活動報告

このエントリーをはてなブックマークに追加
6.研究書の構成は、現在題名を頂いている方を含めて下記のように考えております。  『天然痘との闘いー西日本編』、全体350頁(論考14本ほど300頁ほど・史料編40頁ほど、その他10頁ほど) ■論攷編・発表題は現時点で以下のように考えております。頁数は執筆者の数により多少変化します。 カバーできていない県が出た場合は総論で、現在知られている範囲でのまとめ的なかたちで青木が執筆します。 (番号は仮です) 1.青木歳幸・・総論、 2.ミヒェル・ヴォルフガング・・・※上方蘭学の草分け・吉雄元吉について (ミヒェル・ヴォルフガング・・*「紅毛流書物に見られる天然痘治療」、未定) 3.中澤淳(山口大名誉教授)・・※長州藩と山口県の種痘 4.梶谷光弘(出雲財団)・・松江藩における種痘—松平家文書「列士録」を中心として— 5.海原亮(住友史料館)・・・鳥取の種痘など 6.ミヒェル・ヴォルフガング・・・※ゴルトシュミット著『牛痘と種痘の概史』の受容についてー日高凉台と有馬摂蔵を中心に 7.青木歳幸・・安芸の種痘 8.木下浩(中島医家史料館)・・※備前・備中の種痘 9.松村紀明(帝京平成大学)・※種痘の「終わり」〜明治初期岡山における在村医の種痘活動〜 (仮) 10.胡光(愛媛大学)・紅毛流医学の展開・合田求吾。香川の種痘? 11.井上淳(愛媛県立博物館)・・※宇和島の種痘 12.古西義麿(除痘館資料室)・・※土佐の種痘、※阿波の種痘、 13.浅井允晶(除痘館資料室)・・※「大坂除痘館と備中足守除痘館―緒方洪庵開設の備中足守除痘館の基本性格をめぐる問題―」ほか 14.古西義麿(除痘館資料室)近江の種痘 コラム・・有坂道子(橘大学)有信堂の種痘 ■史料編・科研費の報告書史料集との調整(頁数・内容等)でそちらに回る史料もあり。 田中美穂・・※「津山藩の種痘-宇田川興斎筆「引痘録」から」解題と翻刻 青木歳幸・・磨尼缺対談録(富士川文庫蔵)、 海原亮・・「引痘計簿」(津山洋学資料館所蔵) 青木歳幸・・頼春風の種痘記録(頼春風資料館蔵) 科研費報告書2020年分  三宅董庵の『補憾録』 難波抱節の『種痘伝習録』 松村・木下・・岡山の種痘行政に関する文書 種痘科研活動報告。 2019年度第一回研究会を8月3日に大阪の緒方記念除痘館資料室にて開催し、各自の調査報告と今後の計画を打ち合わせた。
2020年第一回研究会案内。

今回は除痘館記念資料室の川上理事長をはじめ、浅井、古西両先生に多大なご協力をいただきました。あらためて感謝申し上げます。

1.日時 83日(土)午後1時から3時ごろまで除痘館資料室、

  集合は、当日午後1時までに、除痘館資料室へお越しください。

541-0042 大阪市中央区今橋3-2-17 緒方ビル4F電話番号:06-6231-3257

 5時過ぎごろから、懇親会 華㐂(高麗橋「華㐂」。 大阪市中央区高麗橋3120  TEL.0662031277

 米田該典先生も懇親会ご参加予定です。

 8月4日(日)青洲の里調査

2.議事

(1.)『天然痘との闘いー西日本編』の出版について

①趣旨 『天然痘との闘いー九州の種痘』(岩田書院、2018)の続編として、『天然痘との闘いー西日本編』を2020年度内に刊行する。

 以後、中部日本編(2021)、東日本編(2022)へと展開する。

 当初計画は、中国・四国編と近畿編を2冊別に出版しようと考えたが、一緒にして西日本編(論攷編・史料編)として出版する。 現在の行政区画に必ずしもとらわれることはないが、一応の目安として種痘についてはできるだけ県別に種痘の特徴や実態を叙述したい。主な内容は、総論として紅毛流医学や人痘法の伝播、牛化人痘法の試み、天然痘予防の民俗、各論として各地域への種痘の伝播と実施・特徴などと、終論として地域医療の近代化と種痘など。

②体裁 論攷編と史料編とする。論攷の量は、1ページ18行×51字=918字で、現在1516本ほどお願いしており、350ページ÷15人=22ページ(図版・表含む)×918字=20196字=400字詰50枚を最大として8ページから20ページぐらいの間でまとめる。

③内容(演題はすべて仮です)

■論攷編青木歳幸・・総論

中澤淳(山口大名誉教授)・・長州の種痘

海原亮(住友史料館)・・・島根の種痘など

田中美穂(津山洋学史料館)・・史料紹介津山の種痘

木下浩(中島医家史料館)・・岡山の種痘

松村紀明(帝京平成大学)・・民間から公儀へ 〜岡山藩医学館と種痘(仮)〜

ミヒェル・ヴォルフガング・・紅毛流医学の展開、吉雄元吉など

胡光(愛媛大学)・紅毛流医学の展開・合田求吾。香川の種痘?

井上淳(愛媛県立博物館)・・宇和島の種痘

古西義麿(除痘館資料室)・・高知の種痘、徳島の種痘、近江の種痘など

浅井允晶(除痘館資料室)・・牛化人痘法、谷景命など

(岡宏三・・石見の種痘・地域医療、依頼中です)

ほかに、除痘館の設置、種痘宣伝ビラ、有信堂の種痘など。

■史料編

田中美穂・・岡山藩宇田川興齋の種痘

青木歳幸・・磨尼缺対談録

海原亮・・疱瘡証文について

青木歳幸・・中野操文庫の種痘資料

ほかに1~2編

(2)84日、日程

   レンタカーは9人乗りを借りましたので、席に余裕があります。研究会の席であらためて参加者の確認をします。

    9:00頃、淀屋橋トヨタレンタカー(中央区高麗橋4-7-3、06-6220-0800)に集合、 11:00頃、青洲の里ミュージアム見学、昼食、13:00頃、出発、15:00頃、淀屋橋トヨタレンタカー返却、時間がある人はれば適塾等見学、

3.今後の計画

(1)各自調査をすすめ、2020830日、原稿締め切りとする。2020年度・・西日本編刊行

(2)執筆者の再編成をして、2021年度・・中日本編刊行、2022年度・・東日本編刊行を予定し、我が国の種痘研究の全国的展開をまとめる。

島根の種痘医米原恭庵について 『医界風土記ー中国・四国編』の米田正治氏によれば、島根県益田市の石勝(いわかつ)神社内に米原恭庵頌徳碑がある。 種痘法伝自西洋、嘉永二年余始試之高角村爾後漸播于郡中人多免夭折 賦此志喜 海外奇方逐日新/尤忻種痘術如神 散花何假化工技 開落唯期手裏春 米原祥恭菴 と刻まれている。 米原恭庵は、本名を祥、号を恭庵、または帯霞仙、俳人として晩山と称し、岩見益田地方の蘭学の祖としてあがめられてきた。 9月7日徳島の種痘資料調査 今日(9月7日)は徳島での種痘資料調査。朝早く関寛斎像を探しに出掛けた。城東高校の東側で中徳島地区の河畔に大きな寛斎像があった。解説をみると、城東高校のグラウンドの一部で関寛斎は開業していて、種痘や患者の治療にあたっていたらしい。 ◆朝食後、徳島市立徳島城博物館へ車で向かった。まだ時間があったので城内を散歩。このあたりは6000年前は海底から盛り上がったばかりだったらしい。この岩陰には貝塚遺跡があって、徳島出身の考古学・人類学者鳥井龍蔵博士が発掘した記念すべき貝塚だそうだ。貝塚の隣に鳥井博士の記念碑も建っていた。ぐるりと一回りして、9時10分ごろ、徳島城博物館の正門前にでた。 ◆ここの学芸員小川裕久さんに案内をいただいた。『洋学研究事典』の徳島の項目を御願いしたら、文書館の館長さんらと分担して引きうけてくれた。そのお礼もかねて立ち寄った次第。 ◆あわせて、関寛斎や井上不鳴の史料について相談したら、関寛斎の書籍や史料を紹介してくれ、コピーをいただいた。井上不鳴はよくわからないけれど、滝薬師というところに碑があるらしいと教えてくれた。 ◆井上不鳴の碑を探しに滝薬師へ向かった。狭い寺町の通りの奥に滝薬師があった。碑文があるかもと、近くの和田之屋さんという茶店の女将さんに聞いたら知らないという。どうしようかなと店内を見回すと、さだまさしの「眉山」という本もあった。昔、映画化されたとき、この店もロケ地になったとか。北野大などのサインもあった。ああ、意外と名店なんだなと思って、まずは名物の滝の焼き餅を抹茶でいただくことにした。滝の焼き餅は蜂須賀公がこの地を治め始めたときからの献上品だという。400年変わらずこの滝の名水でこねて焼いてきたという。焼きたてと抹茶が美味しかった。 ◆元気がでたので、石段を昇ること15分、いけどもいけども、それらしき碑文は見えてこない。やがて道のない行き止まりの場所になってしまった。もう先は行かん、いかんともしがたい、井上不鳴はやはり不明だと、とぼとぼ100段以上もある石段を降りた。一番下まで降りて車の近くまで来たら、なんと目の前にあった。山に向かって建ててあったから気がつかずに通りすぎたのだった。 ◆やれ嬉しやと写真をとろうとしたが、あら、残念、碑文の部分がすっかりはげ落ちてしまっていて跡形もなく、まったく読めない。残念無念で、滝薬師をあとにして県立図書館に向かった。 ◆県立図書館では、関寛斎関係書籍を、たくさんだしてくれてあった。なかでも『阿波の洋学史研究』と『徳島県医師会史』が参考になったので、かなりコピーーさせてもらった。 ◆県立図書館周辺は文化の森公園といって、県立博物館や県立美術館も建っている。その公園の一番奥に徳島県文書館があったので、ちょっと疲れていたが、向かった。建物は昔の県庁を移築復元したようだ。文書は整理されていたので、種痘や関寛斎などとキーワードを入れてみた。が、なんにもヒットしなかったので医と入れて検索したらかなりの古文書がヒットしたので、医師の開業願などを撮影させていただいた。 香川の種痘医河田雄禎調査 2018年9月6日は丸亀の種痘医河田雄禎墓碑調査。丸亀駅についてレンタカーで浄土宗寿覚院へ。墓地内を探索させていただくと、見付かった。墓には雄禎でなく河田宅治とある。 ◆碑文を読むと緒方洪庵門人で、洪庵から牛痘を分けてもらって、嘉永3年2月に讃岐で最初の種痘をした人物であることなどが書いてあった。 ◆墓碑が新しくなっていたので、もしかして御子孫が健在なのだろうかと思い、御子孫の河田さんの住所を住職さんをお尋ねしたら、連絡をとってみますとのこと。連絡がきたら、また丸亀に調査にこなくては。それはそれで新しい資料が見付かる可能性があるので楽しみではある。 ◆ちょっと古い『香川の郷土の人物』の図書記事によれば、河田雄禎宅治の旧医院は、吉田病院の近くにあるという。その記事をたよりに、初めて丸亀市内を歩いてみた。しかし、吉田病院は大きな病院ですぐわかったが、どうにも河田医院の痕跡がない。近くの古い御菓子屋さんに入って聞いたら。図書の記事の吉田病院は吉田病院のケアハウスになっていて、現在建っている大きな吉田病院のところが旧河田医院だったという。 種痘科研第一回研究会案内 代表者 青木歳幸 第一回研究会につきまして下記の日程で実施しますので よろしくご参集ください。 8月4日   12時15分ごろ岡山駅西口オリックスレンタカーに集合。 (JR岡山駅西口より徒歩6分。岡山市北区昭和町4-7) レンタカーと海原さんの車2台に分乗して中島医家資料館へ向かいます。 木下先生は、青木車で道案内と、一応、免許証をご持参くださればと思います。 12時15分ごろ出発・・岡山バイパス国道2号線経由 1時ごろ中島医家資料館(701-4232 瀬戸内市邑久町北島1241 086-942-0577) 1時15分ごろから、研究会開始、中島医家資料館で 参加予定者 青木、松村、胡、ミヒェル、海原、木下、中島館長、清水さん? 青木・・九州の種痘から中国・四国の種痘への構想・・・20分 ミヒェル・・種痘の前史・・15分 木下・・中島家資料からみる種痘(仮)・・・20から30分程度 松村・・岡山の地域医療と近代化(仮)・・・20から30分程度 胡・・四国の種痘について考えていること・・15分程度 あとは、中島家資料館長のご案内で、資料閲覧を中心に およそ、5時頃まで その後、 レンタカーで岡山市内、各ホテルまで送ります。 19時ごろから、市内の庶民的な酒場・・食事と懇親会(有志) (ミヒェル先生は懇親会はご欠席の予定です) 8月5日 エクスカーション 現時点のおよそのコースです、津山資料館田中美穂さんに相談しました。 9時 岡山駅駐車場集合 9時15分発・・・ 9時30分・・難波抱節生家跡(岡山市金川) 11時ごろ・・津山資料館着・・ここで田中美穂さんと合流、同館種痘資料閲覧 (仁木家の種痘資料などが拝見できます ) 12時30分ごろまで 資料閲覧 昼食   (御都合のある方はここで一部解散) 13時30分ごろ津山発 14時30分ごろ緒方洪庵生家跡(岡山市北区足守)ほか関連史跡・資料館見学 15時40分ごろ岡山駅着解散、レンタカー返却 『天然痘との闘いー九州の種痘』 研究分担者・研究協力者のご協力のおかげで、無事、岩田書院へ3年間の研究成果として論考集を、入稿できました。わが国に伝来した牛痘とはどのようなものであったか、長崎に伝来して、九州各地にどのようにもたらされ、医師と行政(藩・幕府)と民衆の意識をどのように変えていったのか、地域医療の近代化にどのようにかかわったのかなどを、九州各地の種痘の実例から明らかにします。あらたな史料発掘もたくさんあり、医学史のみならず、地方史、文化史などにも必ず役にたつ本となるでしょう。 なお、この科研チームは、あらたな段階への研究、すなわち、種痘の全国展開についても研究を展開すべく、30年度以後の科研費申請も行っております。 1 論考集「天然痘との闘いー九州の種痘」 口絵                              2頁 目次                             1頁 1はじめにー九州の種痘概要・・・・・・・青木歳幸 (10頁) 2天然痘について・・・・・・・・・・・・相川正臣10頁 3ヨーロッパ人が観た日本における天然痘・・・W・ミヒェル 15頁 4人痘法の伝播 ・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸   17頁 5牛痘伝来前史・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸    9頁 6牛痘伝来再考     ・・・・・・・・・・青木歳幸   20頁 7長崎の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・相川正臣   10頁 8大村藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・・山内勇輝・・・18頁 9佐賀の疱瘡神   ・・・・・・・・・・・・金子信二   10頁 10佐賀藩の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸 28頁 11多久領の種痘・・・・・・・・・・・・青木歳幸・保利亜夏里  23頁 12長州藩の医学館と種痘・・・・・・・・・・・小川亜弥子・・ 22頁 13小倉藩領の種痘・・・・・・・・・・・・・・・青木歳幸・・17頁 14武谷祐之と福岡藩における牛痘の導入・・・・・W.ミヒェル・14頁 15久留米藩の医学・・・         吉田洋一・・・17頁 16中津藩における天然痘との闘い・・・・・・W・ミヒェル 31頁 17熊本藩の治痘           ・・・・大島明秀・・13頁 18天草の種痘・・・・・・・・・・・・・・・/青木歳幸・・8頁(?) 19若山健海と宮崎の種痘・・・・・・・・・・ 海原 亮・・14頁 20薩摩の種痘・・・・・・・・・・・・・・田村省三・・・18頁 21黒江家文書にみる種痘・・・・・・・・・今城正宏(宮崎市教委)20頁 種痘科研関係者各位 29年度第2回種痘科研打ち合わせ会のお知らせ 研究代表者青木歳幸 下記により、第二回打合会を開催しますので、お集まりください。 日時:11月5日(日) 場所:電気通信大学東3号館301号室 時間:17:15~19:15(洋学史学会ミニ・シンポ終了後) 議題:1.科研費報告書史料集の準備状況 2.30年度科研申請について 平成27~29年度科学研究費補助金(研究種目 基盤研究(C) )研究課題番号:15K02867 「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」 研究代表者(所属機関・部局・職・氏名) 佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸 29年度第1回研究会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)29年度第1回研究会を開催しますので、長丁場な日程ですが、ぜひ、ご参集ください。 日程 8月4日(金) 10時に九大医学歴史館前に集合 10時から12時まで、九州大学耳鼻咽喉科学教室・久保記念館 医学歴史館、人体・病理ミュージアム見学 12時00分~ 昼食 医学部周辺 13時30分~ 29年度第1回研究会(於九州大学医学部附属図書館) 議題1.研究報告書・今後の日程について(青木) 2.研究報告 海原 亮「若山健海種痘資料と延岡の医療環境(仮題)」 山内勇輝「大村藩の種痘伝播と藩医 長与家(仮)」 大島明秀「寺倉秋堤の種痘伝習について」 相川忠臣「長崎の種痘について」 青木歳幸「小倉領の種痘」 15時30分~16時30分まで、九州大学医学部図書館展示室見学 17時00分~ 懇親会・食事 28年度種痘伝来研究実績の概要 28年度は、各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月16日~18日、島津尚古集成館で開催した。薩摩における種痘史料調査では、八木称平、前田杏斎らの事績のほかに吉良元民らによる種子島種痘史料、天ケ城歴史民俗資料館において黒江家種痘史料を見出した。また日向で最初に種痘を実施した若山健海の種痘記録も若山牧水記念文学館で見出した。これらの史料はいずれも最終年度報告書に翻刻する予定である。 各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は、鹿島藩・小城藩・蓮池藩・諫早領等、佐賀藩領内種痘史料調査を実施し、その成果の一部を、日本医史学会等六史学会合同例会(2016.12.17・於順天堂大学)において「牛痘伝来をめぐる一考察」を、野中家史料研究会(2017.1.27、於佐賀大学)において「野中家の牛痘書」を報告し、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2017.2.25)において楢林宗建・野口良陽・織田良益・下河辺俊益ら医師の種痘活動を執筆し、新知見と新史料を紹介した。 現在までの進捗状況 年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約6割である。佐賀藩の種痘に関しては,嘉永2年(1849)にモーニッケの指導を得て、佐賀藩医楢林宗建が種痘に成功し、その痘苗が佐賀藩から江戸へと伝播した経路などの解明のほか、佐賀藩領における引痘方による計画的な種痘実施の実態、種痘医と漢方医の対立・煩悶なども新たに発掘し、その研究成果を前掲『佐賀医人伝』に反映できた。学会発表・論文は、前掲のほか、シーボルト没後150年記念講演会招待講演「シーボルトとその門人」(2016.09.10、於長崎歴史文化博物館)、ISHIK2016・在来知歴史学国際シンポジウム「日本薬局方の先駆的活動」(2016、10。23~26、於佐賀大学)、「『御診察日記』にみる西洋医学治療」(『佐賀学Ⅲ』、海鳥社、pp207~232)などを成果公開した。 今後の研究の推進方策 研究最終年度において、わが国最初に種痘を実施した沖縄種痘史料調査及び第1回研究会を7月に沖縄で実施し、九州における種痘実施状況を比較研究する。第2回研究会を年末に長崎か福岡で実施し、研究のまとめを行う。 各自調査も青木は、武田杏雨書屋、京都大学等での種痘資料調査と、九州諸地域の種痘関係資料の収集に努める。 研究協力者の海原亮と小川亜弥子は、研究会や調査に参加しつつ、研究報告書の刊行に協力する。 各自調査に、並行して、最終年度の研究報告書(含む資料集)刊行のために、資料選択・翻刻もすすめる。現時点での主な翻刻予定資料は、野中家種痘資料、若山健海種痘記録、黒木家種痘資料、種子島家記、武谷祐之『牛痘告論』、「痘瘡唇舌鑑図 7月4日(土)多久市歴史民俗資料館にて、第一回研究会を開催します。 15K02867 「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」研究代表者)             佐賀大学地域学歴史文化研究センター・特命教授・青木歳幸 27年度第1回研究報告会開催要項 下記により科研費「九州地域の種痘伝播と地域医療の近代化に関する基礎的研究」(略称:種痘伝来)27年度第1回研究報告会を開催しますので、ご参集ください。 日程7月4日(土) 13時~   多久市郷土資料館(現地集合)               〒846-0031 佐賀県多久市多久町1975   電話 0952-75-3002 13時15分~15時00分  多久御館日記ほか種痘関係資料調査                15時00分~ 「種痘伝来」第1回研究会(各自研究状況報告)                       ・青木歳幸「本研究の目標と課題について」                          ・青木歳幸「多久領の種痘」                                 ・ミヒェル・ヴォルフガング「中津藩の種痘資料」                       ・大島明秀「熊本藩の医学資料の現状」                            ・海原亮「医師の医学修業について」                       17時00分 終了                                            ※連絡先 佐賀大学地域学歴史文化研究センター                        特命教授 青木歳幸 TEL/FAX 0952-28-8378                       携帯 090-4015-8603 研究会終了後郷土資料館の見学しました。Wolfgang Michel-Zaitsuさんの写真 医師免状は無試験で授与された? 2015年06月26日 洋学 at 18:57 | Comments(0) | 医学史 諫早領医師への医師免状授与の場合 諫早日記から免札授与に関する記事を抄出する。 (1)安政二年四月九日記事 一左之通り手覚田中弥右衛門持ち出し弘道館へ之を相達し候事 手 覚 家来山本弁英其の外明十日(安政二年四月)御免札被相渡候付、 医学寮可罷出旨達之趣承知仕、則在所江申越候処、左ニ 山本弁英 山本文亭 酒井文札 藤田寛逸 諌早大衛被宮 嶋田静軒 古川文策 家来寺田繁之尉被官 久冨玄碩 郷医 雄仙   町医 謙造 右者此の節罷り登り候 武冨文碩 岡村文意 右者当病二而登り相叶わず候 右之通り御座候此の段御達し仕り候以上 四月九日 益千代内 杉野助右衛門 光増治兵衛殿、野口廣一郎殿、梮野 新蔵殿 明日(安政2年4月10日)に医道開業の免札を渡すので、山本弁英外11名は、医学寮に罷り出るようにとの通知があった。これを『医業免札姓名簿』で照合すると、安政2年4月10日の記事に、山本弁英、山本文亭、酒井文札、藤田寛逸、嶋田静軒、古川文索、久富玄碩、雄仙、謙造の9人に免状を与えた記録がでている。が、武富文碩と岡村文意は掲載されておらず、病気を理由に、佐賀へ来られなかったのはたしかなようである。 つづいて『諫早日記』をみると、安政2年5月18日の記事には、「武冨文碩其外左之人々来ル廿一日、免札被相渡候ニ付、医学寮罷出候様、左之通、以達帳、被相達候段申達候ニ付、御耳ニ達其計相成候様諌早申越候事」として、1)益千代殿家来武富 文碩、2)同岡村文意、3)同大坪謙吾、4)同家来・寺田繁之尉被官久富如菴、5)   右同家来・諫早宮内被官柴田規方、6)同本村耕作、7)同家来・早田喜左衛門被官大久保良敷、8)右同家来・諫早大衛被宮古川立岱、9)右同家来・喜多太左衛門被官岩松道省、10)久山村長英、11)同所堅牢、12)戸石村道策、13)諫早立悦、14)右同文策、15)長里村元碩、16)諫早栄軒、17)同立悦、18)多良村元陸、19)大草村仙庵、卯五月 弘道館 弘道館から御用があり、渋谷寛平が聞き次として罷り出たところ、前回病欠した武冨文碩と岡村文意らあわせて、19名に医業免札を渡すので医学寮に出席するようにとの申し達しが出た。安政2年段階では弘道館からの呼び出しであった。 では、武富文碩と岡村文意はいつ免札をもらったことになっているか。『医業免札姓名簿』をみると、安政二年九月十日の記事に、「安政二年卯四月内科●武冨文碩 西岡春益門人益千代殿家来、二拾五歳」、安政二年六月十日の記事に「安政二年卯四月内科●岡村文意 野口良陽門人益千代殿家来、二十八歳」とあり、いずれも、後で追記されていた。 これらの記事から、安政2年段階に諫早領医師へは、無試験で医師免状を与えていたことがわかる。医業免札制度の本来の趣旨は、医業は命にかかわる大切な業だから未熟のうちは免状を与えず、熟達したら免状を与えるというものであった。しかし、『諫早日記』での免状給付をみると、無試験で与えているとみざるをえない。おそらくこのことは諫早領に限ったことではないように思える。やはり、医師の国家資格試験制度の徹底した導入には、本藩以外では、かなり抵抗があり、やむなく暫定的に、開業医には無試験でも免状を与えたのではないだろうか。まずは領内の全医師の把握を優先したのかもしれない。 では、すべてこのように試験なしで開業医免許を与えていたのだろうかという疑問が出るが、じつはそうではなく、やはり試験をやって、学力をみてから合格者に対して免状を与えていたことも判明した。 種痘医野口良陽 第116回日本医史学会大阪大会での発表で、大阪大学の合山林太郎さんが「種痘をめぐる漢詩文」として、広瀬淡窓、旭荘らの種痘をめぐる漢詩のほか、佐賀諫早領医師野口良陽の詩を紹介した。野口良陽は、合山氏調査によれば、文政元年(1818)生まれで幕末頃没したという。越前において吐方を学び、のち長崎の馬場敬次郎のもとで「西洋医」を学ぶ(『諫早日記』、諫早市図書館)とあり、明治初期官僚野口松陽は良陽の子で、明治期に活躍した漢詩人野口寧斎はその孫とある。良陽の詩は以下の2つが紹介された。 種痘戯作 疫鬼跳梁絶消息[絶消息] 疫鬼跳梁せるも消息絶(た)へたり 散花妙手事[実]奇也   散花の妙手 実に奇なるかな 勿言人造異[非]天造   言ふなかれ 人造は天造に非ざると 腕裏春風結実[子]来   腕裏 春風 子(み)を結び来る。 (『枝餘吟稿』、野口家一族詩文稿[1・970・A]、関西大学図書館中村幸彦文庫蔵)。添削は江戸後期の医者で漢詩人河野鉄兜(慶応3年没、43才)によるもの。内容は、天然痘をもたらす鬼が絶えた。種痘はじつに見事だ。人造は天然に劣ると言うな、腕に接種した実が結果をもたらす、というような意味。種痘について絶賛しているかにみえる野口良陽だが、一方で、合山氏は、もうひとつ自著『幕末・明治期の日本漢文学の研究』(和泉書院、2014年、242~243頁)のなかの詩を紹介している。 才薄已無方起虢 才薄くして 已に虢(かん)を起たせる方無く 青裳䔥索二毛時 青裳 䔥索(しょうさく)たり 二毛(にけ)の時 浮名何事余身累 浮き名 何事ぞ 余が身を累する 人喚官家種痘医 人は喚ぶ、官家の種痘医と。 (探梅、村民請種痘、賦此自嘲(探梅、村民、種痘を請う、此を賦して自ら嘲る)『』 大変難しい詩だが、合山さんの解説によれば、観梅に赴いた村において、村人から種痘を乞われた際の心情をうたったもので、「起虢」は、中国の伝説上の名医である扁鵲(へんじゃく)が、虢(かん)の太子をよみがえらせたという故事に基づくもので、私はそのような才能はない。「青裳」とは高位にはない者の意で、「䔥索」はさらにそれを強めた言葉でみずからを卑下した内容。「二毛」は白黒2つの色、すなわち、儒医であり、かつ西洋医である2色の色を持った医師である自分という意。西洋医学を身につけたことで、村民から藩お抱えの種痘医として期待されているが、じつはそれは浮名(虚名)であり、自分は、困惑するばかりだと詠んでいる。 儒医として、活動をしていた良陽は、中年以後、佐賀本藩の命令で、種痘医としての活動をすることになったが、心情的にはそれを望んでいるのではなかったようである。 こうした心情をもつ野口良陽の資料が、関西大学中村幸彦文庫のなかに、まとまってあると、合山さんが紹介している。ネットで調べてみると、「毛山探勝録」「野口松陽文稿]、 「野口松陽日記及び書状案」、「野口松陽詩稿」 など子の野口松陽の詩集関係があるようなので、その調査は後日行いたいと思う。 まず、『医業免札姓名簿』にどのように出ているか調べてみる。すると、免札姓名簿の81番目に、 (割印)一 嘉永六年丑八月廿日 益千代殿家来 故野口長胤門人 内科 野口良陽 三十六才 82番目には (割印)一 同(嘉永六年八月廿日) 益千代殿家来 故牧春堂門人 内科 犬尾文郁 五拾才 とあった。益千代殿とは、諫早益千代のこと。野口長胤は、良陽父であろう。良陽は、内科医で、嘉永6年(1853)に36歳なので、1818年=文政元年生まれと推測できる。 この関連記事を、諫早市立図書館まででかけて、探してみることにした。するとぴったりの史料が見つかった。諫早藩の『日記』嘉永6年8月6日の記事に以下のように出ていた。(醫の字は医に改めて解読した) 一 野口良陽、犬尾文郁儀御用有之、先月廿日医学寮罷出候様弘道館より相達候得共、病等ニ而及延引、漸、昨日罷登候付、差付、其段、弘道館江及通達置、今朝早メ医学寮罷出候処、段々、連席ニ而都検より左之通御書付被相渡候由、申達候ニ付、御耳達、諫早江も申越候事 故牧春堂門人 内科   益千代殿家来 犬尾文郁 五拾歳 医道開業被差免候也 嘉永六年丑八月 医学寮 益千代殿家来 故野口長胤門人 内科   野口良陽 三十八才 書面右同断 在佐賀 内科 野口宗仁 針治 嶋田春栄 右両人は、先月廿日御免札 相渡居候得共、控落相成居候付、爰ニ記之 この史料によれば、犬尾文郁、野口良陽へ、先月20日に、医学寮へ罷り出るように弘道館から連絡があったとき、病気ということで延引していたが、ようやく昨日(8月19日)に、佐賀へ登り着いたことを、弘道館へその旨を伝えた。今朝(8月6日)、早めに医学寮へ出かけたところ、連席にて、都検(弘道館の事務役)から、犬尾文郁と野口良陽へ医道開業免状(免札)を渡されたのであった。佐賀にいる内科の野口宗仁と、針治嶋田春栄へは、先月廿日に開業免状を渡していたのであるが、控えを書いておかなかったので、記すとある。 この史料から、嘉永6年8月段階の医業免札は、従来から開業していた医師のうち少なくとも藩医レベルに対しては、試験によるものではなく、医学寮から、順番に支給していたことがわかる。また、本藩からの医師開業免状授与については、支藩レベルの医師にとっては抵抗感があり、病気を口実になかなか佐賀へ登らなかったこともうかがえる。そうした諫早領医師の抵抗感を裏付ける史料が、諫早『日記』から、さらに見つかったので、次号あたりで紹介したい。 野口良陽について、『日記』には38才とあるので、記載ミスか1816年=文化13年生まれの可能性も出てきた。野口良陽の子が野口松陽(1867~1907)といい、諫早好古館教授から明治期には内閣少書記をつとめた官僚で漢詩人。松陽の子が野口寧斎といい、乃木希典の漢詩を添削したほどの著名な漢詩人で、諫早文庫の創設に尽力した人物である。しかしハンセン病に倒れ、39歳で不遇の死を遂げた。この死については、人肉スープ事件という怪奇小説ばりの実話があるが、それも、今後、野口良陽の調査結果とともに、書き継ぎたい。

活動報告

横田冬彦編『読書と読者』

 

新刊紹介 吉田伸之『地域史の方法と実践』

2015年06月27日

 洋学 at 00:29  | Comments(0) | 書評 | 地域史 | 日本史
◆吉田伸之氏の『地域史の方法と実践』(校倉書房、2015年6月30日、6000円・税別)をいただいた。恐縮である。吉田氏は江戸をフィールドとしての都市史研究の第一人者であるが、一方で、信州飯田の飯田市歴史研究所の所長をも勤めておられる。本書は、主に後者の立場から得た地域史研究の論考を集成したものである。
◆Ⅰ部が地域史の方法、Ⅱ部が地域史の実践という構成になっている。私はとくにⅠ部第二章地域把握の方法にみえる地域史研究への提言に共感した。ここでは、地域把握の方法として三つの視点を提起している。一つは前近代における地域を歴史的・限定的に捉えるという視点、第二は、地域を社会レベルにおける第一次的な総括・統合主体=ヘゲモニー主体によって形成される社会=空間構造との関連で捉えるという方法(視点)、第三にこうした地域を歴史的に、いわば地域の「発展」段階として把握し、n地域をその帰結あるいは到達点として位置づけるという視点である。
◆n地域というのは、板垣雄三氏によって唱えられた地域概念で、簡単にいえばn人にとってn人分の地域概念があるということと理解している。たとえば満州移民にとっての地域は出身地だけでなく満州であり、帰国してからの居住地といえるようにn人分の地域があるという概念といえよう。
◆しかし、吉田氏はこのn地域論は、一方で地域概念を融通無碍な不可知論に陥らせるとして、第三章において単位地域概念を提起している。吉田氏の提起する単位地域とは、小学校区程度の規模の自治区域とする。その単位地域を地域史研究の最小単位としてその歴史を追究することが地域史研究であるとしている。
◆第五章で岡田知弘氏報告「現代日本の地域再生を考える」(『部落問題研究』197輯、2011)に対するコメントで、岡田氏の地域概念は、「本源的には、社会的動物としての人間の生活領域」とするが、より歴史的に深く捉えるべきだと主張する。さらに近世史研究における地域社会論の立場から、小野将「新自由主義時代の日本近世史研究」(『歴史科学』200,2010)氏や松沢祐作『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009)による、吉田氏らの地域社会論批判についてもコメントしているが、ここでは省略する。
◆吉田氏は、飯田市歴史研究所、とくに近世から現代にかけての単一村であった清内路村の研究を通じて、単位地域論の有効性を確認されている。以下、第Ⅱ部での実践報告や、書評などからなっている。
◆本書は地域史研究書であるので、一般読者には読解に困難をともなうが、地域とはなにか、地域史研究は何をあきらかにする学問かなどを考えるうえで多くの提示があり、示唆に富む書である。
書評『種痘伝来』

2015年06月27日

 洋学 at 11:43  | Comments(0) | 書評
日本歴史』7月号が届いた。約1年以上前に書いた『種痘伝来』の書評がようやく掲載されているので、紹介する(一部書き加えてある)。

アン・ジャネッタ著、廣川和花/木曾明子訳『種痘伝来』
                           青木歳幸
 本書は、著者によれば「種痘を支持・支援するためのネットワークを構築した日本の医師と学者の献身的な活動と、その宿願達成の軌跡を跡づけたもの」(日本語版によせてⅴ頁)である。
序章では、中国人とオランダ商人が長崎で交易を行う排外政策(鎖国政策)をとっていた江戸時代の特質に触れ、ペリー来航以前のジェンナー牛痘法普及というさほど劇的ではない「開国」を蘭方医のネットワークを通して検証している。
 第一章「天然痘に立ち向かう」では、人痘の痘痂粉末を鼻孔に吹き入れる中国式人痘種痘法の中国への広がりと、腕に傷をつけて人痘漿を接種するトルコ式人痘種痘法のイギリスへの伝播、つまり1721年にイギリスで実施されたモンタギュー夫人の娘への実験成功などを検証している。また中国式人痘法由来の秋月藩緒方春朔の種痘活動を紹介している。
 第二章「ジェンナーの牛痘ワクチン」では、イギリスのジェンナーによる牛痘種痘法の公表と情報発信活動により、牛痘ワクチンが1798年から5年以内に世界各地へ広がった経過を伝えている。なかでもスペインから中南米、フィリピン、マカオ、広東へ伝えたパルミス医師や、東南アジアとくにバタヴイアへ伝えたラボルデ医師の普及活動が詳述され、興味深い。
 第三章「周縁を取り込む」では、ロシアから中川五郎治がもたらした牛痘書を、幕府天文方通詞馬場佐十郎が『遁花秘訣』(1820年脱稿)として翻訳するなどの活動を中心に叙述している。
 第四章「オランダとのつながりーバタヴィア、長崎、江戸」では、イギリス占領下のオランダ領東インド諸島でのラッフルズ卿による組織的な牛痘種痘普及活動が、同諸島に根付いたことを検証し、オランダ商館長ブロムホフが1820年から毎年痘苗導入を試みている新事実を明らかにした意義は大きい。シーボルトの牛痘接種の試みは失敗したが、シーボルト離日後、江戸での宇田川家の翻訳書刊行や各地のシーボルト流蘭方医らの水平的ネットワークの形成により、19世紀初頭の数十年間に、西洋医学・学術への内的障壁が取り除かれていく過程を描いている。
 第五章「ネットワークを構築するー蘭方医たち」では、牛痘を導入するために尽力した蘭方医として日野鼎哉、伊東玄朴、大槻俊斎、佐藤泰然、緒方洪庵、桑田立斎、笠原白翁ら七人の医家の医療活動を牛痘導入のネットワークの視点から紹介している。
 第六章「種痘医たち」では、1849年(嘉永2年)、長崎に来した牛痘ワクチンを佐賀、京都、江戸など日本各地へ伝播させるために、楢林宗建ら蘭方医たちが、それまでに築き上げていたネットワークを活用して、種痘技術を向上させ、啓蒙書を出して大衆を説き伏せて急速に伝播させたその努力と活動を追跡した。
 第七章「中央を取り込む」では、伊東玄朴ら日本の種痘医らが1858年にお玉が池種痘所を設立し、徳川幕府を取り込んでいったことが、東京大学医学部に至る日本における近代医学と大学制度整備に直接つながったことを描いた。
 以上が本書の概要であるが、村田路人・廣川和花氏が、本書の意義を巻末解説で次の四点にまとめている。その第一は日本の牛痘種痘史をグローバルな観点から世界の牛痘種痘史のなかに位置づけたこと、第二は、近世日本の医家ネットワークの重要性を再認識させたこと、第三は新たな史料を活用し、日本牛痘種痘史に新しい事実を付け加えたこと、第四は、近世日本の学術において「翻訳」の果たした役割を見直し、これを位置づけ直したことをあげており、これらはすでに的確な書評となっているので、本稿では医学史研究上の成果に絞って書評する。 
 本書の医学史研究上の最大の成果は、我が国への牛痘苗伝来日が、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)であり、楢林宗建の子建三郎ら三児への接種日がその三日後の8月14日(6月26日)であったと特定したことと考えている。
 じつは、我が国種痘伝来における重要なこの両日が本書刊行まで特定できていなかった。主な研究書をひもといても、富士川游『日本医学史』(1942年)には「翌嘉永二年七月入港ノ蘭船ニテ牛痘痂モーニッケノ許ニ達セリ、由リテ之ヲ三名ノ児ニ種痘セシニ、二児ハ感ゼザリシモ、一児ハ感受シテ善良ノ痘ヲ発セリ」とあり、嘉永2年7月の伝来とし、種痘実施日も不明であった。古賀十二郎『西洋医術伝来史』(1942年)・添川正夫『日本痘病史序説』(1987年)・深瀬泰旦『天然痘根絶史』(2002年)はいずれも嘉永2年6月伝来としたが、伝来日を特定していない。
 種痘実施日については、じつは諸研究書でも記述が少なく、渡辺庫輔『崎陽論攷』(1964年)が6月23日とし、深瀬泰旦『我が国はじめての牛痘種痘』(2006年)では、7月7日、17日、19日説と古賀十二郎の6月下旬説を紹介したが、特定にはいたっていない。
 この混乱の理由解明と検証は、本書評の紙数を超えるので、別稿を用意する予定だが、評者はオランダ商館日記や、長崎奉行所の記録、柴田方庵の『日録』などの調査により、著者の記述が正しいことを裏付けており、本書のこの記述を高く評価している。
 一方で、本書は、牛痘伝来後の日本各地への伝播の様相については、主に『洋学史事典』(1984年)、『天然痘ゼロへの道』(1983年)など約30年前の研究に依拠した面が多々あるため、その後進展した研究成果が反映されていない問題がある。
 たとえば、緒方春朔の人痘法は中国式鼻孔吹入法を改良した鼻孔吸入法であったことに触れていない(青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要、第7号、2013など参照)。また春朔式人痘法が「彼のいた藩以外にはほとんど影響を与えなかったようである」(26頁)とあるが、春朔の門人が江戸も含めて六九人余もおり(富田英壽『種痘の祖緒方春朔』西日本新聞社、2005)、大村藩医長与俊民ら三人が春朔に入門し、技術習得後、大村藩で春朔式人痘法を実施しているし、江戸の司馬江漢も「緒方氏ハ六百人をためしぬ」(『種痘伝法』)と記し、シーボルトや華岡青洲門人の本間棗軒も「(人痘種痘で)高名なるは肥前大村の吉岡英伯・長与(俊)春達、筑前秋月の緒方春朔、武州忍の河津隆碩、江戸近村木下川の庄屋次郎兵衛なり」(『種痘活人十人弁』)として春朔の高名を讃えているし、かの緒方洪庵ですら春朔式人痘法を実施(結果は失敗)しており(青木歳幸前掲論文、2013)、春朔式人痘法はかなりの影響を与えていた。
 また日本での人痘法には、春朔式鼻吸入人痘法だけでなく腕種人痘法がじつは蘭方医によってかなり広範に実施され、伊東玄朴も大槻磐渓娘や前宇和島藩主娘に実施し(青木歳幸『伊東玄朴』2014)、本間棗軒も、自家の子女のみならず近在の小児ら六〇〇人に(腕種)人痘種痘を行ったと述べている(『種痘活人十全弁』)。牛痘法普及の前提として人痘法の影響は大きいと考えられ、とくに腕種人痘法の普及が牛痘法普及に直接結びつくと考えているが、その実態解明は進んでいない。
 著者は、佐賀藩主鍋島直正が侍医大石良英を長崎に派遣し、良英が「楢林宗建の長男永吉を伴って佐賀に戻った」(150頁)としているが、じつは佐賀城下に牛痘と種痘児をもたらしたのは良英でなく、楢林宗建が長男でない種痘児を伴って8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日に藩医の子へ種痘を実施している(青木歳幸『伊東玄朴』2014)のであり、事実ではない。藩医の子に植えられた痘苗が約一週間ずつの接種→発痘→採取→接種のサイクルを二サイクル経て後に藩主の子に接種され、それが江戸にもたらされ、江戸のお玉が池種痘所につながったのである。
 国内での種痘伝播研究は、かようにまだ十分ではない。だからこそ、本書を手にした国内研究者と著者のようなすぐれた海外研究者との研究ネットワークによって、医学史研究の新たな進展が生まれよう。
[あおきとしゆき 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命教授]
[A5判、254ページ、4320円、岩波書店、2013・12刊]

新刊紹介「近世化」論と日本


◆『「近世化」論と日本』(勉誠出版、2015年6月25日、2800円)が出た。本書は、約10年前ころからの歴史学研究会において、近代化論があるのになぜ近世化論がないのか、東アジアの近世と日本の近世とはどうリンクするのか、しないのか等の議論と問題意識から、2012年の歴史学研究会部会合同シンポジウム「近世化論と日本ー東アジアの捉え方をめぐって」での発表がもとになっての論考集である。
◆編者清水光明氏によれば、「東アジア近世」論や「近世化」論とはなにかを把握するために、第Ⅰ部は「近世化」論における日本の位置づけを、小農社会、新興軍事政権、朱子学理念から考えるとし、第Ⅱ部は、「「東アジア」の捉え方」と題し、対外関係史や比較史研究によって捉え直し、第Ⅲ部は、「近世史研究から「近代」概念を問い直す」として史学史や時代区分、規範等の観点から「近代」概念を問い直そうとしているとした。
◆Ⅰ部には牧原成征「日本の「近世化」を考える、杉山清彦「二つの新興軍事政権ー大清帝国と徳川幕府」、岸本美緒「「近世化」論における中国の位置づけ」(コラム)、綱川歩美「十八世紀後半の社倉法と政治意識ー高鍋藩儒・千手廉斎の思想と行動」、清水光明「科挙と察挙ー「東アジア近世」における人材登用制度の模索」、朴薫「東アジア政治史における幕末維新政治史と”’士大夫的政治文化’の挑戦」、道家真平「「明治百年祭」と「近代化論」」(コラム)などを掲載している。
◆Ⅱ部には、清水有子「織田信長の対南蛮交渉と世界観の転換」、木崎孝嘉「ヨーロッパの東アジア認識ー修道会報告の出版背景」、吉村雅美「イギリス商人のみた日本のカトリック勢力ーリチャード・コックスの日記から」、根占献一「ヨーロッパ史からみたキリシタン史ールネッサンスとの関連のもとに」(コラム)、屋良健一郎「近世琉球の日本文化受容」、井上智勝「近世日越国家祭祀比較考ー中華帝国の東縁から南縁から「近世化」を考える。藍弘岳「「古文辞学」と東アジアー荻生徂徠の清朝中国と朝鮮に対する認識をめぐって」(コラム)、岡崎礼奈「「アジア学」資料の宝庫、東洋文庫九十年の歩み」(博物館紹介)などから、東アジアと日本を捉え直している。
◆第Ⅲ部には、宮嶋博史「儒教的近代と日本史研究」、三ツ松誠「「近世化」論から見た尾藤正英ー「封建制」概念の克服から二時代区分論へ」、中野弘喜「歴史叙述から見た東アジア近世・近代」(コラム)、古谷創「清末知識人の歴史観と公羊学ー康有為と蘇輿を中心に」、佐々木紳「オスマン帝国の歴史と近世」(コラム)、高津秀之「ヨーロッパ近世都市における「個人」の発展」、三谷博「東アジア国際秩序の劇変ー「日本の世紀」から「中国の世紀」へ」(コラム)が掲載され、東アジアの近世・近代をさまざまに論じている。
◆再び編者の解説にもどると、「近世化」論は従来の古代・中世・近世・近代の4段階区分論にのって、そのなかでいつから近世が始まったのかという議論から開始され、東アジアのなかでどのような位置づけにあるかという比較史的検討が開始され、「近世化」の指標や時期設定についての研究が開始されたのであるとし、さまざまな角度からの指標や説明モデルの提示によって、議論や相互批判を活性化することになるのだろうということで、本書ではそれぞれの近世化とはなにか、東アジアにおける日本の近世の意味とは何かの論が出され、統一的な見解は出されていない。
◆このように多様な論者によって様々な角度から、日本「近世化」論が語られている。編者によれば、どこか気がついたところから読んでいただければという。佐賀大学地域学歴史文化研究センター講師の三ツ松氏による尾藤正英氏と宮嶋博史氏の論は表裏一体であるという指摘が印象的であった。本書は21人もの多様な分野の執筆からなり、それぞれの「近世化」論や東アジアの近世論が語られていて、統一的見解がないので、百家争鳴の迷路にはいったような気持ちにもなり、ハードであるが、本書全体を時間があるときにじっくり読んでみたい。
◆補筆をしておくと、医学史の分野では、真柳誠(茨城大学)・肖永志(中国中医科学院)両氏による「漢字文化圏古医籍の定量的比較研究ー各国伝統医学が共有可能な歴史観の確立」http://www.jfe-21st-cf.or.jp/jpn/hokoku_pdf_2008/asia08.pdf…’
(JFE21世紀財団報告書、pp67~78)が、本書の各論部分を適切に構成することになろう。関心のある方はあわせて読むことをおすすめする。真柳誠「日韓越の医学と中国医書 」(日本医史学雑誌 56巻2号. 151-159 、2010)などの同氏の漢字文化圏における医学史研究の成果と視点は、我が国近世医学史研究において最も重要な指標の一つになるだろうと考えている。また近年においては町泉寿郎(二松学舎大学)氏の一連の研究(たとえば科研「漢籍抄物を中心とした中世末期~近世初期の学術的展開に関する基礎的研究 」2010~2013など)も重要である。
◆医学史の分野からは本草学研究についても重要な視点を提供することになる。その意味では、ミヒェル・ヴォルフガング氏の近年の本草学研究も西洋だけでなく中医学史・近世医学史に、新鮮な視点を提供してくれるだろう。
◆このように、各研究分野での指標を出しあい、比較しあうことは「近世化」論争においては、それなりに多様な議論をもたらし、「近世」を再吟味する意味を豊かにすることになろう。が、あえて時代区分についての感想をのべれば、やはり日本では、社会構造の変化を基底にすえた原始・古代・中世・近世・近代(現代)という時代区分論が今のところ最も整合性のあるように考えてはいる。  

除痘館記録を読み解く

2015年07月25日

 洋学 at 07:59  | Comments(0) | 書評
◆緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館」記録を読み解く』(緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室、思文閣出版、2015年6月10日、2300円)が出ました。第一部が「除痘館記録」を読むで、影印や現代語訳、解説があります。第二部に天然痘対策と除痘館活動として米田該典「天然痘との闘い」浅井允晶「緒方洪庵と「除痘館記録」の解説があります。第二部は大阪の除痘館の成立と展開として、米田該典「モーニッケ苗の伝来と展開」、浅井允晶「大阪の除痘館の記録」、古西善麿「大阪の除痘館の活動と官許」、古西善麿「尼崎町除痘館の創成と展開」、第三章牛痘種痘法の意義と役割として加藤四郎「エドワード・ジェンナーによる牛痘種痘法の開発」、加藤四郎「天然痘対策の今日的意義」、巻末に天然痘と大阪の除痘館関係年表を載せています。◆『除痘館記録』を影印本にし、現代語訳をつけていることにより、除痘館での種痘普及の努力と工夫にたいする理解を深めることができます。各論文も実証的で的確です。加藤四郎氏は、こうした種痘普及活動の今日的意義を予防医学の先駆と評価しており、同意できます。◆ただ、アンジャネッタ『種痘伝来』を参考文献にあげているのに、モーニッケ苗の我が国伝来日を正確に書かずに、旧来の説である嘉永2年6月ととどめているのは残念で、伝来日を6月23日と書いてよかったと考えます。おそらく種痘接種日が、楢林宗建の記録などには7月17日とあるので、日の特定に迷っているのだと思いますが、種痘接種日は伝来から3日後の6月26日でよいと考えています。◆今後の展開として、古西氏の尼崎除痘館の創成と展開にみられるように、大阪除痘館を基点とした除痘館活動、種痘普及活動がより解明されていくことが望まれます。たとえば、土佐の種痘は、緒方洪庵に学んだ門人らにより伝えられ、洪庵の義弟緒方郁蔵の門人84人中土佐出身者が26人おり、彼らの種痘活動もどのように進められていったか、より詳細に調査することで、種痘をきっかけに在村蘭学の広がりを図示することができると考えます。◆なお、隣の伊予宇和島では、江戸の伊東玄朴から送られた痘苗と道具により玄朴門人富沢礼中により進められました。このとき高野長英は伊予にいました。玄朴門人であった富沢礼中が高野長英を伴って伊予宇和島に戻っていたのです。四国でもさまざまなルートによって、種痘が村の中まで広がっていったのです。こうしたルートの解明もまた今後の課題です