備前岡山の在村医中島家

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◆『備前岡山の在村医中島家の歴史』(中島医家資料館・中島文書研究会編・思文閣出版、2015年11月21日、10000+税別、301頁)が出た。◆御当主の中島洋一氏の著した「中島家の歴史」のほか、松村紀明「地域医療研究の端緒としての中島家文文書」、木下浩「中島友玄と岡山県邑久郡における江戸末期から明治初期の種痘」、梶谷真司「事業者としての友玄ー製薬業からみた中島家の家業経営」、町泉寿郎「中島宗仙・友玄と一九世紀日本の漢蘭折衷医学」、清水信子「『胎産新書』諸本について」、鈴木則子「『回生鈎胞代臆』からみた中島友玄の産科医療」、平崎真右「地域社会における宗教者たち」、黒澤学「中島乴と明治期岡山の美笑流」などの論考と、史料解説、蔵書目録、中島家年表などからなる岡山邑久郡の在村医中島家の歴史を総合的に調査した研究報告書である。◆同家は300年前の大工職中島多四郎の子友三が一代限りの俗医(在村医)として医家となり、友三の子玄古の時代に専業医となった。18世紀後半、玄古の子宗仙の代には、京都で吉益南涯に古方を、長崎で西洋医学を学ぶようになった。宗仙の子友玄は、京都にでて、吉益北州に古方を、小石元瑞に漢蘭折衷などを学び、幕末期には、内科・外科医の医業のほかに、鍼灸治療や売薬業でも手広く営業し、明治5年には種痘医としても活動した。◆まさに、庶民が医師と医薬による医療を望むようになった時期から在村医が創出されるようなるのだが、中島医家もまたその流れに沿っていた。西洋医学が浸透しはじめると在村の漢方医らも蘭方を取り入れるようになるのだが、中島家もまた漢蘭折衷医としての医療活動を展開するようになる。中島家の歴史から、江戸時代医学史が見えてくる。同家には大量の医薬書のほか、診療記録、配剤記録、医療器具も残されている。◆在村医としての中島家の活動が、医薬書や配剤記録などとともに研究がさらに進展することで、江戸時代の在村蘭学の潮流と地域医療の近代化、庶民の知的水準の高まり・文化的傾向もまた明らかになることになる。多くの人々の目に触れてほしい本であり、医学史・文化史研究に寄与することの多い本である。

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