和島では、江戸の伊東玄朴から送られた痘苗と道具により玄朴門人富沢礼中により進められました。このとき高野長英は伊予にいました。玄朴門人であった富沢礼中が高野長英を伴って伊予宇和島に戻っていたのです。四国でもさまざまなルートによって、種痘が村の中まで広がっていったのです。こうしたルートの解明もまた今後の課題です