井上友庵のこと
佐賀藩で文政7年(1824)閏8月5日に、華岡流麻酔による外科手術をおこなった医師がいました。名前を井上友庵といいます。蓮池藩医師で、華岡青洲門人でした。
井上友庵の外科手術の様子は、草場珮川(天明8~慶応3、1788~1867)の日記(『草場珮川日記』)に記されています。草場珮川は、佐賀藩家臣多久領の儒者で、のち佐賀藩弘道館教授になりました。佐賀藩儒者古賀精里に学び、文化8年(1811)には、幕府儒者となった古賀精里に随伴して、対馬に赴き、最後の朝鮮通信使との対話をしています。漢詩にすぐれ、頼山陽、篠崎小竹らとの交友もあります。著書は『津島日記』(文化8)、『珮川詩鈔』(嘉永6)などがあります。
『草場珮川日記』は、2冊あり、上が文化元年(1804)~文政5年(1822)、下が安政4(1857)までの日記です。その文政7年の記事にそれがあります。
「(文政七年(1824)五月十七日)…
為姱叔 訪井上友菴、謀其医瘤事、時友菴有疾」
妻の実家の西家五男在三郎姱叔(かしゅく)の頭部に瘤ができたので、華岡門人として知られていた蓮池藩医井上友菴(友庵)を訪ねて、診察を乞うたのでした。しかし、そのとき友庵も病気でした。そこで日を改めて、手術を御願いすることにしました。三ヶ月半ほどして、その機会がやってきました。珮川は、次のように記しています。
文政七年閏八月五日
姱叔為医瘤、相随到我舎
姱叔が、医瘤の手術のため、珮川の家にやってきました。
閏八月九日
姱叔在江原平治兵家、請井上友菴治瘤、友菴先遣弟徒、与麻沸湯、及
夜、友菴至時、眄(べん、両目がふさがる)眩已甚、瞳子散乱、摘肌不
覚、乃剖而療之。
姱叔は、手術のため、江原平治兵家へ移ります。井上友庵に治瘤を依頼したので、友庵はまず、弟子を派遣して、姱叔に麻沸湯を与えました。麻沸湯は、華岡青洲が考案した全身麻酔薬です。粉薬を通仙散と言います。
夜になって、友庵が到着した時、姱叔の両目はふさがり、眸を開いてみると瞳孔が散乱していました。友庵が姱叔の肌をつまんでも、痛みを感じていません。それを確認した友庵は、姱叔の頭部の瘤を剖き(さき)除去しました。珮川は、その一部始終を上記のように記しています。短い記述ですが、友庵の麻酔外科手術の様子を、的確に記しています。翌日になりました。
十日
使姱叔弟季侖(泰助、後沢井)、走告安二親、
姱叔至未牌(みはい、未の刻、午後二時から四時)、薬気始醒、瞻語(せ んご、うわごと)乃止、問其痛否、答曰、曽不知医之来、豈覚其痛楚(つうそ、痛み苦しみ)邪
姱叔の弟の季侖(泰助、後沢井)が、手術が成功したようだと走って親に告げに行きました。姱叔とはいえば、未の刻(午後二時から四時)になって、薬が醒め初めて、うわごとをやめました。痛かったかと聞くと、かって医者が来たことも知らない、痛みもまったく感じなかったと答えました。
十二日
又共往謝友菴
12日になって、もう手術が成功したことを確認した珮川は、友庵のもとに出かけて、有り難うございましたと、謝しています。この手術記事は、以上で終わりますが、この姱叔22歳のときの手術は、見事成功して、その1年後、姱叔は江戸昌平黌に学びにでかけます。やがて漢学者として著名になった西在三郎がその人です。在三郎は、江戸で活躍し、帰郷後、諫早からの帰途雪の深い多良岳で遭難してなくなりました。安政4年2月4日、55歳のときでした。手術後、約30年生きていました。不慮の死がなければもっと生きていたでしょう。
友庵の佐賀での麻酔による外科手術記事は、現在までのところ、この草場珮川日記にみえるだけです。史料がでてくるとよいと思います。在三郎の瘤の麻酔による除去手術を一回で成功させた友庵の力量は、かなり高かったとみられます。しかし、友庵がほとんど有名にならなかった理由は、珮川が最初に訪れた時にも病気であったことから推察できるように、友庵は病気がちで、この手術の5年後、39歳でなくなったからとみられます。が、もっと世に知られてよい人物と思います。
井上友庵の医療器具(その1)
◆『蓮池藩日誌』文化15年正月18日記事に、文化14年10月に出された井上友庵から藩への医療器具購入のための資金25両拝借願が記録されています。解読した原文は下に解読して貼り付けておきますが、大意は以下のようです。
私、井上友庵は去去年(文化12年)に名医である華岡青洲先生のもとへ医学稽古に出させていただきましたが、数箇条の相伝をうけるためにも、京都へ修業に行きなさいと先生に言われ、去年から京都でも学んでおります。相伝をうけて帰郷するにあたり、華岡流医療器具を購入しないと、郷里で御奉公も叶いません。(京都三条通りの安信に)見積もりをとりましたところ、高額でした。ただ、入門時にあまりにも多額の雑費がかかり、また京都でも諸費用がかかったため、このままでは購入がかないません。そのため25両を拝借いたしたくよろしくお願いします。返納は帰郷後3カ年、もしくは俸給のなかから引いていただいてもかまいません、文化14年10月、井上友庵、森川八郎右衛門様というものでした。
…
◆以下、京都三条通りの安信なる鍛冶師からの見積もりがありますが、結構多くの商品と値段がでており、長文となりますので、解読は次回にします。
◆名医といわれる外科の多くは、現在でも独自に工夫した外科道具を用意しています。華岡青洲もまた、自分の手にあった独自の外科道具を用意して、京都寺町の鍛冶師真龍軒安則に特注しています。もしかすると、三条通りの安信と同一の鍛冶師かもしれません。 ◆華岡青洲の門人に本間玄調がいます。その著『瘍科秘録』六巻之上に、青洲のメスと玄調のメスの違いがカラー図説で載っています(写真)。青洲のメスのほうが直刀風で、本間玄調は手が大きかったでしょうか。青洲より大ぶりです。
奉願口上覚
私儀外療未熟ニ御座候處より
紀州華岡随賢名医之趣、及
承候ニ付、暫年之間、随身稽古
仕度ニ付、御暇奉願候處、願通
被 仰付難有奉存候、依之
去々秋より罷越打部稽古出精
仕候処、大ニ心ヲ副、取立被呉、数
ケ条之相伝等、可有之処、文盲
ニ有之候而者、右相伝仕候而茂
其詮無之ニ付、医学修業仕
候様右師家より被申聞候故、去
秋より京都之方江茂罷出、双方
懸ケ候而、医学稽古仕居
申候、然処㝡前罷登候砌者
諸事稽古中、御助成ニ
不相成、勿論当御時節柄
過分之御当介被為拝領候故
右を以万事相整候心得ニ御座候
処、花岡家入門之砌、諸雑用
多有之、先生初同門中江茂
身祝之手数等有之、過分ニ入用
銀相増、扨又京都江茂数ケ所江
入門仕、是又雑費多有之存外之
金子入越、甚当惑仕、其上花岡
流之外療稽古仕候ニ付而者、右
流之療治道具所持不仕候而者
療治方可仕様無御座、右品々
相調候得者、過分銀高ニ而、別判
書付之通御座候、一躰者右ニ而
金不相揃候ニ而者、無御座右丈位
成共、無之而者罷下リ候而も、何之
御奉公茂出来不申候、当時御物入
多被為 在候得共、正金弐拾五両御
取替被差出被下度奉願候、然時ハ
御蔭を以、右療治道具相整
且又諸相伝等仕誠以難有
仕合奉存候、返納之義者、罷下
候而、両三年ニ御返納被 仰付
於被下者聊茂無間違御返上申
上義ニ御座候、自然相滞候節者
拝領米より御引当御返納可被成下、願
之通、被仰付被下候様、深重奉
願候、此旨、御国元江御取扱被仰届
被下候様御願仕義ニ御座候、猶委細
之義者口達仕候 己上
丑十月 井上友庵
森川八郎右衛門様 (『蓮池藩日誌』文化15年正月)
井上友庵の医療道具(2)
井上友庵が蓮池藩に提出した外科道具の見積書は以下の通りです。
驚くほどたくさんの道具が必要だったのです。友庵は25両の借用を願ったのですが、20両しか貸してもらえませんでした。が、なんとか工面してのこれら道具を購入したのでしょう。これらについて、次回からわかる範囲でどのような器具であったのか、紹介することにします。
外療道具直段附…
針類之分
一 三積針 壱本
代三匁五分
一 同直鍮管
代弐匁
一 金瘡針 尤取合 拾本
代拾五匁
一 癰切針 尤大形 壱本
代拾五匁
一 同 尤小形 壱本
代拾匁
一 ランセッタ 尤大形 壱枚
代拾匁
一 同 尤中形 壱枚
代八匁五分
一 同 尤小形 壱枚
代七匁五分
一 匕針 壱本
代三匁五分
一 三角針 壱本
代弐匁五分
一 口中三ツ道具
代拾匁五分
一 口中焼金 壱本
代四匁五分
一 焼金 但品々取合 六本
代三拾七匁
一 口中吹筒 尤真鍮 壱本
代四匁五分
一 口中剃刀 壱挺
代弐拾五匁
尤真鍮
一 曲頭管 壱本
代弐匁五分
一 眼療七ツ道具
代三拾弐匁
鋏類之分
但シ八寸
一 大関切鋏 壱挺
代四拾八匁
一 同七寸 壱挺
代参拾匁
一 同六寸 壱挺
代弐拾匁
一 長刀鋏 壱挺
代弐拾五匁
一 ソリ鋏 壱挺
代弐拾五匁
一 関切鋏 壱挺
代拾匁五分
一 同四寸 壱挺
代九匁五分
一 匕三切鋏 壱挺
代九匁五分
一 小ソリ鋏 壱挺
代拾弐匁
但大形
一 小手鋏 壱挺
代九匁五分
一 先細形 壱挺
代九匁五分
一 六指鋏 壱挺
代壱拾八匁
一 大毛引 壱挺
代拾八匁
一 小手毛引 壱挺
代拾五匁
一 直毛引 壱挺
代拾三匁
一 糸毛引 壱挺
代拾弐匁
但無双
一舌押 壱挺
代弐拾五匁
一 ヒストロス 壱本
代七匁五分
(メか)
一 コロンヒス 壱本
代六匁五分
但くじら
一 サクリ 弐本
代三匁五分
但銀細工男形
一 カテイトル 壱本
代五拾匁
但シ銀
一 同女ノ形 壱本
代八匁五分
但真鍮
一 スポイト 壱挺
代拾弐匁
右同
一 同小 壱挺
代拾八匁
一 ケット 壱挺
代三拾弐匁
一 八貫形 壱挺
代拾六匁
一 クイ貫 壱挺
代弐拾匁
一 センケツ刀 壱本
代弐拾匁
一 リョウシ刀 壱本
代弐拾匁
一 曲生
代六匁五分
一 ホネ引ノコ切 壱挺
代拾五匁
一 同 壱挺
代拾匁
一 ホネヌキ 壱本
代七匁五分
一 ウミカキ 壱本
代四匁五分
一 ウミカキ
代四匁五分
大形柳
一 鉄へら 壱本
代拾匁
一 口柄入 壱本
代七匁五分
大柄入
一 鉄へら 壱本
代拾匁五分
大中小
一 同常形 三本
代拾匁五分
一 ハチモン 壱挺
代四拾五匁
但シ赤金
一 ランビキ 壱組
代六拾五匁
一 膏薬鍋 壱芍
代五拾匁
一 療治台 壱組
代七拾五匁
〆銀高壱貫七拾八匁五分
差引
残正銀五百四拾六匁五分
代金八両壱分ト九匁四分六厘壱毛
右之通ニ御座候 已上
京都三条通 安信
九月拾五日
井上友庵 様