浅田宗伯の大奥診療記録(5) 和宮

2015年09月20日

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◆浅田宗伯の大奥診療記録で、天璋院、本寿院、実成院とくれば、今までに出てきていないあの人はどうしているのだろう。気になりますね。そう、和宮(1846~1877)です。◆和宮は、江戸城開城後は、御三卿の清水家に住んでいたのですが、京都へ帰りたい思いが強く、明治2年(1869年)1月18日にとうとう京都へ向かって出発し、明治7年7月まで京都に在住していました。◆しかし、東京遷都以来、明治天皇が東京にいるので、東京在住の皇族らのすすめもあって、明治7年7月に東京に戻ります。麻布の元八戸藩主屋敷に居住し、天璋院や徳川家達などとも広く交友するようになります。◆ところが、東京に戻った頃から、脚気の症状があらわれます。夫の家茂と同様、甘い物が好きなのが、症状を悪化させたとも言われます。明治10年に転地療養のため、箱根に移るのですが、すでに症状は悪化しており、同年の9月2日に、脚気衝心によって亡くなります。32歳の若さでした。◆ですから、明治3年から明治5年までの浅田宗伯の診療記録には出てこないのです。と思っていたら、それがなんと出てきたのです。その記事が以下です。

 一 静寛院宮様
  奇応丸 壱匁 同日(11月22日)
◆あれあれ、京都にいるはずの和宮がでてくるのはなぜでしょうか。では、その診療記事の全体を示しましょう。
 
一 松御殿
  奇応丸 壱匁 十一月廿二日

一 本寿院様
  奇応丸 五分 同日

一 実成院様
  奇応丸 五分 同日

一 静寛院宮様
  奇応丸 壱匁 同日
◆なんと、4人が同日に、浅田宗伯から奇応丸を処方されてたのです。奇応丸は、朝鮮人参を主成分として、熊肝、沈香、麝香などを調合した薬で、気付けや小児の疳によく効くとされて、全国に広く知られていました。
◆現在の佐賀県鳥栖周辺に田代があります。この地は対馬藩の飛び地で、この朝鮮人参を使った奇応丸を主に、売薬業がさかえ、田代売薬として、九州一帯を席巻したものです。
◆どうやら、天璋院や和宮らが4人一緒ということは、何かこの日前後に大事な行事が東京であったのでしょう。そのへんはまだ調べ切れていませんが、和宮の動向に新しい事実が分かるかもしれませんね。ますます、9月27日のシンポが楽しみになりますね。それではまた

浅田宗伯の大奥診療記録(4)、実成院、七宝の間

  2015年09月20日

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浅田宗伯の診療記録には、天璋院のほかに本寿院ともうひとり実成院が出てくる。実成院(1821~1904)は、御三家の紀州徳川家の藩主徳川斉順の側室で、14代将軍となった徳川家茂の生母である。名前は美佐(みさ)、操子。美喜、於美喜の方ともいう。江戸赤坂の紀州藩邸で菊千代(のちの慶福・家茂)を生んだ。家茂が将軍になったことで、江戸城大奥にはいったのだが、すでに、新将軍生母の住まいである新御殿には家定生母本寿院が住み、御台所御殿には先代将軍家定御台所の天璋院が居住していたため、実成院は七宝の間に居住した。慶応4(1868)年の江戸城開城にともない、静寛院宮(和宮)とともに清水邸(田安徳川家説もあり)の屋敷に移っていた。しかし、和宮が明治2年に京都へ移ったため、天璋院らと一緒に住むことになったとみられる。明治10年に千駄ケ谷に徳川邸ができるとそこに移り、1904年に84歳で死去。寛永寺に本寿院と並んで葬られている。法名は実成院殿清操妙壽大姉という。診療記録には、次のようにある。
一 七宝之間 実成院様
  御油薬 中黄 中貝 龍騰飲加紅藍 将中大 九月晦

実成院が七宝の間というのは、先にのべたように、江戸城大奥での実成院の住んでいた間のことである。江戸城開城後も、大奥当時の部屋の名前を使っていた。実成院の処方は、油薬で中黄を使っている。中黄は中黄膏のことで、華岡青洲が編み出した皮膚病やかゆみ止めの薬で、切れ痔やいぼ痔にも効くといわれる。中貝とはサジのかわりに中程度の貝を使うこと。龍騰飲とは、産科の賀川家の処方で、大黄5分、黄連・川芎などを各1銭調合したもので、大黄が、消炎・止血 ・緩下作用があり、瀉下剤として便秘薬に配合されるので、もしかすると、ひょっとすると、実成院は、痔ではなかったかと推測される。でも単なる湿疹かぶれのたぐいかもしれないので、あまり期待しないほうがよいかも。将中大はよくわからないが、中将湯を多めに処方したということではないか。中将湯は婦人薬で血の道症、更年期障害、不安神経症などに効くという。ツムラの中将湯がいまでも著名。実成院は明治4年(1871)は50歳、痔で更年期障害で不眠症でもあったらしい。これらも野中源一郎さんが、正確に分析してくれるだろう。9月27日のシンポがますます楽しみである。

浅田宗伯の大奥診療記録(3)、本寿院の病気

2015年09月20日

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本寿院(1807~1885)は13代将軍家定の生母。篤姫が家定に嫁いだときいろいろ姑として意地悪をしたらしい。しかし、江戸城開城後は、篤姫を頼って、一緒に行動を共にしている。明治4年の8月2日、26日、10月3日、12月16日に、宗伯は本寿院を診察している。黄連湯(オウレントウ)は、吐き気や嘔吐、胃もたれ、消化不良などを改善するのもの。沈香降気湯は、冷え性の人が冷えて気や血の巡りが悪くなって生じた下腹部痛のときに使う。生理痛にも使うという。左金丸は、胃痛や食欲不振の治療などに使用する。和気飲は、情緒安定と食欲増進作用がある。本寿院は明治4年段階は64才。江戸時代の平均寿命は約40歳だから、もう高齢の部類。かって篤姫をいじこじした元気はすでになく、食欲不振で消化不良で更年期障害をおこしてあちこち傷んでいそうだ。

一 本寿院様
  黄連湯加茯 七 沈香降気合左金紅花 五 八月二日
     和気飲 十貼 八月二六日 同十貼 十月三日、同十五貼 十二月十六日
  付 上石灰 五匁 吉益牡蠣二匁五分 研末鉛丹入桃花ニス

浅田宗伯の大奥診療記録(2)、天璋院篤姫、風邪気

2015年09月20日

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◆(2015年9月15日の記録)ようやく、江戸城開城後の天璋院の動きが少しずつ見えてきた。保科順子『花菱徳川邸思い出話』によると「天璋院は千代田城開城後、いったん一橋家に落ち着いたが、その後、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸と替わり、赤坂溜池に近い福吉町の旧相良越前守邸に移る。ここで静岡から戻った家達と暮らすことになるが、さらに明治十(一八七七)年新築の千駄ヶ谷徳川邸に移り、そこが終生の住まいとなった。」とある。◆さらに「明治四年の廃藩置県で幼い地位・家達は免官され、同年末、東京・赤坂福吉町の相良邸(旧越前守)邸に落ち着くことになる。ここには、牛込戸山から移った天璋院はじめ、実成院、本寿院もおり、ことに母親代わりの天璋院からは、明治十(一八七七)年六月に、英国に留学するまでの六年余、十五才まで薫陶をうけた。」とある。◆とすれば、浅田宗伯の診療記録は、明治3年正月から明治5年までであるから、少なくとも明治4年段階からは、一橋家下屋敷ではなく、旧相良邸での住んでいたことがわかる。あとは、紀州徳川家の戸山邸へ移った時期と相良邸へ移った時期を調べる必要がある。◆天璋院は、戸山邸では大奥の松御殿と同じくお局様と呼ばれていたらしい。明治3年正月ごろの診療記録には、たとえば、以下のようにある。
 一 松御殿 御局様 当分之内内薬
導滞通経湯
蘊要柴葛解肌湯 苓夏 中大
柴葛芍
本草彙言、冶肝内熱方 加黄連   兼加味寧肝湯 五貼 橘皮代青皮 十      沈麝丸二分入  兼柳梅丸 五貼
  ソムリノ膏 葛本壱匁 白芷 壱匁 対証柴胡枳桔湯 漢枳桔中大
  通丸 大甘丸 如蘭煎 五貼      萋中

通経湯は血行をよくする働きがあり、柴葛解肌湯(さいかつげきかとう)は頭痛、口乾や風邪症状に効く。どうやらこのとき天璋院は風邪をひいていたらしい。
  

浅田宗伯の大奥診療記録(1)天璋院篤姫


 浅田宗伯の大奥診療記録(1)、天璋院

2015年09月20日

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◆(2015年9月13日)、午前中は、9月27日の野中家シンポの準備を行った。浅田宗伯の大奥診療記録が佐賀市の野中烏犀圓に所蔵されていた。ほかにも浅田宗伯自筆の『医心方』もあるので、いつの日か、野中家で、この記録を入手し、保管していたものであろう。なかに松御殿御局様とあるのが、天璋院篤姫である。篤姫は、天保6年12月19日(1836年2月5日)生まれで、 明治16年(1883年)11月20日)に亡くなっている。
◆浅田宗伯の天璋院篤姫診療記録は、明治3年(1870)から明治5年(1872)までの記録なので、天璋院篤姫が、数えで35歳から37歳ごろの診療記録となっている。篤姫の江戸城退去後の屋敷が転々としているので、診療年月と場所が、正確に特定できないでいる。篤姫は慶応4年3月10日に、本寿院とともに、江戸城内のいったん一橋家にうつり、すぐに築地の一橋家下屋敷へ、あとは、紀伊家青山邸、尾張藩下屋敷の戸山邸、明治4年からは同年に静岡から戻った家達とともに赤坂溜池に近い福吉町の旧相良藩邸に落ち着き、明治10年に千駄ヶ谷に徳川宗家の御殿が完成したので、そこに移り、そこが終のすみかとなった。明治4年段階の診療記録は旧相良邸であることは間違いないだろう。
◆浅田宗伯の天璋院篤姫診療記録は、明治3年から明治5年までの記録で、天璋院と行動を共にした本寿院(家定生母)は何度も出てくるが、静寛院宮(和宮)も一度だけ出てくる。和宮は明治2年1月17日から明治7年7月まで京都に帰っていたので、本来は江戸にいないはずだが、明治4年末ごろに一度、江戸にくることがあったのかもしれないが、詳細は不明である。また慶応4年段階で、和宮と一緒に清水家に移ったはずの実成院の診療記録もこの記録の後半(明治4年始め頃か)にでてくるので、なかなか大奥の中心人物のその後の動きを正確に捉えることが難しい。篤姫らがどんな症状でどんな診療をうけていたかは、野中源一郎さんが正確に分析してくれるので、歴史的背景の解明は私の仕事。9月27日のシンポはあと10日あまり、準備を急いでいる。
  

医学展示 米沢藩医家の系譜

米沢藩医家展示

2015年10月01日

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◆米沢の上杉博物館で、「米沢藩医家の系譜」展が9月19日から11月23日まで開催されています。図録は、米沢藩の医家堀内家文書やシーボルト門人伊東省迪資料の紹介のほか、海原亮(住友史料館)や織田毅(シーボルト記念館)らの寄稿もあります。◆堀内家第5代堀内素堂は江戸に出て蘭方医坪井信道に師事し、伊東玄朴と一緒に診療活動を続けます。そしてドイツ人医師フーヘランドの小児科医書のオランダ語版を『幼々精義』(第1輯天保14年、第2輯弘化2年)に刊行します。この第1輯跋序文は坪井信道、跋文を杉田立卿、第2輯序文を箕作阮甫、跋文を伊東玄朴が書いており、我が国最初の小児科医書となっています。◆展示も図録も米沢藩医学の西洋医学導入の過程が、歴史的に見える展示になっています。米沢藩医家水野家門人姓名録からは、米沢の医家たちの修学過程も見えます。藩医学校好生堂蔵書目録からは、米沢藩の医家らが蔵書を借用して勉強していた様子も水野家門人姓名録
うかがえます。近年にない充実した医学展示となっています。

尾張藩社会の総合研究

2015年09月29日

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◆岸野俊彦編『尾張藩社会の総合研究』(清文堂書店、2015年9月20日、11500円+税)が出た。尾張藩を総合的に扱ってもう6冊目である。岸野氏の構想力と尾張藩研究者の人材の豊かさにあらためて脱帽である。◆このシリーズを貫くコンセプトは、資料の徹底した読み込みと多角的分析にある。そのために、多面的な分野に関心をもつ研究者たちが継続的な研究会を開催して、その論文の質を高めていることにも敬服する。◆たとえば、種田祐司「川伊藤家の尾張藩士への貸付について」は、尾張藩士への家中貸の実態を借金証文等により解明しようとしている。その統一像は描けていないが、その複雑な貸借関係が明らかになってきた。◆こうした経済史研究は膨大な史料読解と分析を伴うので、従来の歴史研究においては敬遠されがちで、したがって研究蓄積も少ない。諸藩の武士の困窮実態を解明する手がかりになろう。◆いま、佐賀藩でも地域学歴史文化研究センターの伊藤昭弘さんが、佐賀藩御用商人でもあった薬種商野中家の経営実態を分析し、9月27日の野中家シンポでも発表予定である。佐賀藩の総合的研究も藤野保さんの段階から新たなステージへと展開しつつあるし、しなくてはならない。◆本書の掲載論文の概要も写真で紹介した。また、中野節子元金沢大学教授の紹介文がすぐれた書評にもなっているのでこれも写真掲載しておく。◆研究者以外ではなかなか入手しにくい価格ではあるが、図書館にはぜひ置いていただき、研究のネットワーク化と諸藩の総合的研究の進展を望みたい。その意味で本書は大きな指針的研究である。