2015年09月29日
1. はじめに
野中家の蔵書は、医薬書関係で和書類だけでおよそ1000冊を優に上回る規模であり、2013年10月17日の初調査以来、ほぼ毎月1泊2日の日程で継続調査と整理を続けてきた。
野中家は江戸時代初期より薬種商として代々経営を行ってきたので、漢方医薬書がその主要部分をなしている。時期的には戦国時代末期から、幕末明治期を主として現在に至る。なかには、東医宝鑑という朝鮮医書があり、本草綱目の寛文版と正徳版も存在しているなど書誌的にも興味深い。西洋医学の普及にともない、西洋医学の翻訳書や外科学書、洋文の原書も少なからず所蔵されている。
本報告においては、野中家所蔵解剖書の『蔵志』、『施薬院解体図』、『解臓図賦』、『解屍新編』、『解体新正図』の5つの紹介と歴史的意義を考えてみたい。
2. 『蔵志』について(野中家本)
京都の医師山脇東洋が、宝暦4年(1754)に初めて、京都の六角獄舎で観臓を実施した。東洋は5年後の宝暦9年に『蔵志』を著した。
3. 『解屍編』について
山脇東洋の解剖に次いで、萩で宝暦8年に男屍、宝暦9年に女屍の解剖をおこなったのが、東洋門人で萩の医師栗山孝庵だった。
ついで、明和7年(1770)に元唐津藩医で古河藩医の河口信任が、解剖を行った。信任はドイツ人医師ウェスリングの解剖書を見つつ、初の頭部解剖を行った。こうして日本最初の頭部、脳・眼球の解剖を終えた信任は、この成果を明和八年までにまとめて、翌年『解屍編』として刊行した。解剖図を担当したのは余浚明である。
4. 『施薬院解体図』について(野中家本)
寛政10年(1798)、施薬院・三雲環善と山脇東海が主宰して、実施した34才男子解剖図で、元俊も招かれて都督として参加。画は吉村蘭洲、木下応受、吉村孝敬。序文は元俊、蘭文は大坂の蘭学者橋本宗吉が書いた。もっとも蘭学の影響がうかがえる解剖図である。京都大学図書館や早稲田大学図書館本が知られる。野中家本にはオランダ語の注釈がない。写本の途中で消えたものであろう。
5. 『解蔵図賦』について(野中家本)
文政4年(1821)、京都の蘭方医小森桃塢が主宰して、京都で、小森門人池田冬蔵らが執刀した解剖の本。翌5年に初版を刊行。参加者が総数123名。江戸期における最大規模の解剖であり、乳び管が初めて実見された。胸管が左鎖骨下静脈に入るところで、二つに分かれていることを実見して記録した。
6.『解屍新編』について(野中家本)
宝暦4年(1754)に山脇東洋が解剖を行ったのをきっかけに、全国で解剖を志すものがつぎつぎと現れた。下野では那須郡の儒者諸葛君測(琴台)が、河口信任の著した『解屍編』に疑問を抱き、寛政年間、日光で男屍の解剖がおこなわれ、『解屍新編』として描かれた。「寛政癸丑(1793)之冬」の日付で君測の序文がある。本書は、晁貞煥(俊章)著・元正匡輔画である。末尾に、文政10年(1827)8月23日に鈴木雅長が写したとある。富士川文庫にもう一冊写し(文政2年)がある。本書に「日光山御医師山中療養院蔵」とあることから、山中療養院の旧蔵であったことがわかる。
7.『解体新正図』について(野中家本)
下野国の壬生(みぶ)藩で、藩医の齋藤玄昌(玄正)、石崎正達らを会主として天保11(1840)年12月11日におこなわれた解剖に基づき、高倉東湖が水彩で描いた8葉の彩色解剖図。壬生の黒川上河岸の刑場で、上州の盗賊・万吉の刑屍体を払い下げ解剖をおこなった。『解体新正図』は、『解体正図』と同様に8枚の図からなり、末尾に「右者於野州仁良川解体、明治三庚午歳二月十六日、会主田谷隆輔 清斎印(禅山)とあるので、明治3年に仁良川(現下野市仁良川)陣屋で医師田谷隆輔が会主として牢死人を解剖し、それを清斎(印には禅山)とある絵師が、『解体正図』と同様に8枚の絵で描いたもの。6.7の記載や所蔵印から、これらは下野国の医師が所蔵していたものが、縁あって野中家に渡ったものとみられる。