佐賀医人伝、犬尾文郁

 佐賀医人伝物語
犬尾文郁 (文化元年?~明治三年 一八〇四?~一八七〇) 
       諫早領主侍医・内科医
 諌早領医師犬尾文郁は、医家犬尾官吾の子として生まれた。官吾は天保一二年(一八四一)九月五日に没している。墓碑には観山了梧居士とある。文郁は、医業を父や近隣の医師田嶋牛庵に学び、さらに佐賀城下で佐賀藩医牧春臺に学んだ。
 文郁の生年を推察する史料が四点知られる。①佐賀藩は、天保五年(一八三四)、医学寮を設立するにあたり、領内の医師調査を行った。『諫早日記』には、諫早家から俸禄を貰っている医師三六人が書き上げられ、その中に、「廿三歳 諫早犬尾文郁」の名前があった。逆算すると文化九年(一八一二)生まれとなる。②嘉永四年(一八五一)から、佐賀藩は領内医師の医学水準を高めるため、一定の力量に達しない医師には免許を与えない医業免札制度を開始した。事前の領内医師調査があり、『諫早日記』には九二人の領内医師が書き上げられ、文郁も「亥四拾八才 御名家来 牧春臺・亡田嶋牛庵弟子 犬尾文郁 諫早」と届けている。③文郁が、佐賀藩から開業免許を得たのは嘉永六年八月二〇日のことで、『医業免札姓名簿』の同日の記録には、同領医師の野口良陽の次に「一 故牧臺堂門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」と記載されている。益千代は一三代諫早領主の諫早益千代茂(しげ)喬(たか)のことである。④安政六年(一八五九)にも佐賀藩領内医師調査があり、『諫早日記』では「同(年)五十六 内治 竹ノ下 犬尾文郁」とある。②、③、④は、いずれも逆算すると文化元年(一八〇四)生まれと推定できるのでこれに従う。
 文郁は、役之間独礼医師として諫早茂喬に仕えていた。いったん、暇をもらって佐賀から諫早に帰って馬をとめてとどまることもない程の忙しいときに、(領主茂喬が佐賀の諫早屋敷で病気に臥せった知らせをうけ、)春風の中、百里の道を小舟でやってきて、茂喬の側で三ヶ月もの間、恪勤(かっきん)して治療をしてくれたので、私(茂喬)の病は君の力ですっかり快癒したという感謝の謝表をいただいている。恪勤は、力を尽くして仕えること。
 文郁の医塾は、諫早の輪打名(わうちみょう)竹の下(現在の諫早市泉町)にあり、回春堂といい、そこへ元治元年(一八六四)に、菅原柳溪少年が入門した。柳溪の記録をみると、犬尾家では毎日八〇人から少なくとも五〇人以上の漢方薬を処方していた(『諫早医史』)とあり、繁昌していた医家であった。
 文郁は、明治三年(一八七〇)一一月二三日に没した。賢外文郁居士という。推定六七歳。子がなく、津(つ)水(みず)(現諫早市津水町)の嘉村家から文友を養子に迎えた。文友は、領主の命により、文久四年(=元治元年・一八六四)に同郷の執行祐庵、木下元俊らと共に、佐賀藩医学校好生館で西洋医学を学び、勉学中は藩より三石五斗を給された(『諫早市史』)。帰郷して、養父の医業を嗣いだ。北高来郡(きたたかきぐん)医師会の創設にあたり、明治一七年(一八八四)には初代会長となり、組合医会の組織化をすすめた。北高来郡の一部は長崎市で、大部分は現在の諫早市にあたる。諫早医師会の草分けとして活躍した文友は、明治四一年一一月二三日、七三歳で没した。墓碑には「竹荘院壽英文友居士」と刻まれている。
 文友の嫡子寅九郎は、医を志したが、途中で断念し、北高木郡役所に勤務したのち、北諫早村の最後の村長となった。昭和一五年(一九四〇)三月一六日没、七五歳。寅九郎長男貞治は、明治三四年一一月一五日生まれで、東京帝国大学医学部に進み、東大内科医局勤務を経て、昭和八年に諫早市泉町に犬尾医院を開業し、戦時中は一時大村海軍空廠共済病院諫早分院となったが、戦後再開して、昭和四一年に長男博治に譲った。昭和六三年一〇月三〇日没、八八歳。
【参考】『諫早医史』(一九九一)、『諫早市史』(一九五五・一九五八・一九六二)、『竹の下物語―犬尾博治備忘録』(二〇一五)、犬尾博治氏所蔵資料・墓碑
写真解説 
①草場佩川が書いた犬尾文郁塾の「回春堂」名。額装(諫早市犬尾博治氏蔵)。
②諫早市泉町山ノ上、通称美濃に建つ「寂光院」墓碑。犬尾家累代の墓碑である。
③『医業免札姓名簿』(佐賀県医療センター好生館蔵)にみる犬尾文郁の免状記録。「(嘉永六年)丑八月廿日 一 故牧春臺門人 益千代殿家来 内科 犬尾文郁 五拾才」とある
④「送犬尾文郁 告暇帰郷駐不留春風百里放扁舟恪勤在側已三月吾病全然頼汝瘳  印 印」とあり、文郁が茂喬の病を治癒させた感謝の文章(『竹の下物語』所収)。
⑤犬尾博治氏と2016、11,16撮影。

佐賀医人伝を執筆してー天野房太郞ー

『佐賀医人伝』メモ(2)

天野房太郞。唐津出身医師。ずっと以前に医史跡マップ作成のときに、伊万里市へ調査にでかけ、写真撮影をしたことがあった。今回、再度、碑文調査のため、昨年10月19日に、再調査にでかけた。7.8年前は、伊万里市波多津町辻の高尾山公園も整備されていたが、今回はベンチも汚れ、人影もなく、やや寂れていた。天野翁頌徳碑は、高尾山公園の中腹の、金比羅社参道中腹にあった。碑文は、風化していて読みにくかったが、幸い、『伊万里市の碑文』という先駆的研究で解読してあったので、確かめつつ、記録した。
 ただ、碑文には唐津藩士の子とあるだけで、着到帳などで確かめることができなかったことや現在の御子孫が不明なのが残念。
 ただし、唐津藩士天野家出身者といえば、東京専門学校(早稲田)で教鞭をとった経済学者天野為之が知られる。為之は、唐津藩江戸屋敷詰の唐津藩医天野松庵、藩医天野松庵・鏡子夫妻の長男として生まれたとあるので、おそらく天野房太郞と親戚筋であろう。今後の課題でもある。

天野房太郎(文久二年~昭和一六年、一八六二~一九四一)                唐津の仁医

唐津藩士の子として生まれ、好生館で修業後、東京で細菌法医学精神学校衛生諸科に学び、明治二六年(一八九三)、波多津村辻(現伊万里市)で開業した。以来三〇年、患者の貧富の別なく、薬代や治療費も安くし、近くも遠くも平等に治療するという医は仁術の精神で、地域医療に従事した。大正一一年(一九二二)、房太郎六〇歳を記念して、区長ら一二名がその寿福無窮を願って頌徳碑を発起し、正三位子爵小笠原長生(ながなり)(旧唐津藩主)の書になる碑を、高尾山公園に建立した。
君通称房太郎、唐津藩士也、少壮学於佐賀医学校、事業後、及第於医術開業試験而為医士、君不満仮之、更登東都、究納菌法医精神学校衛生諸科之蓮奥、帰来歴任于検疫官・学校医・村医等、明治二十六年開業於波多津村、春風秋雨三十年如一日矣而、君之接患者也不問親疎、不論貧富、慎重懇切至矣尽矣、遠近知與不知、皆集君門、君慈仁博愛、恤無告救窮之、其開業之初、先廃診料、低薬価、宏開施療、齋生之道、得一村之保健悉依君而安定、人々以欽仰軒岐、頌揚其高徳。今茲大正十一年、君齢達耳順、元気益々旺盛精励、于業務壮者亦不及焉、業間或親書畫、或愛謡曲、以大発揮英雄、胸中閑日月児孫詵々満干内、和気洋々益于可以知、君之前途躋、古稀・米齢而九十而、百積善之寿域、尚無窮、茲村有志胥謀、欲勒(刻)君之高徳、於石以伝于不朽、令予叙之、銘日 術究軒岐 徳覃西郷以寿以福 山高水長

大正十一年十月中幹 正三位子爵小笠原長生書、西松浦郡長正六位勲五等福田三郎選
【参考】『波多津町誌』(一九九九)、『伊万里市史』教育・人物編(二〇〇三)、『伊万里市の碑文』(二〇〇五)。

シーボルト記念館鳴滝紀要27号

◆シーボルト記念館鳴滝紀要27号が届いた。遠藤正治「シーボルト編『日本植物目録』の改訂稿について」、マテイ・フォラー「シーボルトと北斎」、堅田智子「シーボルト、ミシャリエス、スクリバの明治」、町田明広「シーボルト書簡の新発見」、織田毅「近世中後期における長崎・出島の労働者について」などの内容を掲載。◆とくに『日本植物目録』とシーボルトの書簡新発見は、洋学研究史上重要な意義を持っている。これらの資料は京都の古書店主若林正治氏の旧蔵で、雄松堂書店(当時)の仲介で、神田外国語大学附属図書館に「洋学文庫」として収蔵されたもののなかにあった。◆本来は維新史研究者の町田氏が就任して、洋学文庫の目録づくりを担当することになり、調査を開始すると、植物目録に伊藤、賀来の日本名のほかにオランダ語の筆跡も見えた。◆そこで本草学やシーボルト研究に詳しい遠藤正治・鳥井裕美子・松田清の3人の研究者の協力を得て、調査をすすめると、この植物目録は、尾張のシーボルト門人伊藤圭介が、長崎に持ち込んだ1600種の植物標本に、シーボルトが伊藤と同じくシーボルト門人の賀来佐之(かくすけゆき)に、学名と和名をつけることを命じたものであったことが判明した。◆シーボルト自筆書簡の新発見とは、賀来が植物目録の作成中の1828年、シーボルト事件が起こり、シーボルトが賀来に、この目録の作成を急がせた書簡が、洋学文庫のなかから発見され、2016年2月にNHKで放送されたものであった。◆結局、シーボルトはこの植物目録を手にしてオランダに帰国することなく、やがて神田外国語大学の洋学文庫のなかに収められることになったのだが、この目録や書簡から、従来あまり注目されていなかった豊後出身蘭学者賀来佐之が、植物についての抜群の学識と語学力を有していたことなどが判明したのであった。

中井常次郎と東京府癲狂院

◆相良知安さんの御子孫相良隆弘さんと、相良家文書を読んでいる。そのなかに 東京府癲狂院長の中井常次郎なる医師の名前が出てきた。癲狂院は精神病院のこと。
◆『岡田靖雄著『私説松沢病院史』(1981・岩崎学術出版社)』によれば、 日本最初の公立精神病院は明治5年(1872)創設の京都療病院付属癲狂院で、京都府が南禅寺方丈に設立し、明治8年(1875)年7月25日に開業した。作業療法など施され、かなり進んだ治療がなされていたらしい。しかし地方財政の悪化で、この最初の公立精神科病院は82年10月に廃止されて、その医療器具、調度は私立癲狂院(現川越病院)に引き継がれた。京都癲狂院に続いては明治11年(1878)に東京に私立の癲狂病院(もと狂疾治療所)と、瘋癲病院が、翌年には府立の東京府癲狂院および私立の瘋狂病院(のち根岸病院)が設立された。87年当時の癲狂院は、東京府に4院(うち公立は1)、京都府に3院、大阪府に3院であった。精神科病院がこのように三府、なかでも東京府に偏在する傾向は大正年代いっぱいまで続く。東京府癲狂院は89年に、患者がその名を嫌って入院を拒否するからとの理由で、東京府巣鴨(すがも)病院と改称された。ついで精神病院を院名に入れるものが出、98年の東京脳病院あたりから脳病院を称するものが増加してきて、癲狂院・癲狂病院の呼称は大正時代に消滅した。この呼称は、日本で精神疾患に対する施策が貧困で、公的な精神科病院がほとんどなかった時代を象徴していると岡田さんは述べている。
◆東京府巣鴨病院は、大正8年(1919)に世田谷の現在地に移り、「東京府松澤病院」として診療を始め、現在に至っている。
◆中井常次郎は、この東京府癲狂院の第2代院長で、じつは、日本精神病史に残る事件にも関わっている。岡田靖雄「大隈重信と日本の精神衛生運動」(『日本医史学雑誌』第54巻第1号、2008)によれば、大隈重信が玄洋社員に爆弾を投げつけられて負傷し、膝上から右脚を切断せざるをえなくなった。このときの執刀医が佐藤進で、「前東京府癲狂院長の中井常次郎は当時,外務大臣官舎医務嘱托で、このときの治療にもあたった」とある。
◆もう一つは東京府癲狂院における相馬事件である。公益社団法人日本精神神経学会のホームページ(https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php…)によれば、相馬事件とは、旧中村藩(現・福島県)主相馬誠胤が、24歳で緊張病型分裂病とおもわれる精神変調にかかり、自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりした。1883年頃から旧藩士の錦織剛清らは、殿様の病気は、御家の財産を乗っ取るために、精神病院へ無理矢理押し込んだものと訴えを起こしていた。そしてとうとう、明治20年(1887)に錦織は、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた。 相馬の死後1年して錦織は、殿様の死は毒殺だと告訴し、相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが拘留された。 中井は”毒医”として有名になった。 また家令であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も、陰謀の中心人物として拘留された。 墓を掘り返し死体を調べたが、毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり、錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となった。 錦織に組みしていた後藤新平は、1893年(明治26)当時内務省衛生局長であったが、この事件に連座して局長を止めることになり、無罪となったのちは政治家に転進した。 万朝報はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していた。 この事件は外国にも、日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道された。
◆中井常次郎は佐賀出身の医師のようである、が、まったく知られていなかった人物で、今後、調査を続けたい。

大庭雪斎

佐賀医学史話。大庭雪斎について
■大庭雪斎はシーボルトに学んだか。
大庭雪斎、名は忞(つとむ)、字は景徳。雪斎と号す。佐賀藩士大庭景平(仲悦)の子で、同族の大庭崇守(寿庵)の養子となる。文政年間に島本良順(龍嘯)について蘭学を修行した。その後、長崎に出て、シーボルトに師事したとの伝承がある(呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』)が、確証がなく、むしろこれは間違いだろう。というのは、雪斎自身が、自著のオランダ語文法書である『訳和蘭文語』前編の安政二年一二月序文で、「不肖年三十九ニシテ初テ原本ヲ習読シ、今日ニ至ルマデ十有二年許、中間世累ノ為ニ看書ヲ怠ル者若干年、方今ハ厳命ヲ奉シテ原本ニ臨メトモ、研業年月浅クシテ、猶上面ニ一膜ヲ隔テタルカ如シ」と述べており、三九歳にして初めてオランダ語の原本を習読したとあるので、雪斎が蘭書を習読したのは、長崎でなく、次に述べる大坂時代のことと考えられる。
◆雪斎は、どこで蘭学を本格的に学んだか。緒方洪庵が、『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずにやってきて洪庵の門に入り苦労して大成したと書いてある。
◆洪庵の蘭学師匠は二人いて大坂の中天游と江戸の坪井信道である。古田東朔氏の調査によると、寛政一〇年~一二年にかけて刊行された志筑忠雄『暦象新書』上中下三巻に、雪斎が刪定を加えた安政四年(一八五七)の『暦象新書』の雪斎の序文に「余往年浪速ニ遊ビ、先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ。爾后ハ医事ノ紛雑ナルガ為ニ之ヲ筐中ニ納メテ顧ルコト無リキ。再遊ノ後ニ於テ、家族等愚昧ニシテ書籍ノ何物タルヲ知ズ、此書ヲ併セテ人ニ借与シ亡失セル、若干部若干巻ナリ」とある。
◆雪斎の師は大坂の蘭学者中天游であり、天游の蘭学塾思々斎塾で洪庵とともに蘭書を学んだあと、いったん郷里に帰り、ふたたび大坂に来て、洪庵の適塾に通ったのであった。洪庵は文政九年(一八二六)七月から天保元年(一八三〇)まで天游塾に学んでいるので、雪斎もこの四年間のある時期に洪庵とともに天游の思々斎塾で、医学のみならず『暦象新書』など自然科学的な素養を身に付けたのだった。
◆大坂で修行した時期と場所はどこか。
郷里に帰ってから再び大坂に遊学した雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化二年)に、「内科 今橋二丁目 大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所にあった。
大坂再遊の期間は、中野操氏旧蔵の浪速医師見立番付による調査では、天保一五年(弘化元年、一八四四)二月版には、雪斎の名前がなく、弘化二年四月版に東前頭三六枚目に初見で以後番付が少しずつ上がって、弘化三年四月版で西前頭三〇枚目、弘化四年五月版で西前頭二〇枚目と少しずつ番付けがあがり、弘化五年(嘉永元年)五月版には、雪斎の記載がなくなっているので、弘化二年、三年、四年の三年間で、この間に医業を開きつつ、適塾に通って蘭学学習・原書講読を深めたものと思われ、さきに『訳和蘭文語』で三九歳のとき初めて原書を講読しというのも弘化二、三年のこの
修行のときと合致する。
◆洪庵の塾で研鑽をつみ、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文に、次のように
          足守  緒方章公裁
              義弟郁子文 同訳
          西肥  大庭忞景徳 参校
と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになった。
洪庵の門人帳『適々斎塾姓名録』には、天保一五年正月からの六三七人の名が書き継がれているが、この門人帳には雪斎の名前がない。それは、雪斎が洪庵の同門であり、客分的な存在であったからであろう。
◆なぜ大坂を選んだか。
じつは、雪斎の最初の蘭学師匠島本良順(龍嘯)が、文政五年(一八二二)から大坂に出て天満町で開業し、大坂に出て三年後、文政八年九月発行『浪花御医師見立相撲』(大坂医師番付集成12 思文閣出版)に、「頭取 テンマ(天満)島本良順」と初めて記されるまでになった。さらに翌文政九年、文政十一年の『浪花御医師名所案内記』や『海内医人伝』にも記載され、きわめつきは、文政十二年三月刊の『俳優準観朧陽医師才能世評発句選』には、「解剖 中環 糸町端、精緻 島本良順 西天満、窮理 橋本曹(宗)吉 塩町」と紹介されている。
良順の右隣は解剖の得意な中環とあり、緒方洪庵の師でもある中天游のことで、左隣は、窮理(物理学)で著名な我が国電気学の祖ともいわれる橋本宗吉であった。解剖と窮理で高名な二人に並んで記載されるほどの「精緻」な蘭方医として評価されるようになっていた。良順の学問的志向が、医学だけでなく自然科学にもむけられており、こうした良順の影響により、雪斎は大坂を目指したのであろう。
◆帰国後の大庭雪斎はどうしたか。
雪斎は、嘉永四年(一八五一)藩の初代蘭学寮教導となり、安政元年(一八五四)に弘道館教導となり、オランダ語の文法書『訳和蘭文語』前編を安政三年、同後編を同四年に刊行し、オランダ語学習には文法を学ぶことの重要性を、わかりやすい口語体で紹介した。安政五年(一八五八)に好生館ができるとその教導方頭取となり、西洋医学教育を推進した。文久二年(一八六二)には、物理学入門書『民間格知問答』を刊行し、教授した。佐賀藩の西洋医学・自然科学を率先して推進したのであった。
◆雪斎はその後どうなったか。
慶応元年(一八六五)に職を辞した雪斎は、維新後の明治六年三月二八日に没し、伊勢町天徳寺に葬られた。六八歳。法名を義山常忠居士という。
オランダ語に秀で、多くの著作物を残した。『遠西医療手引草』、『民間格知問答』(元治二年・一八六五)、『訳和蘭文語』(安政二年、三年・一八五五。
五六)、『液体究理分離則』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)、『(ヘンデル)算字算法起原或問』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)

種痘伝来28年度計画

今後の研究の推進方策

九州諸藩の種痘伝播と医学教育の比較研究のため,7月16日・17日に鹿児島・宮崎で28年度第一回研究会を開催し,各自中間研究発表を行い,進捗状況を確認し,島津集成館、若山牧水記念館等、同地の種痘及び医学連資料調査を行う。若山牧水記念館には、牧水の祖父若山健海が日向で実施した種痘記録が保存されているからである。さらに,10月21日~26日の第6回在来知歴史学国際シンポジウムに参加し、日中の医学教育の比較研究を行い、研究報告もする。12月に第2回研究会を我が国最初の種痘実施地沖縄で開催し、琉球大学付属図書館蔵球陽付巻などから琉球での種痘実施を調査する。最終年度における報告書(含む資料集)の刊行準備や資料選択についての調査研究を深める。代表者青木歳幸は古文書読解に堪能なアルバイトを雇用し、佐賀藩(蓮池藩等)種痘資料の翻刻をすすめる。研究の順調な進展を図るため、研究者相互の連絡を密にして、また蒐集した資料は、随時、ホームページやブログ等で更新し、公開し、研究を推進する。

種痘伝来28年度計画。27年度実施報告

27年度種痘伝来実施報告

(最大800字,現在550字)

研究初年度は,各自調査と研究発表会を実施した。第1回研究会を7月1日,佐賀大学附属図書館において開催し24年度計画を立案し,佐賀藩支藩小城鍋島文庫共同調査を実施した。第2回研究会を,研究代表者青木歳幸がGeneral Chairである10月25日~26日の第二回在来知歴史学国際シンポジウム(ISHIK2012,於佐賀大学)に合わせて開催し,研究分担者ミヒェル・ヴォルフガング,研究協力者海原亮が発表をした。

各自調査及び研究発表:代表者青木歳幸は,佐賀藩好生館資料調査,種痘関係資料調査及び伊東玄朴象先堂調査を実施し,「近世佐賀の地域特性と普遍性―医学史の視点から」(『地域史の固有性と普遍性』,地域学歴史文化研究センター,pp97~102,2013),「種痘にみる在来知」(佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要,第7号,pp1~21,2013)の論考成果を得た。ミヒェル・ヴォルフガングは,村上医家史料館・大江医家史料館の医家資料の重点的調査を行い,「伝統と革新―江戸・明治期の日本における医科器械」(『Proceedings of International Symposium on the History of Indigenous Knowledge(以下ISHIK2012)』,pp61~67,2012)を発表した。小川亜弥子は,長州藩医学校・種痘関係史料調査を山口県文書館を中心に行った。研究協力者海原亮は,「19世紀前半における地方藩医の蔵書と学問」(『ISHIK2012』,pp55~60,2012)を発表し,三木恵理子は京都小石家文書調査を行った。

 

現在までの達成度(最大800字)

年次計画に従って順調に調査研究が進展し,達成度は約3割である。佐賀藩医学教育に関しては,安政5年(1858)に開設された好生館においての西洋医学教育の実態が明らかになりつつある。同館蔵書蘭書目録によれば,佐賀藩の蘭医学書は104冊あり,外科書が17冊,解剖学書が10冊,内科書9冊などが判明し,明治初年の学則によればドイツ医学を中心とした西洋医学教育がすでに実施されていたことが判明し,明治4年の我が国ドイツ医学導入以前に,佐賀藩ではドイツ医学教育を展開していたことが判明した。中津藩では村上医家史料館,・大江医家史料館の史料整理・分析が進展した。長州藩に関しては,毛利家文庫に点在する個々の医学関係史料を重点調査した結果,これまで不明であった史料群の相互の関係,編綴の過程,及び残存形態について明らかにすることができた。これにより,長州藩医学教育の実態解明に係る基盤をほぼ整えることができた。

 

今後の研究の推進方策(最大800字)

諸藩の医学教育の比較研究のため,6月に中津で25年度第一回研究会を開催し,各自中間研究発表を行い,進捗状況を確認し,中津藩医学校関連資料調査を行う。さらに,9月14日の洋学史学会佐賀大会において,第二回研究会を開催し,研究発表にも参加する。10月24日~27日のISHIK2013にも参加し,日中の医学教育の比較研究を実施し,研究発表も行う。12月に山口で第3回研究会を開催し,中間発表を行うとともに,長州藩の医学教育・史料についての調査研究を深める。

最終年度の報告書(含む資料集)の刊行準備,とくに資料選択も並行して準備をすすめる。

 

次年度の研究費の使用計画

本年度は調査研究を主とするため,備品費・物品費10万円,旅費60万,人件費10万,諸費10万の使用計画ですすめる。

日本薬局方の先駆的史料の新発見

日本薬局方の先駆
◆このほど、佐賀大学地域学歴史文化研究センターで、『薬種商野中家からみる江戸時代の佐賀ー第7回地域学シンポジウムの記録』を刊行した。必要な向きは、センター(0952-28-8378)へ送料自費負担で申し込めば本代は無料で送っていただける。
◆井上敏幸「草場佩川と第7代野中恭豊、」、入口敦志「古活字版『延寿撮要』」、青木歳幸「野中家にみる解剖図」、三ツ松誠「小車社ー幕末佐賀の和歌サークルー」、伊藤昭弘「幕末維新期の野中家の経営」などのシンポジウム報告要旨のほか、野中源一郎・青木歳幸による浅田宗伯自筆の天璋院篤姫ら大奥診療日記『御殿診籍』や、伊藤昭弘『永代日記』などの翻刻を含む。
◆浅田宗伯の大奥診療記録も我が国医療史上大変貴重な新発見であるが、伊藤昭弘翻刻『永代日記』にも、日本の薬学史上、注目すべき史料がみつかったので紹介する。
◆『永代日記』は、天保15年(1844)から明治6年(1873)まで薬種商野中家と佐賀藩・佐賀県などとのやりとりを書き留めたもので、藩でいう御用日記のようなもので、いわゆる個人日記ではない。
◆嘉永4年(11851)6月19日に、野中家当主野中源兵衛は、製薬の鑑定につき次のような願いを藩役人へ提出した。
◆野中家が、調合をゆるされていた烏犀圓・反魂丹・地黄丸については、担当藩医らがその製薬に立ち会い、品質鑑定をしていたこと、そのため薬効と評判が佐賀藩領だけでなく、隣国から遠国までも広がり、繁栄できて有り難いことなどが記されている。
◆そして、「然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、」とあり、すでに医学寮には、嘉永4年段階で、製薬鑑定の役所である施薬局ができており、「施薬局鑑定」の押印により、牛黄・清心円其外之儀について製造・販売許可を与えるようになったことがわかる。先年がいつであるかはまだ不明であるので今後調査したい。この段階における鑑定による許可基準に成分までは含まなかったようで、諸藩における藩許の製薬レベルと同様であったろう。
◆安政5年(1858)に医学寮は好生館となり、佐賀藩の医療行政は好生館が担うことになった。好生館は、藩内医師の西洋医学への転換をすすめ、文久元年(1871)7月に、好生館から藩内全医師に対し、医師一統西洋法を学ぶようにすること、すでに開業免札をもらったものも西洋医学への再教育のために好生館の講義をうけること、文久三年(1863)までに西洋医学へ改めないものは配剤を禁止することになるという厳しい達しを出した。
◆領内全医師に対して、西洋医学への全面転換をせまり、西洋医学に改めないと配剤をも禁止するという内容であった。当時の医師は、藩医には給与があったが、多くは配剤によって生活費を得ていたから、配剤禁止は死活問題であった。従って、佐賀藩ではほぼ全医師が、江戸時代のうちに西洋医学を学ぶことになった。
◆西洋流への一統転換は、当然、漢方薬のあり方についても及んだ。西洋医学で禁止されている薬物が、漢方医学のなかに含まれていないか、医師の間で、当然議論になったのであろう。明治元年(1868)10月に、野中家から次のような願いが好生館へ出された。
◆烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹の儀について、藩からの鑑定のおかげで、評判もよく有り難いこと、薬方の儀につき、現在は西洋流の医方に変わってきているが看板や効能書は従来通りで御願いしたいとの願いであった。
◆これに対し、同年11月29日に丸散方などの薬方は鑑定により従来通り認めるが、「烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除捨ニ相成候」とある。つまり、烏犀圓の薬方成分である水銀・軽粉・白附子は、今後、使用禁止となったのである。
◆ここで重要なのが、好生館の医師らが、西洋医術にもとづいて、烏犀圓の58種ほどの薬種成分のうち、これら水銀・軽粉・附子などの有毒な成分を除外していることである。つまり、少なくとも江戸時代末期の佐賀藩では、好生館で薬学研究も進められ、日本薬局方の先駆的な製薬基準をつくり、有害と判断される物質を製薬から排除していたことが判明するのである。
◆日本薬局方は、明治13年(1880)10月に至って、衛生局長長與専齋の建議により、松方正義内務卿が太政官に「第一、本邦未た藥局方の律書あらす(略)」という伺書を出し、1886年(明治19年)6月に「藥局方」が公布されている。
◆その10数年前の江戸時代において、野中家史料を見る限り、佐賀藩では施薬局をつくり、薬剤への統制と基準づくりを強め、明治元年には、烏犀圓などの薬成分に、有毒成分としての水銀や軽粉、白附子を使うことを禁止するようになったのであった。
◆好生館の医師たちは、西洋医学の薬局方をもとに、我が国漢方薬の内容についても基準作りを目指していたことがわかった。これは、日本薬局方の先駆的業績であり、佐賀藩出身医師永松東海や丹羽藤吉郎らが、日本薬局方の制定や改正に参加したのも、そうした伝統があったからといえよう。
1.嘉永4年の烏犀圓等鑑定願
  乍恐奉願口上覚
某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、
然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、
其以後奉願候牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候
え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候処、
自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、
共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニ〆(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、
然末今又被仰達候は、打追之能書二鑑定之御印御申請候様無之て不叶旨被仰達奉畏候、
就は今又何角難奉願奉恐人侯え共、最前中上候通今更能書改候通ニては買入之向々何とか疑念を起し、
自然と咄口手薄ク可相成哉二付、右等之亘り奉案痛候、去迚ハ御達之旨も御座候処、
打追之通被成置被下候様ニも難奉願、依之重畳吟味合見候処、右能書別紙ニ〆当時御鑑定之御方々様御名前御印をも奉乞講売弘候はは、調合之時々厳密ニ御見分被成下候訳相響一際人気も引立、且は御手〆(締)宜訳こも差当申間敷哉と奉恐奉存候、
其通御聞済於被下は差免被置候調合之儀数代相渡り、我々家株相古ヒ居候候訳、自然と他邦へも相響、冥加至極御重恩猶又難有奉存候条、御支所無御座候はは何卒願之通被仰付被下候様、此段御筋々宜被仰達可被下儀深重奉願候、以上
  亥(嘉永四)六月十九日                    野中源兵衛
                                     野口丈次郎
                                     村岡大兵衛
別当 清次兵衛殿
別当 
別当 兵右衛門殿
                  
右之通願出候処、元々之通ニて施薬局鑑製之印、乞請ニ不相及候段、御当役
御聞届、御申候段、八月十六日町方御役所より三人御呼出ニて御達相成、但此
節町方代官高木権太夫殿・中野忠大夫殿也

2 明治元年烏犀圓等鑑定願への達書写
   烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹
右書載之丸散、先年来鑑定差免置候処、当時医術一般西洋法ニ被相改候ニ付、何分鑑定難相整、被御取上候段、相達被置候処、薬方取捨打追鑑定被仰付度、其人共より願出相成、薬方逐吟味被相改候ニ付、如願鑑定被差免候、尤鑑定印突整相成義候条、以来右印形乞請候様被仰付儀ニ候、以上
 辰(明治元年)十一月廿九日
右之趣奉畏候  以上
          此
          久保庄兵衛
          野口 恵助
          村岡勝兵衛
一 烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除籍ニ相成候

日本薬局方の先駆的史料の発見

日本薬局方の先駆
◆このほど、佐賀大学地域学歴史文化研究センターで、『薬種商野中家からみる江戸時代の佐賀ー第7回地域学シンポジウムの記録』を刊行した。必要な向きは、センター(0952-28-8378)へ送料自費負担で申し込めば本代は無料で送っていただける。
◆井上敏幸「草場佩川と第7代野中恭豊、」、入口敦志「古活字版『延寿撮要』」、青木歳幸「野中家にみる解剖図」、三ツ松誠「小車社ー幕末佐賀の和歌サークルー」、伊藤昭弘「幕末維新期の野中家の経営」などのシンポジウム報告要旨のほか、野中源一郎・青木歳幸による浅田宗伯自筆の天璋院篤姫ら大奥診療日記『御殿診籍』や、伊藤昭弘『永代日記』などの翻刻を含む。
◆浅田宗伯の大奥診療記録も我が国医療史上大変貴重な新発見であるが、伊藤昭弘翻刻『永代日記』にも、日本の薬学史上、注目すべき史料がみつかったので紹介する。
◆『永代日記』は、天保15年(1844)から明治6年(1873)まで薬種商野中家と佐賀藩・佐賀県などとのやりとりを書き留めたもので、藩でいう御用日記のようなもので、いわゆる個人日記ではない。
◆嘉永4年(11851)6月19日に、野中家当主野中源兵衛は、製薬の鑑定につき次のような願いを藩役人へ提出した。
◆野中家が、調合をゆるされていた烏犀圓・反魂丹・地黄丸については、担当藩医らがその製薬に立ち会い、品質鑑定をしていたこと、そのため薬効と評判が佐賀藩領だけでなく、隣国から遠国までも広がり、繁栄できて有り難いことなどが記されている。
◆そして、「然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、」とあり、すでに医学寮には、嘉永4年段階で、製薬鑑定の役所である施薬局ができており、「施薬局鑑定」の押印により、牛黄・清心円其外之儀について製造・販売許可を与えるようになったことがわかる。先年がいつであるかはまだ不明であるので今後調査したい。この段階における鑑定による許可基準に成分までは含まなかったようで、諸藩における藩許の製薬レベルと同様であったろう。
◆安政5年(1858)に医学寮は好生館となり、佐賀藩の医療行政は好生館が担うことになった。好生館は、藩内医師の西洋医学への転換をすすめ、文久元年(1871)7月に、好生館から藩内全医師に対し、医師一統西洋法を学ぶようにすること、すでに開業免札をもらったものも西洋医学への再教育のために好生館の講義をうけること、文久三年(1863)までに西洋医学へ改めないものは配剤を禁止することになるという厳しい達しを出した。
◆領内全医師に対して、西洋医学への全面転換をせまり、西洋医学に改めないと配剤をも禁止するという内容であった。当時の医師は、藩医には給与があったが、多くは配剤によって生活費を得ていたから、配剤禁止は死活問題であった。従って、佐賀藩ではほぼ全医師が、江戸時代のうちに西洋医学を学ぶことになった。
◆西洋流への一統転換は、当然、漢方薬のあり方についても及んだ。西洋医学で禁止されている薬物が、漢方医学のなかに含まれていないか、医師の間で、当然議論になったのであろう。明治元年(1868)10月に、野中家から次のような願いが好生館へ出された。
◆烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹の儀について、藩からの鑑定のおかげで、評判もよく有り難いこと、薬方の儀につき、現在は西洋流の医方に変わってきているが看板や効能書は従来通りで御願いしたいとの願いであった。
◆これに対し、同年11月29日に丸散方などの薬方は鑑定により従来通り認めるが、「烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除捨ニ相成候」とある。つまり、烏犀圓の薬方成分である水銀・軽粉・白附子は、今後、使用禁止となったのである。
◆ここで重要なのが、好生館の医師らが、西洋医術にもとづいて、烏犀圓の58種ほどの薬種成分のうち、これら水銀・軽粉・附子などの有毒な成分を除外していることである。つまり、少なくとも江戸時代末期の佐賀藩では、好生館で薬学研究も進められ、日本薬局方の先駆的な製薬基準をつくり、有害と判断される物質を製薬から排除していたことが判明するのである。
◆日本薬局方は、明治13年(1880)10月に至って、衛生局長長與専齋の建議により、松方正義内務卿が太政官に「第一、本邦未た藥局方の律書あらす(略)」という伺書を出し、1886年(明治19年)6月に「藥局方」が公布されている。
◆その10数年前の江戸時代において、野中家史料を見る限り、佐賀藩では施薬局をつくり、薬剤への統制と基準づくりを強め、明治元年には、烏犀圓などの薬成分に、有毒成分としての水銀や軽粉、白附子を使うことを禁止するようになったのであった。
◆好生館の医師たちは、西洋医学の薬局方をもとに、我が国漢方薬の内容についても基準作りを目指していたことがわかった。これは、日本薬局方の先駆的業績であり、佐賀藩出身医師永松東海や丹羽藤吉郎らが、日本薬局方の制定や改正に参加したのも、そうした伝統があったからといえよう。
1.嘉永4年の烏犀圓等鑑定願
  乍恐奉願口上覚
某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、
然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、
其以後奉願候牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候
え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候処、
自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、
共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニ〆(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、
然末今又被仰達候は、打追之能書二鑑定之御印御申請候様無之て不叶旨被仰達奉畏候、
就は今又何角難奉願奉恐人侯え共、最前中上候通今更能書改候通ニては買入之向々何とか疑念を起し、
自然と咄口手薄ク可相成哉二付、右等之亘り奉案痛候、去迚ハ御達之旨も御座候処、
打追之通被成置被下候様ニも難奉願、依之重畳吟味合見候処、右能書別紙ニ〆当時御鑑定之御方々様御名前御印をも奉乞講売弘候はは、調合之時々厳密ニ御見分被成下候訳相響一際人気も引立、且は御手〆(締)宜訳こも差当申間敷哉と奉恐奉存候、
其通御聞済於被下は差免被置候調合之儀数代相渡り、我々家株相古ヒ居候候訳、自然と他邦へも相響、冥加至極御重恩猶又難有奉存候条、御支所無御座候はは何卒願之通被仰付被下候様、此段御筋々宜被仰達可被下儀深重奉願候、以上
  亥(嘉永四)六月十九日                    野中源兵衛
                                     野口丈次郎
                                     村岡大兵衛
別当 清次兵衛殿
別当 
別当 兵右衛門殿
                  
右之通願出候処、元々之通ニて施薬局鑑製之印、乞請ニ不相及候段、御当役
御聞届、御申候段、八月十六日町方御役所より三人御呼出ニて御達相成、但此
節町方代官高木権太夫殿・中野忠大夫殿也

2 明治元年烏犀圓等鑑定願への達書写
   烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹
右書載之丸散、先年来鑑定差免置候処、当時医術一般西洋法ニ被相改候ニ付、何分鑑定難相整、被御取上候段、相達被置候処、薬方取捨打追鑑定被仰付度、其人共より願出相成、薬方逐吟味被相改候ニ付、如願鑑定被差免候、尤鑑定印突整相成義候条、以来右印形乞請候様被仰付儀ニ候、以上
 辰(明治元年)十一月廿九日
右之趣奉畏候  以上
          此
          久保庄兵衛
          野口 恵助
          村岡勝兵衛
一 烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除籍ニ相成候