わが国種痘伝播と地域医療の近代化に関する史料集成を軸とする基礎的研究

本研究は、牛痘種法(種痘)の我が国諸地域への伝播と地域医療の近代化の解明を目的とし、収集した種痘資料は、資料集刊行およびHP等で情報公開し、史料の共有をはかる。ジェンナーの発明した牛痘種法は,1849年に長崎に伝播し、数年のうちに全国各地に伝播した。九州諸地域への種痘普及は、本研究に先行する科研費研究でかなり解明しえたが、全国的な地域展開の解明は不充分である。そのため、全国諸地域への種痘普及における①前提としての紅毛流医学や人痘法の普及、②在村医らの果たした役割、③公衆衛生の芽生えともいえる諸藩の医療政策としての展開、④地域の医療近代化・医学教育にどう影響したかなどを、地域別に解明し、医学史、科学史、文化史、近世史、近代史研究などに学術貢献する。

(本文)

①研究の学術的背景 

 本研究は、青木歳幸を研究代表者として実施した基盤研究C「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(27~29年度、略称;種痘伝来)で得た成果を発展させ、種痘の全国展開と、諸地域の医療的特色と地域医療の近代化を探求するものである。同時に地域的特色や種痘普及に意義のある種痘史料を収集し、刊行し公開する。

 3年間の種痘伝来科研において、多くの成果を得た。嘉永2年(1849)に伝来した牛痘接種は萩藩では9月21日に佐賀藩から分苗されたこと、大村藩は7月24日に痘苗を得て8月1日から藩主導で実施し、種痘苗保存確保のために「牛痘種子継料」を全村から徴収していたこと、中津藩では民間医辛島正庵らが長崎から痘苗を得て、種痘普及のために文久元年(1861)医学館を創設したこと、西屋形村の屋形養民は、医学館から痘苗を得て村民への種痘を開始したこと、福岡藩領では郡医が早くに種痘活動を行い、武谷祐之は郡医から痘漿を分けてもらい、嘉永2年の末から種痘を始めたこと、小倉藩では安政5年(1858)に牛痘を牛に種えてリフレッシュさせる再帰牛痘法を安政5年(1858)段階で郡医らが試みていたこと、宮崎では、若山牧水の祖父若山健海が嘉永3年ころから実施したこと、薩摩では前田杏斎が嘉永2年に長崎から牛痘を得て実施、その門人の黒江絅介は高岡郷(現宮崎市)で嘉永3年に実施していること、熊本藩では、、にて、嘉永2年12月22日が6月26日に実施されたことは、アンジャネッタ、同年を、胡光、松村記明、有坂道子、大橋道夫、東徹を研究分担者とし、を研究分担者、小川亜弥子・海原亮を研究協力者として推進した基盤研究C「・中津藩・長州藩を軸とする西南諸藩の医学教育の研究」(27~29年度、略称「種痘伝来」)を発展させるものである。「種痘伝来」において、新たに小倉藩領では安政5年(1858)に再帰牛痘法を実験していたこと、日向では若山牧水の祖父若山健海、薩摩では前田杏斎が嘉永2年から長崎から、前田杏斎の門人黒江中津では辛島正庵のほか屋形養民、久留米では、熊本では高橋春圃と寺倉秋堤が長崎で牛痘を学び、実施し、明治3年の熊本医学校が設立されたとき、寺倉秋堤に種痘術を教えた吉雄圭斎が招かれ、種痘普及後の地域医療の近代化が始まった。

この基盤研究において、佐賀・中津・萩各藩の西洋医学教育展開に、種痘普及とそのための人的ネットワークが主要な役割を果たしていた実態が判明した。が、他の九州諸藩・地域においての種痘伝播の実態研究や、その人的ネットワークが地域医療の近代化にどう関わったのかの研究は不十分である。西南諸藩の医学教育研究を発展させるためには、まず、九州諸地域の種痘伝播に関する基礎的研究が不可欠であると、本研究を着想した。

本研究の国内・国外の研究動向及び位置づけを述べる。歴史上、最も怖れられた感染症は天然痘であったため、その予防法としての種痘研究は豊富で、善那氏種痘発明百年紀年会『法発明者善那氏頌徳之記 : 附・日本種痘の沿革』(善那氏種痘発明百年紀念会,1896)をはじめ、富士川游『日本医学史・決定版』(日新書院,1941)、古賀十二郎『西洋医術伝来史』(日新書院,1942)、内藤記念くすり博物館編『天然痘ゼロへの道』(エーザイ株式会社、1983)、添川正夫『日本痘苗史序説』(近代出版,1987年)により、我が国への主な伝播経路と長崎伝来後の主な伝播経路が解明された。深瀬泰旦『天然痘根絶史』(思文閣出版、2002)は、お玉ケ池種痘所研究で、研究上の欠を補った。

国際的視点での種痘研究は、小田泰子『種痘法にみる医の倫理』(東北大学出版会、1999)が、イギリス・新大陸・フランス・中国・日本での人痘法の伝播過程を詳細に明らかにし、田崎哲郎「アジアにおける種痘」(『牛痘種痘法の普及』、岩田書院、2012)はアジア的視点での種痘研究を行った。  しかし、従来の研究では、いずれも我が国への牛痘の長崎到着日と、楢林宗建子建三郎への接種日について不確定であった。この点で種痘史研究に大きく貢献したのが、アン・ジャネッタ『種痘伝来』(岩波書店、2013)である。アン・ジャネッタは、ヨーロッパからアジア、日本への牛痘種法の伝播過程を詳細に明らかにし、オランダ商館長日記などから、長崎への伝来日を西暦1849年8月11日(和暦:嘉永2年6月23日)、宗建子らへの接種を8月14日(和暦:6月26日)と特定し、特筆される成果をあげた。しかし長崎伝来以後の日本各地への伝播と普及については、従来の拠点的研究以上には踏み込んでおらず、村段階での種痘普及の実態は未解明のままであり、地域の医療近代化に関してどのように藩や在村医らが関わったのかの研究課題は残った。

在村蘭方医らによる村民らへの種痘普及活動は、田崎哲郎『在村の蘭学』(名著出版、1985)や青木歳幸『在村蘭学の研究』(思文閣出版、1998)、青木歳幸・岩淵令治編『地域蘭学の総合的研究』(『国立歴史民俗博物館研究報告』第116集、2004)などの在村蘭学研究として進展したが、九州諸地域での在村蘭学研究はほとんど進展していない。

以上の学術的背景をふまえて、研究代表者の佐賀藩医学史研究と在村蘭学研究を発展させるものとして、九州諸地域の村段階へ種痘がどのように伝来したのか、その前史としての紅毛流医学や人痘法の普及、また諸藩と医師らが種痘にどのように関わったのか、地域医療の近代化との関わりはどのようなものであったかを明らかにするために本研究を申請した。九州諸地域を研究対象とするのは、研究者らの研究フィールドであることとともに、西洋医学を先進的に受容し全国に発信してきた地域であり、全国への研究モデルとなりうると考えるからである。また、W.ミヒェルら編『九州の蘭学』(思文閣出版、2009)は、医師を多く含む九州の主要蘭学者の評伝を公刊し、九州の蘭学研究を一段階アップさせた。W.ミヒェルは、我が国における東西文化交流史研究の第一人者であり、大島明秀らとともに、中津の医家大江家などの史料調査を長年続けており、九州諸地域の蘭学研究に精通している。大島明秀は、『鎖国という言説:ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(ミネルヴァ書房、2009)以来、九州の洋学・東西文化交流史とともに、『熊本洋学校(1871-1876)旧蔵書の書誌と伝来』(福岡・花書院、2012)や知識人研究をすすめ、熊本地域の史料発掘をすすめており、近世・近代の熊本藩(地域)の医学・洋学史料整理を担当できる。研究協力者海原亮は『近世医療の社会史・知識・技術・情報』(吉川弘文館、2007)、『江戸時代の医師修業・学問・学統・遊学』(吉川弘文館、2014)などを出版し、近世医療史研究の全体へのめくばりができる。小川亜弥子は、『幕末期長州藩洋学史の研究』(思文閣出版、1998)以来、長州藩の洋学史および教育史研究をすすめ、医学史・種痘研究についての研究協力ができる。以上、本研究課題推進には、専門性、実績ともに最適のメンバーである。